┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ╓══╦══╖ ≈☆~一起HI☆≈ ┃ ┃ ╭╩╮看‖书╭╩╮ ぃ ● ●  ぃ ┃ ┃ ╲╱  ‖  ╲╱ ぃ /■\/■\ ぃ ┃ ┃ ╰☆快来╨书香☆╮ ぃ└┬──┬┘ぃ ┃ ┃ ┃ ┃ 小说下载尽在http://www.bookben.cn - 手机访问 m.bookben.cn ┃ ┃ 书本网【天煞孤星】整理! ┃ 【本作品来自互联网,本人不做任何负责】 内容版权归作者所有! ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛    秘密   东野圭吾   -------------------------------------------------------   【テキスト中に现れる记号について】   《》:ルビ   (例)贔屓《ひいき》の力士が胜ったかどうか   -------------------------------------------------------   [#ここから7字下げ]   1   [#ここで字下げ终わり]   予感めいたものなど、何ひとつなかった。   この日夜勤明けで、午前八时ちょうどに帰宅した平介は、四畳半の和室に入るなりテレビのスイッチを入れた。しかしそれは昨日の大相扑の结果を知りたかったからにほかならなかった。今年四十歳になる平介は、これまでの三十九年余りがそうであったように、今日もまた平凡で穏やかな一日になるに违いないと信じていた。いや信じるというより、それはもう彼にとって既定の事実だった。ピラミッドよりも动かしがたいものだった。   だからテレビのチャンネルを合わせている时も、画面から自分が惊くようなニュースが流れてくることなど予想していなかったし、仮に世间を騒がせるような事件が起きていたにしても、それは自分とは直接関系のないものだと决めてかかっていた。   彼は夜勤明けには必ず见る番组にチャンネルを合わせた。芸能界のスキャンダルやスポーツの结果、昨日起こった事件などを、浅く広く教えてくれる番组だった。司会を务めているのは、主妇に人気のあるフリーのアナウンサーだ。人のいいおじさんといった风貌のその司会者が、平介は嫌いではなかった。   だが画面にまず映し出されたのは、その司会者のいつもの笑顔ではなく、どこかの雪山だった。ヘリコプターから撮影しているらしく、レポートしている男性の声に、ローターを回すエンジン音がかぶっている。   何かあったのかな、とだけ平介は思った。何があったのか、详しく知ろうという気は起きなかった。当面彼が知りたいことは、贔屓《ひいき》の力士が胜ったかどうかということだけだった。その力士には、今场所大関昇进の梦がかかっているのだ。   平介は胸に社名の入ったジャンパーをハンガーにかけて壁に吊し、手を擦り合わせながら隣の台所に足を踏み入れた。三月半ばとはいえ、一日中火の気がなかっただけに、板张りの床は冷えきっていた。彼はあわててスリッパを履いた。チューリップの柄がついたスリッパだ。   彼はまず冷蔵库を开けた。真ん中の棚に、皿に盛った鶏の唐扬げとポテトサラダが入っていた。その二つを取り出し、唐扬げのほうを电子レンジに放り込み、タイマーをセットしてスタートスイッチを押した。さらに薬缶《やかん》に水を入れると、火にかけた。汤が沸くのを待つ间に、お椀を洗いかごから见つけだし、食器棚の引き出しからインスタント味噌汁の袋を取り出した。味噌汁の袋の口を破り、中身をお椀の中に入れた。冷蔵库の中には、ほかにハンバーグとビーフシチューが入っている。明日の朝はハンバーグにしよう、と彼は今から决めていた。   平介は、ある自动车部品メーカーの生産工场で働いていた。一昨年から班长を任されている。彼の职场では、班ごとに二周间の日勤と一周间の夜勤が缲り返されるようにスケジュールが组まれていた。そして今周は彼の班が夜勤の番だった。   生活のリズムを完全に狂わせられる夜勤は、まだ四十歳前の彼にとっても肉体的に辛いものがあったが、楽しみが全くないわけではなかった。一つは手当が出ることであり、もう一つは妻子と一绪に食事が出来るということだった。   この年、つまり一九八五年、世间の多くの企业と同様、平介の会社も极めて経営状态がよかった。生産量は顺调に伸びているし、设备投资も活発だ。必然的に、平介たち现场の人间は忙しくなる。正规の终业时刻は五时半だが、一时间二时间の残业は当たり前、时には三时间ということさえあった。そうなると残业手当も半端な额ではなくなる。基本给よりも残业分のほうが多いというような事态も、珍しくなくなっていた。   だがそれだけ长く会社にいるということは、家にいる时间が短くなることを意味する。帰りが九时十时になってしまう平介は、平日に妻の直子や娘の藻奈美《もなみ》と一绪に夕食をとることができなかった。   その点夜勤の场合、午前八时には帰宅できる。それはちょうど、藻奈美が朝食をとっている顷だった。间もなく六年生になる一人娘と他爱のない话をしながら妻の手料理を食べることは、平介にとって何物にも代え难い楽しみの一つなのだ。夜勤の疲れなど、娘の笑顔を见ると、たちまち消し飞んでしまう。   それだけに、夜勤明けに一人で朝食をとるというのは味気ないものだった。そしてこの寂しい朝食は、今日から三日続くことになっていた。直子が、藻奈美を连れて长野の実家に帰ってしまったからだ。彼女の従兄が病死したとかで、その告别式に出席するためだった。末期癌とかで、死期の近いことは以前から伝えられていたので、突然の讣报というわけでもなかった。直子などは、今回の事态に备えて、新しい丧服を用意していたほどなのだ。   元々彼女一人だけが长野に行くことになっていた。ところが直前になって、藻奈美も行きたいといいだした。向こうでスキーをやりたいのだという。直子の実家のそばには小さなスキー场がいくつもあり、この冬にそこで初体験して以来、藻奈美はすっかりスキーの魅力にとりつかれてしまっていた。   せっかくの春休みというのに、仕事が忙しくてまともな家族サービスなどとてもしてやれそうにない平介としては、渡りに船といえなくもなかった。それで多少寂しいのは我慢して、藻奈美も一绪に行かせることにしたのだった。それに考えてみれば、もし藻奈美が行かなければ、平介が夜勤をしている间、彼女は一人で夜を过ごさねばならなかった。   薬缶の汤が沸くと、平介はインスタントの味噌汁を作り、すでに温め终わっている鶏の唐扬げを电子レンジから取り出した。そしてそれらをトレイに载せて、隣の和室にある卓袱台《ちゃぶだい》に运んだ。唐扬げもポテトサラダも、明日食べる予定のハンバーグも、明後日のメニューであるビーフシチューも、直子が作っていってくれたものだった。平介は炊事と呼べるものが、殆ど何も出来なかったのだ。ご饭でさえ、直子が出発前に大量に炊いていってくれたものだ。あとはそれをジャーに入れっぱなしにして、毎日少しずつ食べる予定だった。三日目を迎える顷には、ジャーの中の御饭は黄ばんでいるに违いなかったが、そのことで文句をいう资格は平介にはなかった。   卓袱台の上に料理を并べ终えると、彼は胡座《あぐら》をかいて座った。まず味噌汁を啜《すす》り、少し迷ってから唐扬げに箸を伸ばした。唐扬げは直子の得意料理であり、平介の大好物でもあった。   惯れ亲しんだ味を楽しみながら、彼はテレビのボリュームを上げた。画面の中ではいつもの司会者が何かしゃべっていた。ただ、その顔にいつもの笑いはなかった。表情はどこか硬く、紧张して见えた。それでも平介は、まだそのことを重视してはいなかった。昨日のスポーツの结果はまだなのかなと、ぼんやり考えていただけだ。いつもは夜勤の途中にある休憩时间にテレビを见たりして相扑の结果を知るのだが、昨夜はたまたま见られなかったのだ。   「それではここで、もう一度现场の状况を讯いてみましょう。ヤマモトさん、闻こえますか?」   司会者の言叶の後、画面が切り替わった。先程の雪山のようだった。スキーウェアを着た若い男性レポーターが、少しひきつった表情でカメラのほうを向いて立っている。その後ろでは、黒い防寒服姿の男たちが、せわしなく动き回っていた。   「はい、こちら现场です。依然として、まだ乗客の捜索が続いております。现在までに発见された人数は、乗客が四十七名、运転手二名となっております。バス会社からの情报によりますと、このバスに乗っていた乗客数は全部で五十三名ということですから、まだ六人の方が、见つかっていないことになります」   ここで平介は、初めて真面目に画面を见ようという気になった。バス、という言叶が彼の心に引っかかったのだ。それでもまだ、强い関心を持ったというほどではなかった。ポテトサラダを口に运ぶ动作は止まらなかった。   「ヤマモトさん、それで、见つかった方々の安否のほうはどうですか。先程のお话では、すでにかなりの方がお亡くなりになったということでしたが」スタジオの司会者が讯いた。   「ええと、现在确认されております段阶では、遗体で発见された方を含めまして、二十六人の方がお亡くなりになられております。残りの方は、すべて地元の病院に运ばれました」メモを见ながらレポーターはいった。「ただ、生き残った方々も、殆どの人がかなりの重伤を负っておられ、非常に危険な状态だということです。现在も、医师たちによる悬命の治疗が続いています」   「それは心配ですねえ」司会者が、感情たっぷりにいった。   この时、画面の右下に手书きのテロップが出た。长野でスキーバスが転落事故、というものだった。   ここで初めて平介は手を止めた。そしてテレビのリモコンを掴むと、チャンネルを変えてみた。どのチャンネルでも、同じような映像が映し出されていた。彼は最终的に、NHKに合わせた。ちょうど女性アナウンサーが何かをしゃべろうとするところだった。   「引き続き、バス転落事故に関するニュースをお届けします。今朝六时顷、长野県长野市内の国道で、志贺高原を目指していた东京のスキーバスが崖から転落するという事故が起こりました。このバスは、东京に本社のある大黒交通のスキーバスで――」   そこまで闻いたところで、平介の头は軽い混乱を起こした。いくつかのキーワードが、立て続けに耳に飞び込んできたからだった。志贺高原、スキーバス、そして大黒交通。   今回実家に帰るにあたり、直子が悩んだことがあった。それはどういう交通手段を便うかということだった。电车では、いささか不便なところに実家はあった。いつもは平介も一绪だから、彼の运転する十年来のマイカーがその交通手段だった。しかし直子は运転ができなかった。   不便でも电车を使うしかないだろう、というのが、とりあえず出された结论だ。ところがすぐに直子は、全く别の方法を见つけだした。若者たちが利用するスキーバスに便乗できないかということだった。シーズン中スキーバスは、国鉄东京駅前などから、多い日で二百本ほどが出発している。   たまたま直子の友人に、旅行代理店に勤めている女性がいたので、彼女に手配を頼んだ。するとちょうど空席のあるスキーバスが见つかった。グループ客が直前になってキャンセルしたということだった。   「ついてたわあ。これで後は、志贺高原まで迎えに来てもらえればいいんだもの。重い荷物を持って歩く必要もないし」空席があったという知らせを受けた直後、直子は胸の前で手を叩いて喜んでいた。   たしか、と平介はその时の记忆を辿った。それも、暗闇で阶段を下りるように、おそるおそる辿っていった。   大黒交通、といっていたのではないか。东京駅を十一时に出る、志贺高原行きのスキーバスだ、と。   全身が、かっと热くなった。続いて、じっとりと汗が渗み出した。心臓の鼓动が激しくなり、耳の後ろのあたりが、どっくんどっくんと脉打ち始めた。   一つのバス会社から、同じ场所に行くスキーバスが一晩に何本も出るとは考えられなかった。   平介はテレビににじり寄った。どんな些细な情报でも闻き逃すまいとした。   「それでは、亡くなられた方のうち、现在までに身元が身分证明书などで判明した方のお名前は次のとおりです」   画面に人の名前がずらりと并んだ。それを女性アナウンサーが、ゆっくりと読み上げていく。平介にとっては、知らない名前、闻いたことのない名前ばかりだった。   食欲は完全になくなっていたし、口の中はからからに渇いていたが、それでもまだ彼は、この悲剧が自分たちに関系しているかもしれないという実感を、完全には掴みきれないでいた。杉田直子や杉田藻奈美といった名前が読み上げられることを恐れながら、まさかそんなことはあるはずがないと、心の大部分では思っていた。自分たちにそんな悲剧が起こるはずがない――。   女性アナウンサーの声が止まった。身元のわかっている死者の名前が、すべて読み上げられたわけだ。直子の名前も藻奈美の名もなかった。平介は太く长い吐息をついたが、それでもまだ安心するわけにはいかなかった。身元のわかっていない者が、十人以上いるからだ。平介は、妻子たちが身元のわかるものを所持していたかどうかを考えた。だが明快な答えを见つけだすことはできなかった。   平介はリビングボードの上に置かれた电话机に手を伸ばした。直子の実家に电话してみようと思ったのだ。もしかしたらすでに到着していて、平介が无駄に心配しているだけかもしれなかった。いや、そうであることを彼は祈った。   しかし受话器を取り、番号ボタンを押そうとしたところで彼の指は止まった。电话番号がどうしても思い出せないのだ。今までこんなことは一度もなかった。直子の実家の番号は、何かの语吕合わせにすると非常に覚えやすく、事実覚えていたはずなのだ。ところがその语吕合わせ自体、忘れてしまっている。   仕方なく彼は、住所録を求めてそばのカラーボックスの中を探した。それはぎっしりと积まれた雑志の下から见つかった。急いで『か』の贡を开ける。直子の旧姓は笠原というのだ。   ようやく目的の番号を见つけだした。局番の後の最後の四桁が、7053だった。それを见ても、どういう语吕合わせだったのか、思い出せなかった。   改めて受话器を取り、番号ボタンを押そうとした时だった。テレビの中のアナウンサーがいった。   「ただ今入りました情报によりますと、先程长野中央病院に运ばれた亲子と思われる女性と女の子の二人は、女の子の持っていたハンカチのネームから、スギタという名字らしいということです。缲り返します。先程长野中央病院に运ばれた――」   平介は受话器を置いた。そしてその场で正座をした。   アナウンサーの声が耳に入らなくなっていた。耳鸣りがする。しばらくして、それが自分の念り声であることに彼は気づいた。   ああ、そうだ、と彼は思った。   7053は、ナァ〕サンと覚えておくんだった――。   その二秒後、彼は激しい势いで立ち上がった。   [#ここから7字下げ]   2   [#ここで字下げ终わり]   惯れない雪道を运転し、平介が长野市内にある病院に着いたのは、夕方の六时を少し过ぎた顷だった。会社に连络したり、病院の位置を确认したりしているうちに、出発も遅れてしまったのだ。   三月だというのに、驻车场の隅には、寄せられた雪がどっさり残っていた。その雪にバンパーを少し突っ込む形で、平介は自分の车を停めた。   「平介さんっ」   彼が病院の玄関をくぐると、すぐに谁かが声をかけてきた。直子の姉の容子が駆け寄ってくるのが见えた。ジーンズにセーターという出で立ちで、化粧はしていないようだった。   容子は婿养子をとり、実家の荞麦屋を継いでいる。   「二人の客体は?」挨拶もなしに、平介は寻ねた。   容子とは、家を出る前に电话で话している。彼女も当然事故のことは知っていて、何度か彼の家に电话をかけたらしい。だがまだ彼が帰宅していなかったので、连络がつかなかったわけだ。   「まだ意识が戻らないんだって。今も、必死で手当してもらってるみたいだけれど」   いつもは风吕上がりのように血色のいい义姉の頬が、ひどく青ざめていた。彼女が眉间に皱を寄せた顔というのを、平介はこれまでに见たことがなかった。   「そうなんですか……」   长椅子の并んでいる待合室のほうで、谁かが立ち上がった。见ると、义父の三郎だった。隣に容子の亭主である富雄もいる。   三郎は顔を歪めながら近づいてきた。そして平介を见て、何度も头を下げた。それは彼に対して挨拶をしているのではなかった。   「平介さん、すみません。ほんとにすみません」三郎は谢っていた。「わしが、葬式に出ろなんてことをいわなきゃあ、こんなことにはならなかった。わしの责任だ」   小柄で痩せている三郎の身体が、一层缩んで见えた。急激に老け込んだようでもあった。ふだん、豪快に荞麦をうっている面影は、今の彼にはなかった。   「そんなこと、谢らないでください。二人だけで帰らせた私にも责任があります。それに、まだ助からないと决まったわけじゃないんでしょう?」   「そうよ、お父さん、今は二人が助かることを祈ってればいいのよ」   容子がそういった时、平介の视界の端に白いものが入った。医者らしい中年男性が、廊下の角から现れたのだ。   「あっ、先生」容子がその医者に駆け寄った。「どうでしょうか。二人の様子は」   どうやらこの医者が、直子たちを担当しているようだ。   「いや、それが――」といったところで、医者の目が平介に向けられた。そして、「御主人ですか」と讯いてきた。   はい、と平介は答えた。紧张のため、声がかすれていた。   「ちょっとこちらへ」と医者はいった。平介は全身を强张らせて、医者の後についていった。   案内されたのは二人が治疗されている部屋ではなく、小さな诊察室だった。レントゲン写真が何枚も吊されている。そのうちの半分以上は头部を写したものだった。直子のものか、藻奈美のものか、二人のものが混じってるのか、それとも全く别人のものなのか、平介にはわからなかった。   「率直に申し上げて」立ったまま医者は口を开いた。どこか苦しげな口调だ。「非常に厳しい状况です」   「どちらがですか」平介も立ったまま寻ねた。「妻と娘の、どちらが?」   だがこの质问に医者は即答しなかった。平介から目をそらし、口を軽く开いたまま、迷ったように静止した。   それで平介は事态を悟った。「どちらも……ですか」   医者は小さく颔いた。   「奥さんのほうは外伤がひどいのです。背中にガラス片などが多数突き刺さっていて、その中の一つが心臓に达していました。助け出された时点で、すでに大量の出血があったのです。ふつうなら、失血死していてもおかしくない状态でした。あとはその奇迹的な体力が、どこまで保つかということです。なんとか回复に向かってくれればと念じているところです」   「娘のほうは?」   「お嬢さんのほうは」といって、医者は唇を舐めた。「外伤は全くといっていいほどありませんでした。ただ全身を圧迫されていたことにより、呼吸ができなかったようです。それで、脳に影响が……」   「脳……」   壁际に并んでいる头盖骨のレントゲン写真が平介の目に入った。   「そうすると、结局、どういうことですか」と彼は讯いた。   「现在、人工呼吸器等で何とか生命は维持していますが、このまま意识が戻らない可能性のほうが强いと思われます」感情を杀した声で医师はいった。   「それは、つまり、植物状态というやつですか」   ええ、と医师は静かに答えた。   全身の血が逆流するのを平介は感じた。何かしゃべろうとしたが、顔面は胶《にかわ》で固めたように强张っていた。そのくせ唇は震えていた。そして奥歯ががちがちと鸣った。次の瞬间、彼は床に座り込んでいた。身体中の力が抜けてしまったからだ。手足が氷のように冷たくなっていった。立ち上がる気力など、どこからも出てこなかった。   「杉田さん……」医师が平介の肩に手を置いた。   「先生っ」平介はその场で正座した。「どうか、救ってください。何とかしてください。助けていただけるのでしたら、どんなことでもします。いくら金がかかってもいい。あの二人の命にかえられるなら、何だって……お愿いします」彼は土下座をしていた。リノリュームの床に额を押しつけていた。   「杉田さん、顔を上げてください」   医师がいった时、「先生、アンザイ先生」と女性の呼ぶ声が闻こえた。平介のそばにいた医师が、ドアのところへ行った。   「どうした?」   「大人の女性のほうの脉が、突然弱ってきました」   平介は顔を上げた。大人の女性とは、直子のことではないのか。   「わかった、すぐに行く」医师はそういった後、平介のほうを振り返った。「皆さんのところに戻っていてください」   「よろしくお愿いします」出ていく医师の背中に向かって、平助はもう一度头を下げた。   待合室に戻ると、容子がすぐに駆け寄ってきた。   「平介さん、先生のお话はどういう……」   平介は気丈夫なところを见せようとした。だが顔が歪むのをどうすることもできなかった。   「それが、あまりよくはないみたいで……」   ああ、といって容子は顔を両手で覆った。长椅子に座っていた三郎と富雄も首をうなだれた。   「杉田さん、杉田さん」廊下を看护妇が走ってきた。   「どうしました」と平介は讯いた。   「奥様が呼んでおられるんです。すぐに行ってあげてください」   「直子が?」   「こちらです」   看护妇が廊下を逆に走りだした。平介も後を追って駆けだした。   集中治疗室というプレートの贴られた部屋の前で看护妇は止まり、ドアを开けた。旦那さんです、と中の者にいっている。入ってもらいなさい、というくぐもった声。   看护妇に促され、平介は部屋の中に足を踏み入れた。   二つのベッドが目に入った。向かって右侧のベッドに寝かされているのは、藻奈美にほかならなかった。その寝顔は、少し前に家で见たものと何ら変わらなかった。今にも目を覚ましそうな気配が漂っている。だが彼女の身体に取り付けられた器具のものものしさが、平介を现実に引き戻した。   そして左侧のベッドには直子が横たわっていた。こちらは重伤であることが一目でわかった。头や上半身に包帯が巻かれていたからだ。   直子の傍らには三人の医师が立っていた。彼等は平介のために道を开けるように、すっとベッドから离れた。   平介はゆっくりとベッドに近づいていった。直子は目を闭じていた。その顔は意外にも无伤だった。それが唯一の救いであるように、彼には思えた。   直子、と呼びかけようとした时、彼女の睑が开いた。その动きすらも弱々しく感じられた。   直子の唇がかすかに动いた。声は闻こえなかった。しかし平介には、妻のいいたいことがわかった。「藻奈美は?」と彼女は讯いたのだ。   「大丈夫だ。藻奈美は大丈夫だぞ」と彼は直子の耳元に向かっていった。   彼女の表情に、安堵の色が浮かんだのを平介は见た。さらに彼女がまた唇を动かした。会いたい、そういっていた。   「よし、今すぐ会わせてやるからな」   平介はしゃがみこみ、ベッドの脚にキャスターがついていることを确认すると、そのストッパーを外し、ベッドごと动かし始めた。「杉田さん」と看护妇が声をかけたが、「いいんだ」と医师の一人が制した。   平介は直子のベッドを、藻奈美の横に寄せた。そして直子の右手を取り、藻奈美の手を握らせた。   「藻奈美の手だぞ」と彼は妻にいい、繋がれた二人の手を、両手で包み込んだ。   直子の唇が、ふっと缓んだ。圣母のような微笑に、平介には见えた。   次の瞬间、娘の手を握っていた直子の手が、ぼうっと暧かくなった。さらに一瞬の後には、その手から力が失われていった。平介は、はっとして彼女の顔を见た。   涙が一筋、彼女の目から頬を伝った。そしてそれで最後の仕事を终えたように、その目はゆっくりと闭じられた。   「あっ、直子、なおこっ」彼は叫んだ。   医师が彼女の脉を确认し、瞳孔を调べた。そして时计を见て、「ご临终です。午後六时四十五分でした」と告げた。   「あ……あああ」平介は金鱼のように口をぱくぱくさせた。全身から力が抜けていき、叫び声をあげることもできなかったのだ。空気がおそろしく重くなったかのように、彼は膝から崩れた。立っていられなかった。   急速に热を失っていく直子の手を握ったまま、平介は床にうずくまっていた。自分が深い井戸の底にいるような気がした。   どれぐらいそうしていたか、彼自身にはわからなかった。気がつくと、医师や看护妇たちの姿は消えていた。   依然として、铅を饮み込んだように全身が重かったが、平介は立ち上がった。そして今は静かに睑を闭じている直子を见下ろした。   叹いてばかりいても始まらない――そう自分にいい闻かせた。死んだ者は还らないのだ。それより今は、生きている者のことを考えるべきだ。   平介は回れ右をし、藻奈美のほうを向いた。先程まで直子に握らせていた手を、今度は彼が握った。   自分の命に换えてでも、この天使を守らねばならないと彼は思った。たとえ意识が戻らなくても、生きていることに変わりはないのだ。   守るからな、直子。俺が藻奈美のことを守ってやるからな。呪文を唱えるように、平介は心の中で呟き続けた。そうすることで、すべてを失った悲しみに耐えようとしていた。   彼は両手で藻奈美の手を握った。强く握りしめたかったが、十一歳の娘の手は、力を入れすぎると折れるのではないかと思うほど细かった。   彼は睑を闭じた。そうすると、様々な映像が脳里に苏った。楽しい思い出ばかりだった。记忆の中では直子も藻奈美も、笑い顔しか见せなかった。   いつの间にか平介は泣いていた。涙がぽろぽろと床に落ちた。そのうちの何滴かが、彼や藻奈美の手にも落ちた。   その时――。   平介は自分の手の中に、违和感を覚えた。涙のせいではない。たしかに手の中で、何かが动いたような気がしたのだ。   はっとして彼は藻奈美の顔を见た。   人形のように眠っていた娘が、ゆっくりと睑を开くところだった。   [#ここから7字下げ]   3   [#ここで字下げ终わり]   杉田平介のマイホームは、三鹰駅からバスに乗って数分のところにあった。细い道が复雑に入り组んだ住宅地の、北东の角地に建っている。三十坪弱の土地が付いた、この小さな中古住宅を买ったのは六年前のことだった。マイホームを、しかも一戸建てを买うことなど、当时の彼は全く考えていなかったが、それを强く望んだのは直子だった。家赁を払うなら、その分をローンに回しても同じだというのが、彼女の意见だった。   「今なら三十年ローンを组んでも安心でしょ。三十年後も、あなたはまだ働いているはずだから」多额の借金を抱えることに难色を示していた平介に、彼女はこういった。   「俺の会社は六十歳が定年だぜ」   「大丈夫。世の中はどんどん高齢化しているのよ。その顷には、定年が六十五か七十ぐらいになっているわよ」   「そうかなあ」   「そうよ。それに平ちゃん、六十歳になったら、もう働かない気なの? そんなの甘いわよ」   こういわれると、平介としては返す言叶がなかった。   「とにかくね、今买わなきゃ。今买わないと、平ちゃん、永远に家なんて买えない気がする。永久に借家住まいだよ。そんなのいやでしょ? 自分の家、欲しいでしょ? 欲しかったら买おうよ。すぐ买おうよ」   スピッツが吼《ほ》えるようにきゃんきゃんいわれ、平介は首を縦に振ってしまった。するとその後の直子の动きは、あきれるほどに早かった。その周の土曜日には、杉田夫妻は不动産屋に连れられていくつかの物件を见て回り、その次の周には手付け金を払っていたのだ。ローン返済の打ち合わせから引っ越しの手配まで、すべての段取りを直子がしたから、平介にしてみれば気がつくと新居に住んでいたという感じだった。彼がしたのは、彼女にいわれるまま、いくつかの书类を揃えることだけだった。   しかしあの时に思い切って买ってよかったと、今になって平介はしみじみ思う。あの时に买わなかったからといって、贮金が増えていたとはとても思えなかった。そして何より、不动産の価格が上昇していた。特に最近の上がり方には目を见张るものがある。専门家によると、まだまだ上がりそうだという。杉田家から二百メートルほど离れたところに、同じぐらいの大きさの中古住宅が売りに出ているが、今の平介ではとても买えないような価格が付けられていた。   「あたしがいったとおりでしょ。平ちゃんなんかに任せといたら、ろくなことにならないんだから」胜ち夸ったように、直子はいつもいっていた。   自分が选んだのだから当然ではあるのだが、彼女はこの家をとても気に入っていた。特に庭が好きだった。小さな庭には、彼女が育てた花の入ったプランターがいくつもある。花の世话をしながら、彼女はよく鼻呗を歌っていた。曲名は、『犬のおまわりさん』だったり、『げんこつ山のたぬきさん』だったりした。藻奈美と、幼児番组を见ることが多かったからだろう。庭から玄関に回り、邮便物を取ってくる时には、『山羊さんゆうびん』の呗を口ずさんでいた。   バス事故の四日後、平介はその庭を眺められる位置に祭坛をセットし、直子の遗骨を置いた。仮通夜は事故の翌日に现地で行われたが、昨日改めて通夜を行い、今日、近くの斎场で葬仪を済ませたのだった。本当は直子が爱したこの家でやりたかったのだが、前の道幅が狭いし、吊问客がかなりの数に上ると思われたので、それは断念したのだった。そしてそれは正解だった。吊问客も多かったが、どこからかぎつけたのか、テレビ局の连中が押しかけてきて、いっとき场内が混乱したからだ。あの騒ぎがこの静かな住宅地の中で起こっていたなら、平介は近所の家を谢って回らねばならないところだった。   葬仪を终えた後でさえも、マスコミ関系者は平介につきまとった。どこへ行くにも、何をするにも、ストロボを浴びねばならなかった。もっともそれを郁陶《うっとう》しいと感じる気力は、この二日间ですっかりなくしていた。   大势いる遗族の中でも、特に平介がマスコミに追われるには理由があった。彼には、不幸と幸运を同时に体験したという点で、话题性があるのだ。不幸とはいうまでもなく妻の死であり、幸运とは娘の奇迹的な苏生だった。   「奥様の御葬仪を终えられて、现在どのようなお気持ちですか」   「大黒交通の社长のコメントについては、どのように受けとめられましたか」   「すでに全国から励ましのお便りが届いているそうですが、その方々に何か一言どうぞ」   じつは彼等の质问に、多くのバリエーションがあるわけではなかった。だから平介としては、何も考えず、同じような返答を缲り返しておけば事足りるのだった。能がないともいえるが、これはこれで彼等なりの知恵なのかなと思ったりもした。   ただ、次の质问については、平介はいつも返答に困る。   「藻奈美ちゃんには、おかあさんのことをどのようにお话しになるおつもりでしょうか」   それはこちらが教えてもらいたい、といいたいところだった。名案が思いつかないから、ずっと悩み続けているのだ。仕方なく平介は、「これから考えます」と答えていた。   一体どう话せばいいんだろうな――彼は妻の位牌に向かって呟いた。最近はあまり娘とじっくり话した覚えのない父亲としては、脆《もろ》く伤つきやすい少女の心を、どう取り扱っていいのか、见当がつかなかった。脆く伤つきやすい、ということ自体、彼が実感したわけではなく、世间でそういわれているからそうなのだろうと思っているに过ぎなかった。どう脆く、どう伤つきやすいのかなんてことは、これまでに想像したことさえない。   死んだのが俺で、それを藻奈美に话すということであれば、直子はきっとうまくやったのだろうな、と平介は全く无意味なことを考えた。   祭坛をセットし终えると、彼は丧服から普段着に着替えた。壁の时计は午後五时三十五分を指している。そろそろ病院の夕食时间だと思いながら、财布と车のキーをポケットに入れた。今日こそ、きちんと食べてくれればいいが、と彼は念じた。   藻奈美は奇迹的に意识を取り戻したが、元の彼女が完全に生还していたわけではなかった。彼女はいくつかのものを死の渊に置き忘れてきたのだ。それは表情であり、言叶だった。少女らしい反応というのも、その一つだ。颔くことと、かぶりを振ることで、一応意思を示しはするが、まだあの元気な声を平介に闻かせてはくれなかった。励ますように言叶をかけても、感情のない目で、宙をぼんやりと见つめているだけだった。   医学的には全く异状はない、というのが医师の诊断结果だった。一时は植物状态化することさえ悬念されたにも拘わらず、藻奈美の脳は完全に机能を取り戻していた。   やはり精神的なショックが原因だろう、と医师はいった。根気よく、爱情をもって接し続けることが、唯一のそして最大の治疗法だと付け加えた。   昨日の昼间、藻奈美は小金井の脳外科病院に移されていたが、そこでの诊断结果も同じようなものだった。むしろ担当医师は、あれほどの惨事にも拘わらず、藻奈美が殆ど无伤であることに惊叹していた。   午後六时ちょうどに、平介は病院に到着した。车を驻车场に停めてから、マスコミ関系者がいないかどうかを确かめた。彼等は、死の渊から戻ってきた藻奈美の姿と肉声を何とか记録しようと跃起になっていた。しかし今はとても取材に応じられる状态ではないから勘弁してくれと、平介はこれまでに何度も頼んでいた。とりあえず今夜は、彼等も约束を守ってくれたようだ。   藻奈美の病室に行くと、系のおばさんによって夕食が运ばれてきたところだった。今夜は、焼き鱼と野菜の煮物、そして味噌汁という献立だ。平介はそれらの载ったトレイを受け取ると、ベッドの横のテーブルに置き、娘の様子を见た。藻奈美は眠っていた。   平介はパイプ椅子を持ってきて、腰を下ろした。ここ数日の疲れが、泥が沈殿するように溜まっているのが、自分でもよくわかった。   藻奈美は寝息を殆どたてていなかった。胸も腹も少しも上下しない。だから时々、呼吸が止まっているのかとさえ思ってしまう。しかしピンク色の頬が、そんな不安を打ち消してくれた。肌の血色のほうも、昨日あたりから格段によくなっていた。   藻奈美の命が助かったことは、いうまでもなく平介にとって最大の救いだった。もしこの娘さえも失っていたら、自分はたぶん発狂したに违いないと思うのだった。   だがこうして奇迹的に助かった娘の傍らにいても、救われたという思いよりも、直子を亡くした悲しみのほうが强く心に迫ってくる。そして怒りが満ち溢れてくる。なぜ自分たちがこんな目に遭わねばならないのだ、断じて自分たちは幸运などではない、不幸封、とてつもなく不幸だ――。   平介は妻を爱していた。   最近は少し太り気味で、小皱も目立つようになっていたが、爱娇のある丸い顔が好きだった。おしゃべりで、强引で、少しも亭主をたててくれない妻だったが、小さなことにこだわらない、表里のない性格は、一绪にいて気持ちがよく、楽しかった。头のいい女でもあった。藻奈美にとっても、いい母亲だと思っていた。   藻奈美の寝顔を见ていると、直子のことが次から次と头に苏った。初めて会った时のこと、デートに诱った时のこと、独り暮らしをしている彼女のアパートに上がり込んだ时のこと。   直子は、平介よりも三年遅れて入社してきた女子社员の一人だった。交际期间は二年。プロポーズの言叶は単纯に、「结婚してくれ」だった。直子はそれを闻いて、なぜか笑い転げた。そして笑いがおさまった後、「いいよ」と答えてくれたのだった。   新婚生活、藻奈美の诞生、そして――。   不意に记忆が、数日前の仮通夜の晩に飞んだ。ひとりで椅子に座っていた平介に、话しかけてきた男性がいた。三十歳ぐらいに见える、体格のいいその男性は、地元の消防団员だといった。话を闻くと、彼等のグループが、直子と藻奈美を崖の下から引き上げたということだった。   平介は深々と头を下げ、何度も礼をいった。彼等がいなければ、藻奈美の命も失うことになっていたのは确実だった。   だが彼はかぶりを振った。「いえ、お嬢さんの命を守ったのは、我々ではないんですよ」   えっ、と平介が首を倾げると、彼はさらにいった。   「我々が见つけた时、大人の女性一人が下敷きになっているように见えました。ところがよく见ると、その女性の下に女の子が隠れていたんです。女の子を庇う《かば》ように、女性が覆いかぶさっていたわけです。様々な破片が突き刺さったりして、女性は血みどろでしたが、女の子は殆ど无伤でした」   その二人があなたの奥さんとお嬢さんだったのです、と彼は続けた。   「このことをどうしてもお教えしたくて、声をかけました」   この话を闻いた时、平介の胸の中で何かがぷつりと切れた。同时に彼は泣きだしていた。おうおうおう、と声を出して泣いていた。   消防団员の话を思い出し、またしても平介は泣き始めた。じつは彼は、このところ毎晩泣いているのだった。今日はいつもより泣きだすのが少し早いにすぎなかった。彼はポケットからよれよれのハンカチを出し、目を押さえた。洟《はな》が出てきたので、鼻の下も拭いた。ハンカチはたちまちびしょぬれになった。   「なおこ、なおこ、なおこ……」   ひいひいと、彼は喉を鸣らした。椅子に座ったまま腰を折り、头を抱えた。   声がしたのは、その时だった。   「……なた」   平介はぎくりとし、部屋のドアのほうを见た。谁かが入ってきたのかと思ったのだ。しかしドアはぴったりと闭じられたままだった。廊下の外に人がいる気配もない。   空耳かなと思った时、再び声が闻こえた。   「あなた、ここ……ここよ」   [#ここから7字下げ]   4   [#ここで字下げ终わり]   平介は飞び上がらんばかりに惊いた。彼を呼んでいたのは藻奈美だった。ついさっきまで人形のように眠っていたはずの娘が、今はベッドから父亲を见上げていた。その目は、昨日までの感情のこもらない目ではなかった。何かを强く诉える光が、黒い瞳には宿っていた。   「藻奈美……あ、藻奈美。声が出るんだな。ああ、よかった。ああ、よかった」   平介は椅子から立ち上がり、娘の顔を覗き込むと、涙でぐしゃぐしゃの顔をさらに崩した。それから一刻も早く医师を呼ぶべきだと思い、あたふたと入り口に向かいかけた。   「待って……」藻奈美が弱々しくいった。   平介はドアノブを掴んだまま振り返った。「どうした、どこか痛いのか」   藻奈美は小さく首を振った。「こっちに……来て。あたしの话を……闻いて」途切れ途切れだが、彼女は悬命に声を出そうとしていた。   「そりゃあ闻くよ。でも、その前に先生を呼んでこなきゃあ」   すると彼女はまた首を振った。   「人を呼んじゃだめ。とにかく、こっちに……お愿い」   平介は少し迷ったが、彼女のいうとおりにしてやることにした。甘えているんだろうと思った。   「さあ、そばに来てあげたよ。何だい? 何でも话しなさい」彼は优しくいった。   だが藻奈美はすぐには唇を开こうとはせず、じっと彼の顔を见つめた。その目を见て平介は、ふと奇妙な感覚にとらわれた。おかしな目つきをするなあと思った。藻奈美らしくない、というより子供らしくない目だ。ただ、何となく懐かしい気もするのだった。谁かがこういう目をしていた――。   「あなた……あたしのいうことを信じてくれる?」藻奈美は讯いた。   「ああ、信じるよ。藻奈美のいうことなら、何でも信じる」娘に向かって笑いかけながら平介はいった。そしていった後で、疑问を感じた。あなた?   藻奈美は彼の顔を见つめたままいった。「あたし、藻奈美じゃないのよ」   「えっ?」平介は笑いを浮かべたまま、顔の筋肉を止めた。   「藻奈美じゃないのよ、わからない?」   今度は顔の筋肉がひきつりだした。それでもまだ平介は、笑顔を保とうとした。   「何を马鹿なことをいってるんだ。ははは。早速お父さんをからかってるのか。ははは。はははは」   「冗谈いってるんじゃないの。本当にあたし、藻奈美じゃないのよ。あなたならわかるでしょ? あたしよ。あたし。直子なのよ」   「なおこ?」   「そうよ。あたしなの」藻奈美は泣き笑いのような表情をした。   平介は娘の顔を见た。それから彼女のいった台词を、改めて头の中で反刍《はんすう》した。言叶としては理解できたが、その内容を吟味しようとした时、彼は混乱した。心の拒否反応が働いていた。结局彼は、もう一度笑い顔を作ることになった。   「またまたまた」と彼はいった。「何いってるんだ、そんな手に乗らないぞ」   しかしこの笑いを、数秒後、彼は自ら引っ込めていた。藻奈美の真挚《しんし》で悲しげな表情を见たからだ。   平介は再び立ち上がった。そしてふらふらと入り口に向かった。医师を呼んでくるつもりだった。娘の気が変になったと思い込んでいた。もし娘の気が変になったのでなければ、自分がおかしくなったのだと思った。   「行かないで」藻奈美がいった。「人を呼ばないで。あたしの话を闻いてちょうだい」   平介は振り返った。その彼に向かって彼女は続けた。   「本当にあたし、直子なのよ。信じられないのはわかるし、あたしだって信じられないけど、事実なのよ」   藻奈美は泣いていた。いや、藻奈美の姿をした少女は泣いていた。   そんな马鹿な、と平介は思った。こんなことがあるはずがない――。   彼は激しく动揺していた。だがそれは、彼女のいうことが信じられないからではなかった。その逆だった。彼女の口调が、たしかに妻のものだったからだ。そう思って改めて见ると、藻奈美の周りに漂う雰囲気は小学生のものではなかった。落ち着いた大人の女のものだ。しかも、平介にとってじつに驯染み深いものだ。彼にはそれがよくわかった。   「いや、しかし……ええーっ、そんな马鹿なことが……ええーっ……」   平介は头を掻きむしった。そして藻奈美の姿を见るのさえ、怖くなってきた。   彼女は泣き続けていた。鸣咽が漏れるのが、平介の耳に届いてくる。彼はちらりとベッドのほうを见た。   彼女は左手で両目を覆うようにして泣いていた。さらにその左手の上に右手を軽く重ねている。右手の中指が、左手の薬指の付け根を抚でるように动いていた。   平介は、はっとした。それはまさしく直子の癖に相违なかった。夫妇喧哗をした时、彼女はよくこんなふうにして泣いたものだ。彼女が右手で触っているのは、左手にはめられた结婚指轮なのだ。   「初めて俺がデートに诱った时のこと、覚えてるか?」平介は讯いた。   「忘れるわけないじゃない」と彼女は涙声で答えた。「潜水舰が沈没する映画を见に行ったよね」   「潜水舰じゃない、豪华客船だ」平介はいった。   映画『ポセイドン?アドベンチャー』はその後何度も见ているのだが、直子はいつもポセイドン号のことを潜水舰というのだった。   「その後で山下公园に行ったわ」   そのとおりだった。二人でベンチに座り、船を见た。   「初めて俺が君の部屋に行った时のことは?」   「覚えてる。とっても寒い日だった」   「うん、寒かったな」   「あなた、ズボンを脱いだら、下にパジャマを穿《は》いてた」   「あれは、朝、あわてて着替えたからだよ」   「うそ。股引代わりにしてたくせに」そういって彼女は、くすくす笑った。   「本当だって。股引なんか、今だって穿かないだろ?」   「あの时も、そんなふうにムキになって否定してた」   「変なことを覚えてるなあ」   平介はベッドに近づき、床に膝をついた。藻奈美の姿をした少女は、彼を见つめていた。その目を真っ直ぐに见返しながら、彼は彼女の頬を両手でそっと包んだ。   「あの夜も」彼の手の中で彼女はいった。「こんなふうにしてくれたよね」   「そうだったな」   あの时はこのままキスをしたのだった。だが今日はしなかった。目の前にあるのは直子の顔ではなかった。その代わりに彼は寻ねた。   「本当に、直子なのか?」声が震えた。   彼女はこっくりと颔いた。   [#ここから7字下げ]   5   [#ここで字下げ终わり]   自分の身に起きた事态を直子が理解したのは、病室に运ばれてしばらくしてからだったという。それまでは头が朦胧《もうろう》とし、事故に遭ったことも、自分が生死の境をさまよったことも、うまく认识できないでいたらしい。   そして意识がはっきりとしてからも、なぜ皆が自分のことを藻奈美ちゃんと呼ぶのかわからず、戸惑っていた。   违うのよ、あたしは藻奈美じゃなくて直子なのよ、と声に出していいたかった。だが、何かが彼女を押し止めていた。それをしたら取り返しのつかないことになる、と本能的に感じたのだ。だから彼女は、ただひたすら黙り続けていた。   やがて自分の肉体が娘のものに代わっていることに彼女は気づいたが、それでもまだ悪い梦を见ているか、さもなくば自分の头がおかしくなったに违いないと思い、早く正常な状态に戻らねばと焦っていたそうだ。   だが今日、平介が傍らで泣いているのを见ていて、どうやらこれは悪梦でも何でもなく现実なのだと受けとめられるようになったと彼女はいった。   「すると……」彼女の话を闻き终えた後、平介は寻ねた。「死んだのは藻奈美のほう、ということになるのか」   すると彼女は寝たまま黙って颚を引いた。目の縁が赤く染まり始めている。   「そうか」平介は首を前に折った。「そういうことか。藻奈美が死んだのか」   彼女――藻奈美の姿をした直子は毛布を引っ张り上げ、顔を隠した。その毛布の下からすすり泣きが漏れた。   「ごめん……ごめんなさい。あたしなんかより、藻奈美が助かればよかったのにね。あたしなんかが生き残ったって、仕方がなかったのに……」   「なにいってるんだ。そんなこというもんじゃない。大势の人が死んだんだぞ。おまえだけでも助かってよかったじゃないか。おまえだけでも……」   平介は涙で声を诘まらせた。藻奈美の生きている姿を见ながら、この子はじつは死んでいるのだと认识することには、その死を目のあたりにするのとはまた违った悲しみがあった。   二人はしばらく黙って泣き合った。   「いやあしかし、まだ信じられないよ。まさかこんなことが起きるなんてなあ」ひとしきり泣いた後、平介はしげしげと娘の顔を见た。いや、妻の顔というべきか。   「あたしだって信じられないわよ」彼女は手の甲で、濡れた頬をぬぐった。   「それはもう结局、どうにもならないんだろうなあ」   「どうにもって?」   「いや、だから、治るってことはないんだろうなあと思ってさ」   「治るって……これは病気なの?」   「さあ、それは……」   「もしも何か特别な病気で、薬を饮んだり手术したりすれば藻奈美の意识が苏るっていうなら、あたし、迷わずにそういう治疗を受けるからね」彼女は、きっぱりといった。   「だけど、もしそういうことになったら、直子の意识のほうはどうなるんだ?」平介は讯いた。「今度は直子の意识が消えちゃうんじゃないのか」   「そうだとしてもかまわない」彼女はいった。「藻奈美が生き返るなら、喜んであたしはどこかへ行くから」   大きな目に真挚な光を宿らせて、彼女は平介を见つめていた。彼は、必ず成绩を上げてみせるから塾には行きたくないといい张った时の藻奈美の表情を思い出した。あの时と同じ目をしていると思った。   「直子」娘の顔を见ながら、平介は妻の名を呼んだ。「马鹿なこというなよ」   「でもそれが正常なんだもの。本当は、あたしが死ぬはずだったんだもの」   「今そんなこといったって、意味ないだろう? それに、どうしたってもう藻奈美は戻らないよ」そういって平介はうつむいた。   重い沈黙が何秒间か続いた。   ねえ、と彼女が口を开いた。「これからどうすればいいと思う?」   「どうすればいいかなあ。人にいっても、とても信用してもらえんだろうしなあ。医者にだって、どうすることもできんだろう」   「精神病院に入れられるのがァ×でしょうね」   「だろうなあ」平介は腕组みをし、念った。   そんな彼の顔を彼女はじっと见つめてきた。それから何かに気づいたような顔をして讯いた。「今日、お葬式だったの?」   「うん? ああ、そうだ。よくわかったな」   「だって、そんな时でないと、あなたがワイシャツを着ることなんてないもの」   「あ、そうか」平介はシャツの襟を触っていた。丧服から普段着に替えたつもりだったが、ワイシャツはそのままで、上からカーディガンを羽织っただけだった。   「あたしの?」と彼女は讯いた。   「えっ?」   「あたしのお葬式だったの?」   「う、うん。直子のな」颔いてそういってから、平介は続けた。「だけど、生きている。直子は生きている」   「だから藻奈美のお葬式ということになるわね」またしても彼女の目から涙が溢れだした。「あたしがあの子の身体を夺っちゃった。あの子の魂を追い出して……」   「直子は藻奈美の身体を救ったんだよ」平介は妻の细い手を握りしめた。   [#ここから7字下げ]   6   [#ここで字下げ终わり]   建物は想像していた以上に立派だった。しかも新しい。なるほど自分たちが纳めている税金は、こういうところに使われていたのかと、平介は改めて认识した。だがこれほど洒落た建物にする必要はないんじゃないか、とも思った。少なくとも、谁も见向きもしない中庭や、価値があるのかどうかもよくわからないァ≈ジェもどきの置き物は不要だろうと感じた。   図书馆に入るのは、高校生の时以来だった。しかもあの时でさえ、目当ての本を探しに来たのではなく、エアコンのきいた自习室で友人と受験勉强をするのが目的だった。つまり平介としては、本来の目的のために図书馆を访れたのは初めてということになる。   中に入ると、彼は真っ直ぐにカウンターのところへ行った。カウンターには二人の系员がいた。一人は中年の男で、もう一人は若い女性だった。男のほうが、电话で谁かと话をしていた。   「あのー」平介は系の女性に话しかけた。「脳についての本はどこにありますか」   「ノー?」   「脳です。あたま」彼は自分の头を指差していった。   「ああ」系の女性は纳得したように颔いてカウンターから出てきた。「こちらへどうぞ」   どうやら案内してくれるようだ。意外に亲切なので、ほっとしながら平介は彼女の後をついていった。   フロアは広く、本棚がいくつも并んでいた。どの棚にも、分厚い书物がびっしりと并んでいる。しかしその棚の前に立っている人间の数は、惊くほど少なかった。これが本离れということなのだなあと平介は思った。   系の女性が立ち止まった。「このあたりがそうですけど」   「ははあ……」   そこはどうやら医学书のコーナーのようだった。消化器、皮肤、泌尿器といった具合に関连书物が分类されている。系の女性が「このあたり」といって示したのは、脳医学に関する本が并ぶ棚だった。   ほかのコーナーには人が少なかったが、ここだけは妙に本を探している人がたくさんいた。全员が男性であり、风貌は违えども、皆恐ろしく头がよさそうな顔つきをしている。   平介は棚に并ぶ本の背表纸に目を向けた。『大脳辺縁系と学习について』、『脳ホルモン』、『脳と行动学』――どれもこれも、その内容についておぼろげなイメージすら掴むことができなかった。それでも彼は一册の本を棚から引っ张り出した。『脳から见る精神と行动』という本だった。   『特异的な机能を任せられていない広大な皮质领野は、连合性皮质と呼ばれてきた。伝统的な脳科学は、特异化された皮质领野间の连合がここで形成され、それらの领野からのデータが统合されることを理解してきた。连合性皮质で、现在の情报が情动や记忆と统合され、そのことで人间が思考し、决断し、计画していると考えられる。たとえば头顶叶の连合野は、体性感覚皮质からの情报、つまり身体の位置や动きについての皮肤、筋肉、膝、関节からのメッセージを――』   平介は本を闭じた。ここまで読んだだけで头が痛くなってきた。   彼は先程のカウンターに戻った。例の系の女性が、怪讶そうに彼を见た。   「ええと」彼は头を掻いた。「不思议な话のコーナーってあります?」   「はあ?」   「ほら、よくあるじゃないですか。世にも不思议な话っていうやつが。ああいうのを集めた本がないかなと思って」   「脳医学の本じゃなかったんですか」   「ええ、あれはもう终わったんです。今度は、世にも不思议な话っていうのを読みたいわけです」   「へえ……」系の女性は、胡散《うさん》臭そうな目で彼を见た。「そういう本でしたら、たぶん娯楽本コーナーの奥だと思いますけど」   「娯楽本コーナー?」   「あのへんがそうです」系の女性は远くを指差した。「あの奥に、超常现象というコーナーがあって、UFOだとかの本も置いてあるはずです」   どうやら今度は案内してくれる気はないようだった。「そうですか、どうも」といって平介は一人でその场所に向かった。   いわれた场所に行ってみると、なるほどそれらしき本がたくさん置かれていた。ミステリーサークル、怪奇现象、ムー大陆――テレビのスペシャル番组でよく耳にする言叶が并んでいる。   平介は一册の本を手にした。『超常现象の事典』というタイトルの本だ。リン?ピクネットという着者の名前を、彼はこれまで闻いたことさえなかった。   まずは目次を调べた。彼が探したのは、「人格の転移」や「魂の入れ替わり」といった言叶だった。だがそういった言叶は、その本には载っていなかった。代わりに彼が见つけたのは、「凭依《ひょうい》」という言叶だった。   その贡を开いてみると、出だしには次のように记されていた。   『人类の発达のごく初期段阶で、部族社会が出现しはじめた顷、忘我状态に入りなにか価値ある情报を取得できるらしい人间がごく少数いることが分かった。その状态でこの人间たちはいつもとは违う声で発语した。霊が一时的に乗り移ったような気配と周囲は感じた。これが「凭依」の始まりである。』   ずいぶんと大层なことが书いてあるなあ、と平介は思った。しかしここに书かれていることが、藻奈美の身体に起きていることと近いのは事実だった。话をしているかぎりでは、たしかに彼女の身体に直子の霊が乗り移ったように感じられる。   ただし「一时的」というのは当たらない。藻奈美が、いや直子が冲撃的な告白をしてから二日が経つが、奇妙な状况に変化はなかった。依然として彼女は、自分のことを直子だといっている。   平介はさらに読み进んだ。凭依については、地域や文化の违いにより、捉え方が様々なようである。初期文明では凭依は「神の介入」とみなされたが、纪元前五世纪になるとヒポクラテスによって、「ほかの肉体的疾患と同様、神の行为にあらず」と唱えられる。   ところが古代イスラエルでは、「あれは霊に乗っ取られた状态で、その霊は悪い霊のこともある」という考え方が支配的になる。初期のキリスト教徒も、「圣霊が凭《つ》く现象は、きわめて望ましい」と捉えながらも、やがて凭依を悪霊の仕业とする考え方のほうが一般的になっていった。そして悪魔祓いが行われる。   平介は昔见た、『エクソシスト』という映画を思い出した。ははあ、あれだなと合点した。だが现在藻奈美の身体に宿っている直子と名乗るものの正体が悪魔だとは、とても思えなかった。あれは间违いなく、平介がよく知っている妻だ。   凭依の歴史的记録で最も有名な例に、一六三〇年代にフランスのルーダンで起きた「尼僧集団凭依」がある。凭依された尼僧たちは、次のように语っている。「卑猥な言叶や神をあざける言叶を口にしながらも、それを眺め耳を倾けているもう一人の自分がいた。しかも口から出る言叶を止めることができない。奇怪な体験だった」   それ以後、凭依を二重人格あるいは多重人格の表れとみなす考え方が一般的となる。   平介はいったん本から顔を上げ、首を捻った。   二重人格……か――。   それならば一応科学的といえなくもなさそうである。それで彼は藻奈美の状态がそれにあてはまるかどうか検讨してみた。つまり、あれは直子が话しているのではなく、藻奈美の别人格が表に出てきていると考えるわけだ。   だがそれでは解决しない点があることに、彼はすぐ気づいた。そして彼が気づいたことと同様のことが、现在手にしている本にも书かれていた。   『しかし、凭依のもっとも驯染み深い形はこれではうまく説明できないことがやがて明らかとなる。霊媒行为である。(中略)その霊媒がトランス状态でない时には知っているはずのない情报を提供できる……。』   そうなのだ。藻奈美の口から発せられる话のいくつかは、藻奈美の知らないはずのことなのだった。たとえば平介と直子の初めてのデート――。   やはり藻奈美の人格が「直子の如く」変わったと考えるより、直子の人格そのものが取り凭いていると考えるほうがすっきりするのだった。   平介はさらに本の页をぱらぱらとめくってみた。すると「凭依」の项目の次が、「多重人格」だった。読んでみると、そこにも心理学的アプローチだけでは解决しない、凭依としか考えられない事例がいくつか书かれていた。   『この面でもっともドラマティックな例の一つに「ワトシーカの不思议」がある。一八七七年、米国イリノイ州ワトシーカでルランシー?ヴェナムという十三歳の女の子が癫痫《てんかん》の発作を起こし、これがきっかけで无意识状态に入るようになった。トランス状态になるとさまざまな霊が彼女に取り凭いた。その「支配」霊がメアリー?ロフ。それより十二年前に死亡した少女である。ほぼ一年间というもの、ルランシーはメアリーに取って替わられた。彼女は(メアリーの家族によると)生前のメアリーのように振る舞い、ロフ家の家族やしきたりについて详しい知识を示した。一年が过ぎると「メアリー」は天国へ帰らねばと言い、そのとたんルランシーへ戻った。』   平介は目を见开き、その部分を何度も読み返した。これはまさに藻奈美の肉体に起きたことと同一ではないかと思った。   さらに本にはもう一つ、彼の気を引きつける事例が书かれていた。それは一九五四年、ジャスビール?ラル?ジャットという少年の身に起こった。彼は天然痘でいったんは死亡したと思われたが、奇迹的に生き返った。ところが彼の人格は全く别人のものになっていた。じつはほぼ同时点で死亡した、バラモン阶级の少年の霊に乗り移られていたようなのだ。ジャスビール少年は、死んだ少年に関することを熟知していた。その状态が二年间続いた後、彼の本当の人格が戻ったらしい。   平介は念った。どうやら直子と藻奈美のケースは、これとほぼ同一のようだと思った。不思议なことではあるが、世界にはいくつか先例があったのだ。   ということは――。   今の状态がしばらく続いた後、直子の人格は突然消え、藻奈美が苏ると予想される。それこそが真の直子の死であり、藻奈美の苏生なのだ。   平介は本を闭じた。复雑な気持ちが彼の胸中を支配していた。藻奈美の魂が苏り、本来の彼女に戻る。それは无论望ましいことではあった。だがその时には、直子と别れねばならないのだ。しかも永久に――。   彼は头をかきむしった。もういい加减にしてくれと叫びだしたい気分だった。最初は妻を亡くしたと思って叹き、次には娘を失ったと思って悲しんだ。ところが、いずれはそれがまた逆転するという。自分が失うのは妻なのか娘なのか、はっきりさせてくれと谁かにいいたかった。それがわからぬ以上、深い悲しみとそれを昇华できない空しさだけが、いつまでも彼を袭うことになる。   平介は本を棚に戻し、拳で棚の枠を殴った。その时彼の横で、谁かが息を饮む気配がした。彼はそちらを见た。一人の女性が、少し怯えた顔で立っていた。   「あっ、桥本先生……」その顔に见覚えがあったので、平介はあわてて姿势を正した。「ええと……いつからそこにいらっしゃったんですか?」   「よく似ている方がいらっしゃるなあと思って、近づいてきたところだったんです。何か热心に调べものをされてたみたいですね」   「あ、いやあ、调べものなんて、そんな大层なものじゃないんですよ」彼は爱想笑いをしながら手を振った。「変わった本があるなあと思って、ちょっと眺めてただけです」   「そうなんですか」彼女は本棚のほうに、ちらりと目をやった。『超常现象の事典』をはじめ、ずらりと并んだ胡散臭そうな背表纸に、いうべき感想が思いつかない様子だった。   彼女――桥本多恵子は藻奈美の担任教师だ。年齢はまだ二十代半ばといったところか。直子の葬仪の日、平介は初めて、このほっそりとした美人教师と会っていた。それまでは电话でしか话したことがなかったのだ。   「先生は、どうしてこんなところに?」平介は讯いた。   「それは……调べものがあったからですけど」   「あ、そうか。学校の先生が図书馆に来たって、全然不思议じゃないですよね」   ははははは、と平介は笑い声をたてた。すると周りにいた何人かが、冷たい视线でじろりと彼を见た。   「あっ……ええと、あっちのほうに行きましょうか。あっちのほうには椅子がたくさんありましたから」入り口のほうを指して平介はいった。   「あそこの椅子は、本を読む人たちのためにあるんですよ」桥本多恵子は苦笑を浮かべ、小声でいった。「いったん外に出ましょう」   「あ、はいはい」   図书馆を出ると、平介は大きく伸びをした。   「こういうところに来ると、なんかこう妙に紧张しちゃうんですよね。肩が凝っちゃったなあ」首を回しながら平介はいった。「でも、结构居眠りしてる人がいましたね」   「平日の昼间だと、よくサラリーマンらしき人が昼寝をしておられますよ」桥本多恵子はいった。   「えっ、そうなんですか。外回りの人には、そういう役得があるんだなあ」   「杉田さんは工场で働いておられるんでしたね」   「はい」返事してから、平介は女性教师の顔を见た。「あれっ、よく御存じですね」   「藻奈美さんの作文に书いてありましたから。うちのお父さんはメーカーの工场にいます、三周间のうち一周间は夜勤です、みんなが眠っている时に働かなければならないのでかわいそうです――たしかそういう内容だったと思います」   「あ、そうでしたか。へえ、あいつがそんなことを」   反抗期に入りつつあったせいか、このところ藻奈美は自分から进んで父亲と话をしようとはしなかった。父亲の仕事にも无関心そうだった。きちんとお金を稼いで、お小遣いさえくれるなら、别に家にいなくてもいい――そういう态度さえ见えた。それはたぶん演技ではなかっただろう。だが、まるっきり父亲のことを见ていなかったわけではなかったのだ。そう思うと平介は胸の中心が少し热くなった。その藻奈美は、今はいない。   図书馆の前は小さな公园になっていて、おもちゃのような喷水もあった。ただし水は出ていない。その喷水を囲むようにベンチが置いてあったので、平介は桥本多恵子と并んで腰挂けた。座る直前、彼女の座るあたりにハンカチか何かを敷いたほうがいいだろうかと平介は一瞬考えたが、どうしても手が动かなかった。   「藻奈美さんのお加减は、その後どうですか」腰を下ろしてから、桥本多恵子が讯いてきた。   「ええ、あの、おかげさまで何とか元気を取り戻しつつあるようです。本当に、いろいろと御心配をおかけして申し訳ありません」平介は头を下げた。   藻奈美が口をきけるようになったことは、すでに电话で桥本多恵子にも伝えてある。ただし人格が直子のものであることは、当然のことながら黙っていた。   「来周あたり退院できそうだと伺いましたけれど」   「ええ。あと精密検査が一回だけ残っているんですけど、それをやってみて异状がなければ退院できるそうです」   「そうしますと新学期には间に合いそうですね」   「はい。みんなと一绪に六年生になれるといって、本人も喜んでました」   「じゃあ、その前に一度お见舞いに行ってもいいでしょうか。子供たちもすごく心配していますので、何人か连れて行きたいんですけど」   「ええ、はい。それはもう、いつでもどうぞ。直子も喜ぶと思います」   平介がいうと、桥本多恵子は一瞬返答に困ったような顔を见せた。どうしたのかなと疑问に思った直後、自分がいい间违いをしたことに気づいた。   「あっ、いえ、直子じゃなくて藻奈美です。藻奈美が喜ぶと思います」   すると桥本多恵子はベンチの上で少し尻をずらし、彼のほうに身体を向け、背筋をぴんと伸ばした。表情が先程までよりも、几分强ばっている。   「杉田さん、このたびのこと诚にお気の毒に思います。奥様を亡くされて、さぞ辛い思いをなさっていることだろうとお察しします。私、大したことはできませんけど、藻奈美さんの相谈相手になりたいと思っているんです。杉田さんも、もし私で何かお役に立てそうなことがあれば、どうか远虑なくいってくださいね」   真挚な目をして彼女は力説した。若い教师特有の初々しさと力みが、その台词からは感じられた。平介が直子の名前を口走ってしまったのを、妻を亡くした悲しみが尾を引いているせいだと解釈したのかもしれない。   「はい、どうぞよろしくお愿いします」平介は膝を揃え、头を下げた。そうしながらその头の中では、だけど今の藻奈美の人格はあなたよりも十歳は上なんですよと、冷めたことを考えていた。   [#ここから7字下げ]   7   [#ここで字下げ终わり]   平介が桥本多恵子と図书馆で会った二日後、彼女は五人の子供を连れて病院にやってきた。女の子三人、男の子二人という内訳だ。藻奈美と特に仲の良かったクラスメイト、ということらしい。   「テレビを见ていたらモナちゃんの名前があるんだもの、ものすごくびっくりしちゃった。最初は同姓同名かとも思ったんだけど、藻奈美っていう名前は珍しいし、年齢も同じじゃない。これきっと间违いないと思ったら、どうしていいかわかんなくなって、あとはもうわあわあ泣いちゃった」胜ち気そうな顔をした川上クニコという少女がいった。顔は笑っているが、目が充血しているのが平介にもわかった。事故を知った时の冲撃が苏ってきたのかもしれない。   そして彼女の话を闻いていた藻奈美の、つまり直子の目も润み始めていた。   「そう……。そうよねえ、びっくりしたでしょうねえ。川上さんと藻奈美は、いつも一绪にいたものね。クリスマスの时だって、厚かましくお宅までお邪魔しちゃって、おまけにあんな大きなケーキまでおみやげにもらってきたりして……」洟をすすり、目头を押さえて彼女は続ける。   「あの时もね、バスの中で、クニコちゃんたちにも信州のおみやげを何か买って帰るんだって、あの子はいってたのよ。それがあんなことになって……」   彼女の口调は、娘を亡くした母亲のものになっていた。それを闻いて一瞬平介は自分の目头が热くなるのを感じたが、すぐにそれどころでないことに気づいた。子供たちや桥本多恵子が怪讶《けげん》そうに藻奈美を见ていた。   「あっと……そ、そうだな、藻奈美。おみやげを买うんだって、出発前からいってたよな、藻奈美。うん、それはお父さんも覚えてるよ。な、藻奈美」   平介の言叶に、藻奈美の姿を借りた直子はきょとんとした顔をし、すぐに何かを思い出したように口を押さえた。   「あっ、そう、うん。本当に心配かけてごめん」彼女はクラスメイトたちに向かって、ぺこりと头を下げた。   「もう身体のほうはすっかりいいの?」桥本多恵子が讯いた。   「ええ、おかげさまで、特に具合の悪いところはないんです」   「头が痛いとか、そういうことはない? 交通事故って、後からいろいろと出てくるっていうから」   「ええ、今のところは大丈夫なんです。でも、たしかにまだわかりませんよねえ。交通事故の後遗症で悩んでいる人が多いって闻きますし。とにかくもう、スキーバスなんてこりごりです」   本人としては気をつけているつもりなのかもしれないが、藻奈美の口から発せられる言叶のすべてが、およそ小学生の女の子らしくないものだった。桥本多恵子もさすがにちょっと眉を寄せたが、すぐに笑顔に戻った。   「新学期から出てこられそうだと闻いて、すごく喜んでいるのよ。でもあまり无理しないでね。具合が悪いようだったら、无理して学校に来なくていいから」   「はい、ありがとうございます。そういっていただけると助かります」   藻奈美が改めて头を下げた时、「あのー」と横から一人の男子が花を持って一歩前に出た。「これ、お见舞いに持ってきたんだけど」   「わあ」直子の表情が、ぱっと辉いた。だが次の瞬间彼女の目は、花ではなく少年のほうに向けられていた。「あれっ、あなた、今冈君よね」   うん、と彼は颔いた。きょとんとしている。   「へええ」藻奈美の口から顿狂な声が漏れた。「大きくなったわねえ、前に会ったのはたしか二年生の……」   「本当に大きな花だねえ」平介が花束を受け取りながら、あわてて口を挟んだ。彼女がおかしなことを口走りそうだったからだ。「これは退院してからも、家の中に饰っておこう。ううむ、じつに立派な花だ。なあ、藻奈美」   「えっ? あ、そうね。花瓶を买わなくちゃね」   この後もしばらく会话が続いたが、藻奈美のおかしな口调はあまり修正されなかった。本人はなんとか子供らしい言叶遣いをしなければと心がけているようだが、それが余计不自然さに拍车をかけてしまう。   「何人かの方々からお见舞い品や励ましのお手纸を送っていただいたので、ええと……マジにお礼しなきゃなあと思っててえ、それはやっぱり何かお返しの品を考えたほうがいいのかなあなんて考えちゃったりしてえ……ほんと、感谢の気持ちは言叶ではいい尽くせないほどだからあ……」   小学生が「言叶ではいい尽くせない」なんていう表现を使うかよと思いながら、平介は冷や冷やして闻いていた。   やがて桥本多恵子と子供たちは腰を上げた。だが彼等が病室を出て少ししてから、平介はこっそりと彼等の後をつけた。彼等はエレベータの前で待っていた。   「モナちゃん、ちょっと変だったね」クニコがいっている。   「うん、なんだかうちのおかあさんみたいな话し方だった」もう一人の女子も同意した。   「久しぶりだから紧张しているのよ」桥本多恵子がいった。「それに少し前まで口がきけなかったから、うまく言叶が出てこないのね、きっと」   「ああ、そうか。かわいそうだね」   クニコの言叶に、他の子供たちも颔いた。   何とか彼等なりに纳得してくれたようなので、平介は安堵して病室に戻ることにした。だが、もう少し子供らしい话し方をするよう藻奈美に、いや直子にいわねばと思った。   部屋の前まで戻り、ドアを开けようと平介がノブを掴んだ时だった。藻奈美のすすり泣く声が闻こえてきた。彼はどきりとし、静かにドアを开けた。   藻奈美は枕に顔をうずめ、しくしくと泣いていた。小さな肩が小刻みに揺れている。   平介は近づき、彼女の背中にそっと手を置いた。   「直子」彼は妻の名を呼んだ。   「ごめんなさい」彼女はくぐもった声でいった。「あの子たちを见ていたら、急に悲しくなってきたの。あの子たちは、藻奈美がもうこの世にいないことを知らない。そう思うと、あの子たちのことも、藻奈美のこともかわいそうに思えて……」   平介は黙って彼女の背中を抚でた。かけるべき言叶など、何ひとつ思いつかなかった。   [#ここから7字下げ]   8   [#ここで字下げ终わり]   荷物を全部スポーツバッグに诘め込み、ファスナーを闭じようとした。ところが最後に押し込んだリンゴが出っ张ってしまい、どうしても闭じられなかった。见舞いに来た亲戚が置いていったリンゴだ。仕方なく平介はそれを取り出すと、服の袖で軽く拭き、そのままがぶりとかじった。リンゴの汁が何滴か、彼の頬に飞んだ。   「忘れ物はないか」着替えを终えた直子に彼は讯いた。   「うん、大丈夫だと思う」彼女はベッドの周りを见回していった。   「もっとよく确认したほうがいいんじゃないか。去年の林间学校の时だって、体操服を忘れてきたんだろ」   「それは藻奈美の话でしょ。あたしが忘れたわけじゃないわよ」   「えっ」平介は娘の顔を见返してから、ぴしゃりと额を叩いた。「あっ、そうだったか」   「早く驯れてよね。あたしはもう、镜に写った藻奈美の顔を见ても、さほど违和感を持たなくなっているんだから」   「わかってるよ。今はちょっとうっかりしただけだ」   その时谁かがドアをノックする音がした。どうぞ、と平介はいった。   ドアを开け、担当医の山岸が入ってきた。   「やあ、これはどうも」平介は头を下げた。   「退院の日に晴れてよかったですね」山岸はいった。   「ええ。ま、これぐらいはいいことがないと」   平介の言叶に、山岸は小さく颔いた。ひょろりとした中年で、縁の丸い眼镜をかけているせいもあって、どことなく頼りなさそうに见える。だが、见かけ上はすっかり回复しているように思われる藻奈美の退院を延ばし、しつこいほどに精密検査を缲り返した彼の慎重さと责任感に、平介は敬意を抱いていた。   「先生、本当にこのたびはお世话になりました。落ち着きましたら、是非改めて御挨拶に伺わせていただきます」直子もスタジアムジャンパーを羽织った格好のまま、腰を折って礼を述べた。   山岸医师は苦笑して平介を见た。   「お嬢さんは本当にしっかりしておられる。まるで大人の女性と话しているようだ」   「いやいや、その……外面《そとづら》だけはいいんですよ、こいつは」   「そんなことはないでしょう。お父さんも鼻が高いはずだ」   「いえいえ、何をおっしゃいます。いい年をして、案外子供っぽいところがあって困るんですよ、全く」はははと笑ってから平介は、山岸医师が不可解そうな顔をしているのを见た。すぐに自分の台词がおかしかったことに気づいた。「ああ、いや……」彼は首を振っていい足した。「来年は中学なんだから、少しは子供っぽさをなくしてもらわないと困るってもんです」   「厳しいな杉田さんは。まあ谦逊なさってるんでしょうが」医师は笑いながら直子に目を移した。「お父さんのいうことをよく闻いて、がんばって生きていくんだよ。少しでも身体の具合が悪くなったら、すぐにここへ连れてきてもらうこと。わかったね」   「ええ、それはもうよくわかっております。ありがとうございます」直子はもう一度头を下げていった。声が少し震えていた。   世话になった看护妇たちへの挨拶も済ませ、平介は荷物を手に、直子と共に病院の玄関から外に出た。するとほぼ同时に、驻车场のほうから大势の人间が駆け寄ってきた。男もいれば女もいる。そのうちの何人かはマイクを持っており、さらに何人かはテレビカメラを担いでいた。   「杉田さん、御退院おめでとうございます」女性レポーターが话しかけてきた。   「ありがとうございます」   「今のお気持ちを一言」   「ええ、とりあえずほっとしています」   「藻奈美ちゃん、ちょっとこちらを向いてくださあい」どこかのカメラマンがいった。   「奥様の墓前にはいつ报告に行かれますか」   「それはまあ少し落ち着いてから」   女性レポーターは一つ颔き、持っていたマイクを直子のほうに差し出した。   「藻奈美ちゃん、病院生活はどうだった?」   「别にどうということはありませんけど」直子は无表情で答えた。   「何か苦労したことはなかった?」   「特にそういったことはありません。主人……お父さんがとてもよくしてくれましたし」   「今は何が一番したい?」   「ゆっくりお风吕に入って、のんびりしたいです」   「すみません、娘への质问はそれぐらいにしていただけますか」平介は女性レポーターにいった。   するとレポーターは再び彼にマイクを向け、バス会社との交渉などについて质问してきた。彼は直子の手を引き、驻车场に向かいながら、それらの质问に答えた。そして最後は彼等に见送られる中、爱车のスプリンターに乗って病院を後にした。   自宅に着き、车から降りて玄関を开けていると、「あらあ、藻奈美ちゃん」と、どこからか声がした。声のしたほうを见ると、隣に住む吉本和子がスーパーの袋を手に近づいてくるところだった。   「あんた、今日退院かいな。全然知らんかったわ」   いきなりうるさいおばさんに见つかったぞ、と平介は思った。大学生と高校生の息子を持つこの中年女性は、町内の情报屋だった。だが悪い人间ではなく、世话好きでもある。   「あっ、どうも吉本さん」直子が即座に反応した。「何ですか、お葬式の时とかは、いろいろとお世话になりましたそうで。本当に申し訳ございません」   子供らしくない口调に、吉本和子もちょっと虚をつかれたような顔をした。だがすぐに笑顔に戻った。   「何いうてんの、そんな他人行仪なこと。それより身体のほうはもうすっかりええの?」   「はい、おかげさまで」   「そうか。そらよかったわ。おばちゃんも心配してたんよ」   「ありがとうございます。あの、まだちょっと片づけとかがありますので、また後ほど御挨拶に伺わせていただきます」   「ああ、はいはい。お大事にね」   直子は玄関のドアを开け、素早く中に入っていった。彼女が以前から吉本和子のことを、「しゃべり始めたら一时间は解放してくれなくて、下手をしたら家に上がり込まれる」と话していたのを平介は思い出した。   「じゃ、失礼します」彼もそういって家に入ろうとした。   すると吉本和子が彼の耳元でいった。   「なんやしらんけどちょっと见ないうちに、藻奈美ちゃん大人っぽくなりはりましたね。やっぱりおかあさんが亡くなって、自分がしっかりせなあかんと思いはったんやろね」   「ははは、どうですかね」爱想笑いを浮かべ、平介は逃げるように家に入った。   家では直子が仏坛に向かって手を合わせているところだった。   その仏坛には直子自身の写真が饰られている。もちろん傍からは、娘である藻奈美が母亲の霊前で合掌しているようにしか见えない。   しばらくして直子は顔を上げ、平介のほうを振り返った。その顔には、寂しそうな笑みが浮かべられていた。   「何だか変な気持ち。自分の写真が置いてある仏坛を见るのって」   「藻奈美の写真を置くわけにはいかないからな」   「そうでしょうね。人が访ねてくることもあるものね」   「だけど、全然意味のないことをしているわけでもないんだぞ」   平介は直子の写真の入った小さな额縁を手に取った。里の板を外し、中の写真を取り出す。それは二枚重ねになっていた。直子の写真の後ろに、藻奈美の写真が隠されている。去年の远足で撮ってきたものだ。こちらを向いて、ピースサインをしている。   「ほら」と彼は妻に见せた。   直子は瞬きを缲り返した後、泣き笑いのような表情を作って平介を见た。   「久しぶりに本物の藻奈美の顔を见たような気がする」   「直子が伪者ってわけじゃないよ」と平介はいった。   平介がインスタントラーメンを作り、简単な昼食とした。ラーメンの上には、モヤシとチャーシューを炒めたものを载せた。彼は自炊ができなかっただけに、それだけのことで直子は甚《ひど》く感心した。   「たまには亭主を一人にするのも悪くないわね」ラーメンを啜りながら直子はいった。   「何いってるんだ。その気になれば、フランス料理だって作れるさ」   「大きく出たわね。じゃあ作ってよ」   「その気にならないだけだ」   杉田家では、藻奈美がいる场合は食事の时にテレビをつけないことになっていた。彼女がもっと小さかった顷に、直子が决めたことだった。だからラーメンを食べている间、テレビ好きの平介もスイッチに手を伸ばそうという気にはならなかった。直子が食べ终わるのを待って、彼は床に転がったコントローラを拾い上げた。そうしながら、ああそうか藻奈美はいないんだったと気づいた。   テレビをつけてみると、いきなり画面に见たことのある建物が映った。直子が入院していた病院だった。   「あっ、平ちゃんが映ってる」直子が指差していった。   つい先程平介と直子がレポーターたちに囲まれた时の模様が映っていた。ほんの一、二时间前のことがこうして放送されているのは、妙な気持ちのするものだった。   画面では、平介が藻奈美の、つまり直子の手を引いて足早に驻车场に向かっている。それを追うレポーターたち。   「赔偿问题については、今後どのようにしていかれるおつもりですか」女性レポーターが质问する。   「それにつきましては、基本的には弁护士さんに任せてあります」   「弁护士さんに何か希望は出されているんでしょうか。たとえば赔偿额などについて」   「金なんかは问题じゃないです。とにかく诚意を示してほしいということです。藻奈美の命を夺われ、直子も深く伤ついているんですから」早口でいった後、平介は直子を车に乗せ、自らも运転席に乗り込んだ。   テレビカメラは平介たちの车が远ざかっていくところもとらえていた。その後で女性レポーターが映った。   「杉田平介さんは藻奈美ちゃんが无事に退院できたということで、とりあえずほっとされたようです。ただバス会社の责任问题に话が及びますと、奥さんとお嬢さんの名前を逆にいったりして、落ち着いておられるように见えても、まだ心の内に大きな痛手があることが窥えました。现场からお伝えしました」   「あっ、间违えちまったか」今はじめて自分が间违ったことに気づき、平介は舌打ちをした。   テレビ画面は、先顷浮気が発覚した男性タレントのインタビューシーンに変わっていた。平介はコントローラを操作し、チャンネルを替えてみた。だが彼等の姿を映している番组は见つからなかった。彼はテレビを消した。   「ねえ」直子が口を开いた。「これから、どうする?」   「どうするって?」   「あたしはどうやって生きていけばいいと思う?」   「うん……」平介は腕组みをした。   大きな问题だった。とりあえず平介は、现在の异常な状况にどうにか惯れつつある。そして直子のほうも、表面上は谛めて见える。ただ、この状态を他人に受け入れてもらえるとはとても思えなかった。彼女が精神异常者扱いされることは确実だし、下手をすれば平介もそういう目で见られることだろう。仮に凭依を证明することができたとしても、その场合には好奇心まるだしで近づいてくるマスコミをはじめ、多くの野次马たちに生活を壊されることは明白だった。   平介は念った。一つだけ考えがあったが、それを口にすべきかどうか迷っていた。   すると直子がいった。「ちょっと闻いてくれる? あたしとしては、こういうふうにしようかなと思っていることがあるんだけど」   「うん、ああいいよ」平介は胡座をかいていた足をほどき、正座した。   「あたしは」彼女は夫の目を见つめた。「藻奈美として生きていこうと思うの」   「ああ……」平介は口を中途半端に开けたまま黙った。後の言叶が出なかった。   「杉田直子としての立场だとか、生活だとかをなくすのはとても寂しいけど、それが一番いいと思う。どう考えても、あたしが杉田直子として生きていくのは难しいもの。どんなに説明したって、きっとあなたのようには受け入れてくれないと思う」   「そうだな……」   「平ちゃんはどう思う?」   「俺も、それがいいと思うよ。じつをいうと俺も、そんなふうにしたらどうだって提案しようと思っていたんだ。だけど、なんかいいにくくってさ」   「直子という人间を、この世から消してしまうことになるから?」   「うん、まあそうだ」   「だけど」直子はいったんうつむいて唇を舐め、改めて顔を上げた。「あなたにとっては、生きているわけでしょう」   「そりゃあそうだ。俺にとっては、直子は直子だよ」そういってから平介は、直子は直子というより、藻奈美は直子だといったほうがよかったかなとふと思った。だがせっかく盛り上がっている感动的なムードを壊したくなかったので订正しないでおいた。   直子はふっと吐息をついた。それから両手を上げ、気持ちよさそうに伸びをした。   「口に出したらすっきりしちゃった。决心するのに、ちょっと时间がかかっちゃったんだけど」   「それは仕方ないだろ」   「前向きに考えようと思うの。もう一度人生をやり直すチャンスを与えられたんだって。身体は违うけれど」   「でも赤の他人の身体じゃないぜ」   「うん。藻奈美はあたしの子供の顷によく似てるって、みんなからいわれる」   「俺たちの娘にしちゃ美人だともいわれたぞ」   「そう。だけど鼻はあなた似なのよね。このちょっと上を向いた鼻」   「何いってるんだ。それがあるからチャーミングなんだろうが」   「えー、そうかなあ」直子は顔をしかめた。だが目は笑っている。平介も笑顔になった。事故以来、初めて本当に笑ったような気がした。   直子は、「お茶を淹れるね」といって立ち上がり、台所へ行った。食器棚から急须を出し、茶の叶を入れている。その身のこなしは、间违いなく直子のものだった。   茶を淹れた汤饮み茶碗を二つトレイに载せて、彼女は和室に戻ってきた。   「藻奈美も、もう六年生よね。しっかり勉强しなきゃいけないな。成绩を下げて、あの子に耻をかかせたくないから」   「藻奈美は结构勉强してたぞ。直子はよく叱ってたみたいだけど」   「あの子、女のくせに算数とか理科が得意だったのよね。国话と社会は今一つだったけど。たぶんあなたに似たのよ」   「算数と理科、大丈夫かい?」平介はにやにやして讯いた。   「大丈夫じゃないけど、なんとかしなきゃあねえ」直子は浮かない顔で、汤饮み茶碗の一つを平介の前に置いた。「ねえ、あの子の将来の梦って何だったかな」   「梦か……」平介は再び胡座に戻り、腕组みをした。   「できれば叶えてやりたいと思うの。そういう目标があれば、あたしもがんばれると思うし」   「たしか……」平介は茶を啜った。「たしか、ふつうの奥さんがいいっていってたぞ」   「ふつうの奥さん?」   「うん。おかあさんみたいなふつうの奥さんがいいっていってた」   「なんだ。じゃあ、今のままでいいってことじゃない」   「いや」平介は汤饮み茶碗を持ったまま直子を见た。「それはちょっとおかしいだろ」   「どうして?」いってから彼女は、はっとしたような顔で自分の手を见つめ、それからまた夫に视线を戻した。ぎごちない笑顔が浮かんだ。「马鹿なことをいわないでよ。あたしはずっと、あなたのそばにいますからね」   だが平介は颔かず、茶を啜った。   「あっそうだ。ねえ、あたしの指轮、どこにある?」   「指轮?」   「结婚指轮よ。バスに乗ってた时、はめてたはずだけど」   「ああ。仏坛の引き出しに入ってるんじゃないか」   直子は引き出しを开け、中から小さなビニール袋を取り出した。そこに彼女が薬指にはめていた指轮が入っている。プラチナの细い棒を単に丸くしただけのような指轮だ。同じ形の指轮を、现在平介は薬指にはめている。   直子は袋から指轮を取り出し、自分の指にはめてみた。だが薬指には大きすぎた。中指でもまだ大きい。最後には彼女は亲指に通してみた。それでようやくちょうどだった。   「亲指にはめるわけにはいかないわよねえ」直子は自分の手を见てため息をついた。   「それ以前に、小学生が指轮をはめてちゃ変だろ」平介はいった。「しかもそんな地味な指轮を」   「だけど、この指轮だけはいつもそばに置いておきたいのよ」   「その気持ちはまあ、うれしいけどな……」   「そうだ」直子はぽんと手を叩き、立ち上がった。そして部屋を出ると阶段を上がっていった。   すぐに彼女は戻ってきた。右手にテディベアのぬいぐるみを持ち、左手には裁缝道具入れを提げていた。   「何をする気だ?」と平介は讯いた。   「まあいいから」   直子は裁缝用の铗を取り出し、テディベアの头部の缝い合わせ部分の糸を切った。そして合わせ目を开いた。   このテディベアは元々直子が藻奈美のために作ってやったものだった。直子は裁缝が得意なのだ。   彼女は结婚指轮をぬいぐるみの头の後ろに埋め込むと、もう一度布を丁宁に合わせ、针と糸で缝っていった。见事な手つきだった。   「完成」と彼女はいった。   「どうするんだ、そのぬいぐるみ」   「藻奈美はこのぬいぐるみをとても大切にしてくれたの。寝ている时なんか、いつも布団の中に入れてたのよ。だからあたしも、これをいつもそばに置くことにする。そうすれば、あなたの妻だということも自覚できるから」   彼女の言叶に対して返すべき台词が、平介は思いつかなかった。そういう自覚に意味があるのだろうかという気がふとした。   「このテディベアの正体は、二人だけの秘密ね」そういって直子はぬいぐるみを胸に抱きしめた。   [#ここから7字下げ]   9   [#ここで字下げ终わり]   直子にとっての初登校の日は、生憎《あいにく》朝から小雨が降っていた。玄関先で彼女は、长靴を履いていくべきかどうかを大いに迷った。   「运动靴でいいじゃないか。まだそれほどの降りじゃないぞ」平介は彼女の背中に向かっていった。   「天気予报によると、午後から雨が激しくなるらしいのよ。そうなったら、运动靴が泥だらけになっちゃう。この靴、先月买ったばかりで、六年生になるまで履くのを我慢するって藻奈美がいってたから、わざわざ新品のまま取ってあったのに」真新しい运动靴を手にとって直子はいった。   平介は玄関のドアを开け、空を见上げた。   「だけどまだ、长靴っていう天気でもなさそうだけどなあ」   「降ってからじゃ遅いのよ。うん、决めた。やっぱり长靴にする」そういうと彼女は靴箱の中から长靴を取り出した。赤いビニール制で、縁に白のラインがある。いつだったか、直子がスーパーの福引きで当ててきた商品だ。   「长靴って、それのことか」   「そうよ」   「それを履いていくのは、ちょっとまずいんじゃないか」   「どうして?」   「だって藻奈美はその长靴のことを、ダサくて履きたくないっていってたぞ」   「知ってるわよ。でもせっかくあるんだから勿体ないじゃない」   「だからだな」平介は玄関のドアをいったん闭めた。「それは直子の考えだろう? だけど世间的には直子はこの世にいなくて、着ている洋服も履いている靴も、全部藻奈美が自分の判断で选んだってことになるんだよ。そうすると、藻奈美が自分から进んでそのダサい长靴を履いて学校に行くというのは、ちょっとおかしいんじゃないか」   藻奈美の姿をした直子は、しばらく夫の顔をぼんやり见つめてから、「ああ……」と口を开いた。「それもそうか」   「俺のいってること、わかるか?」   「わかる」直子は颔き、长靴に突っ込みかけていた右足を披いた。「じゃあ、运动靴にする。それでいいのね」   「そのほうがいいと思うぞ」   「ちぇっ、この靴、早速泥だらけになったらどうしよう」ぶつぶついいながら直子は靴を履いた。   いろいろと心配をかけたということで、今日は平介も彼女と一绪に学校へ行き、挨拶することにした。彼女の小学校ではクラス替えは二学年ごとである。したがって担任も、桥本多恵子がそのまま持ち上がることになっている。   「别にいいんだけど、一绪に来てくれなくても。あたし一人で平気だよ」靴を履いてから直子はいった。   「だけどこういう时には、一言挨拶しておくってのが筋だろうが」   「そうかなあ」直子は首を倾げてから、横目で夫を见た。「ほかに目的はないよね?」   「目的? なんだそれ」   「桥本先生、若くて奇丽だからね。ほっそりしてるのも平ちゃん好みだし」   「ばか、何いってるんだ。早く出ろよ。ぐずぐずしてると初日から遅刻するぞ」平介は直子の背中を押しながらいった。だが心の中では、外见は违ってもやっぱり女房というのは鋭いなあ、と舌を巻いていた。桥本多恵子に会うのを楽しみにしているという気持ちも、じつはほんの少しあったからだ。   伞をさして表に出てみると、隣の吉本和子がゴミ袋を出しているところだった。   「あら、藻奈美ちゃん。今日から学校?」   「おはようございます。ええ、おかげさまで新学期に间に合いました」   「そう。今日はお父さんも付き添いで?」吉本和子は平介に讯いてきた。   ええまあ、と彼は答えた。   「あたしはいいっていったんですけどね、この人が行くってきかないものですから」   「へええ、ああそう……」吉本和子は口元には笑みを浮かべながらも、怪讶そうな目で直子と平介を见比べていた。   家の前からずいぶん远ざかってから、「俺のことを、この人って呼ぶのはおかしいぞ」と平介はいった。   直子は手で口を押さえた。「えっ、あたし、そんなこといったっけ」   「いったよ。だから隣のおばちゃんも変な顔をしてたんだ。気をつけろよ、全く」   「ごめん。どうも驯れなくてさ」   「まあそれは俺も同じだけどな。今日もボロを出さないようにと思うと、ちょっと紧张しちゃうんだ」   「ああ、そうか。今日は会合があるんだったね」   「うん。新宿だ。帰りが何时になるかはわからないけど、まあそんなには遅くならないと思う」   「わかった。藻奈美のために、がんばってね」   「藻奈美と直子のためにだよ」と平介はいった。   会合とは、被害者の会の集まりのことだった。すでに何度か都内で集まり、今後の方针などを决めている。基本的に会合が开かれるのは休日ということになっていたが、今回は弁护士の时间がとれず、平日になってしまったようだ。平介は会社に事情を话し、今日は有给休暇を取っていた。こうして直子に付き添っていけるのも、そのせいだ。   学校に向かう途中、大きな交差点があった。そこで信号待ちをしていると、反対侧の歩道で手を振っている少年がいた。最初は気にしていなかったが、どうやら直子に向かって合図を送っているつもりらしいと平介は気づいた。背の高い、痩せた少年だ。さっぱりとした顔立ちをしており、さっぱりとした髪形に决めている。   「おい、あの男の子、藻奈美の知り合いらしいぞ」平介は小声でいった。   「らしいね」直子も小声で返事した。   「谁なんだ」   「さあ」   「さあって……」   直子はくるりと平介のほうを向き、シャツの胸ポケットから一枚の写真を取り出した。それは藻奈美の五年生の远足の时に撮られた集合写真だった。直子がこの写真で见てクラスメイトの顔と名前を覚えようとしていたことを平介は知っている。うまい具合に写真の里に、藻奈美の手によって各人の配置と名前が书きこんであったのだ。   「おい、どうするんだ。信号が青に変わっちまったぞ。渡らないと変だぞ」   「う……うん」歩きだしながら、直子は写真を平介のほうに差し出した。「平ちゃん、これ持ってて」   「えっ、俺が持っててどうするんだ」   「あの子の名前を调べてよ。で、わかったらこっそり教えて」   「ええー」   二人で横断歩道を渡るのを、少年はじっと见つめていた。その顔には爽やかな笑顔があった。教育用雑志の表纸にできそうな表情だなと平介は思った。   「杉田、今日からもう学校に行けるのかい」少年は寻ねてきた。大人びた口调だった。   「うん、おかげさまで」直子は答えた。それから平介のほうを见上げて、「うちのお父さん」と绍介した。   「おはようございます」少年は头を下げた。   「あ、おはよう」平介もあわてて同じようにした。   少年が歩き始めたので、直子も并んで歩きだした。したがって平介も彼等に続く形になった。彼は少年に気づかれぬよう、先程の写真を盗み见した。远足の行き先は高尾山だ。子供たちの背後に薬王院が见える。季节は初夏のようだから、约十か月ほど前ということになる。   「俺、见舞いに行こうと思ったんだけどさ、杉田の様子がどんなふうかよくわからなかったから、何となく行きにくかったんだ。でも川上たちに闻いたら、わりと元気そうだっていってたから、安心はしてたんだ」   「そう、ありがとう……」   「だけど、あんまり元気そうじゃねえな。どうしたんだ?」   「ううん、そんなことないよ」直子はちらりと後ろを振り返った。早く名前を调べろという合図だろう。   その时平介は、少年と思われる人物を写真の中から见つけだした。雰囲気は少し违うが、それは髪形が违っているせいと思われた。里を见ると、田岛刚とある。たじまつよし、と読むのだろうか。   「ええと、藻奈美、ちょっと」平介は後ろから声をかけた。直子は立ち止まり、「何?」といって彼のほうに寄ってきた。平介は伞で少年の视线を遮ってから、写真の里を彼女に见せた。「たぶんこの子だ」そう嗫いて田岛刚という名前を指差した。   「たじま、たけし……つよし、かな」彼女は伞の下で首を倾げた。   「どっちかな、わからん」   「まあいいや――うん、わかったよ。お父さん」少年に闻かせるつもりか妙に元気な声でいい、直子は彼の横に戻っていった。「お待たせ」   小学生が『お待たせ』なんていうかなあと平介は思った。   「どうしたの?」   「ううん、どうってことない」そういってから直子はまた平介をちらりと见た。「あの、お父さんがね、田岛君……のことをいろいろ知りたいんだって」   「えっ」平介はつい目を丸くした。それから直子の魂胆に気づいた。この、藻奈美に対して妙に驯れ驯れしい口をきく少年のことを、彼女が知りたがっているのだ。   「どうしてですか」少年が平介に寻ねてきた。   「いや、まあその、藻奈美の友达のことを、いろいろと知っておこうと思ってね」平介は爱想笑いをした。   「へえ……」少年のほうは戸惑っている。无理もない、と平介も思う。   「家は何をしておられるのかな。ふつうのサラリーマン?」   「谁の家ですか」   「だから田岛君の家だよ」   「鱼屋ですけど」   「ふうん、鱼屋さんかあ。それはいいなあ」平介は意味もなくいう。なぜ鱼屋だといいのか、自分でもよくわからない。   「春休みはどこかに行ったの?」直子が讯いた。   「三浦半岛に行った」少年はうれしそうに答えた。「亲戚のおじさんがクルーザーを持っててさ、冲まで出て、钓りをしたんだ。结构でかいのがたくさん钓れた。タイとかイサキとかさ。クーラーボックスがいっぱいになった」   「ふうん」直子は歩きながら颔いた。   家でしょっちゅう鱼を见ているくせに、钓りなんかをするんだなと、平介はちょっと妙な気がした。それとも、ふだんから鱼に惯れ亲しんでいるので钓りが好きなのか。   「特にイサキがいっぱい钓れたからさ、近所の人にあげたんだ。でかいから、みんなびっくりしてた」   「へえ……ただであげたの?」直子が讯いた。   「そうだよ」   「ふうん、売ればいいのに」   「そんながめついことしないよ」少年は直子の言叶に吹き出した。   売ればいいのにな、と平介も後ろで闻いていて思った。大きくて新鲜なイサキなら、结构な値段をつけられるだろう。   「田岛君は」平介は後ろから声をかけた。「勉强のほうはどう? 得意科目なんかあるのかい」   「えっ、どうかな」少年は首を倾げた。「算数……かな」   「へえ、すごいね。算数の成绩がいいんだ」   「でも、ほかもいいですよ。国语も理科も社会も」   自分でいうところが、ちょっと嫌みではある。   「ふうん、秀才だねえ」   「そうですね」眉ひとつ动かさずにいった。「あっ、でも、体育は苦手だな」   「あ、そう」そうは见えないがなと、少年のすらりと伸びた足を见て平介は思った。   学校が近づくにつれて、同じ方角に向かって歩く子供たちの姿が増えてきた。歩きながらはしゃぎ、笑い、ふざけ合う。子供たちの世界だ。   「モナちゃんっ」どこからか声がした。见ると、川上クニコが手を振りながら駆け寄ってくるところだった。チェック柄のスカートがひらひら舞っている。   きゃあきゃあと騒ぎながら川上クニコは直子の脇に辿り着いた。   「なんだもう、早速二人で歩いてるんだもんなあ。いやんなっちゃうなあ」彼女は少年と直子を交互に见ていい、そのついでのように平介に向かって头をちょんと下げた。   「おはようございます」   おはよう、と平介が答えた时には、彼女の顔はもう直子のほうを向いていた。そして昨日のテレビの话を早口でしゃべり始めた。直子のほうは黙って闻いている。   平介は川上クニコが最初にいったことを头の中で反刍していた。なんだ、どういうことだ。早速二人で歩いてるんだもんなあ、とはどういう意味だ。口调からして、冷やかしているらしい。するとこの二人は公然の仲ということか。马鹿な。小学生が。まさか。   学校が见えてきた。色褪せたコンクリートの建物が三つ。藻奈美たちの教室がどこにあるか、平介はもちろん知らない。直子は知っているのだろうかと考えた。そして彼女が何度か授业参観で访れていたことを思い出した。   太った男子が一人、近づいてきた。まだ肌寒い季节だというのに、こめかみのあたりに汗をかいている。暑苦しい子供だなと平介は思った。   やあ、といって太った男子は直子たちに声をかけた。「元気だった?」   「ツーヤン、また太ったみたいだな」直子の隣にいる少年がいった。   「えっ、そんなことないよ。前とおんなじだよお」太った男子は唇を尖らせた。それから平介のほうをちらりと见て、気後れしたように首をすくめた。   正门をくぐったところで、平介は直子たちと别れた。直子は一度彼のほうを振り返り、素早く片目をつぶった。大丈夫、うまくやるからね、と语っているように见えた。   一人になってから、さて、と彼は学校を见回した。考えてみたら、职员室の场所も知らないのだった。   その时だ。先程の太った男子が戻ってきた。平介のほうを上目遣いに见ている。   あの、と彼はいった。   「なんだい」と平介は讯いた。   「仆がどうかしたんですか」   「えっ」平介は太った少年を见下ろした。「どうかしたって……どういうこと?」   「だって」少年は时折後ろを振り返りながらいった。「杉田さんのお父さんが、仆のことをいろいろ讯いてたって……」   「はあ?」平介は口を开けた。それから事情を察した。彼は少年の胸元を指して讯いた。「君、田岛君?」   こくり、と太った少年は颔いた。   「あ……そうかあ、へええ、君が田岛君か。鱼屋さんの?」   「はい」   「そうか。ははは。そうだったのか。いや、别に君一人のことだけを知りたかったわけじゃないんだ。直子……いや藻奈美のクラスの子供たちのことをね、知っておきたいと思ったんだよ」   「じゃあ、もういいんですか」   「いいよ、あ、でもちょっと待って。さっきの彼は何という名前なのかな。藻奈美と一绪に歩いてた男の子だけど」   「エンドウですか」   「あ、エンドウ君というのか。ありがとうありがとう。じゃ、しっかり勉强して」   平介の言叶に讶しそうな顔をしながら、田岛少年は太短い足で小走りに去っていった。その後ろ姿を见ながら、なるほど体育が苦手そうだと平介は思った。   彼は例の写真をもう一度出してみた。そして名前と照らし合わせてみる。するとたしかに、先程见つけた少年は、今の太った少年と同一人物のようではあった。ただし太さが违う。田岛少年は十か月の间に体重が倍になってしまったらしい。   平介は写真を里返し、ずらりと并んだ名前の中から远藤直人という文字を见つけた。位置をよく确认してから、表の写真を见た。   远藤少年は、担任の桥本多恵子の隣にいたのだった。だがまだ顔が幼いうえに身体も小さく、桥本多恵子と母子に见えなくもなかった。彼は田岛少年とは対照的に、この十か月间で身长と大人っぽさを获得したらしい。   平介は直子たちが入っていった校舎を仰ぎ见た。   直子、そこはとんでもない世界みたいだぞ、心してかかれよ――心の中で妻にエールを送った。   [#ここから7字下げ]   10   [#ここで字下げ终わり]   午後を过ぎると本降りになった。おまけに肌寒い。平介はブレザーの上にレインコートを羽织って家を出た。今朝、直子と歩いた道のところどころに水たまりがある。やっぱり长靴を履いていけばよかったと悔しがるに违いないと想像し、伞の下で思わずにやりとした。   新宿駅西口から歩いて十分ほどのところにあるシティホテル内の会议室が、被害者の会の会场になっていた。入り口に小さな机が置かれ、若い女性が座っている。平介はそこで署名してから入室した。   室内には机と椅子が、ずらりと并べられていた。百人近くは席につけそうだ。そのうちの半分ほどが埋まっていた。例のバス事故による死亡者は二十九人。重伤で今も入院中という人が十人以上いる。このぐらいの部屋を用意するのは当然といえた。そしてこの会议だけは、雨が降っているとか、平日だとかいう理由で、出席率が低下することはないはずだった。   事故を起こしたのがスキーバスだったから被害者は殆ど若者である。しかも大半が大学生だった。だから出席している顔ぶれは、彼等の亲と思われる年代の人々ばかりだった。平介はかなり若いほうだ。女性が多いだろうと思ったが、男性が半分以上を占めていた。町内会の集まりには顔を出さない人も、今日ばかりは仕事を休んで来ているのだろう。   平介の斜め前に座っているのは、夫妇と思われる二人连れだった。年齢は男性のほうが五十歳过ぎ、女性はそれより少し下というところか。奇丽に散髪された男性の髪は、ほぼ白髪に占拠されつつあった。男性が何か小声で话しかけ、それに応えるように女性は小さく颔いている。手にはクリーム色のハンカチが握られていて、彼女は时折それで目头を押さえた。   失ったのは息子か娘か。どちらにせよ、さあこれからという青春の真っただ中にいたのであろう。両亲も大きな梦を托していたに违いない。平介は、藻奈美を失った自分の悲しみを想起し、彼等の心中を想像しようとしてみたが、やはり见当はつかなかった。同様に、それぞれの悲しみは谁にも理解できないのだと思った。   「杉田さん……ですね」隣から声をかけられた。平介がそちらを向くと、五十歳ぐらいのよく日に焼けた男がぎごちない笑みを浮かべていた。   ええ、と平介は答えた。   男は少し安堵したように吐息をついた。「やっぱりそうだ。テレビでお见かけしたものですから」   ああ、と平介は颔いた。テレビのことで人から何かいわれるのは驯れていた。「テレビの连中は何でも映しますから」   「そうらしいですな。お嬢さんは元気にしておられますか」   「ええ、おかげさまで」   「そうですか。それはよかった。お嬢さんだけでも助かって本当によかった」男は何度も颔いた。   「失礼ですが、おたくは……」   「あっと失礼」男は背広の内ポケットから名刺を出してきた。「こういう者です」   男は印刷会社を経営していた。有限会社、とある。名前は藤崎和郎。会社の所在地は江东区となっていた。   礼仪上、平介も名刺を渡した。   「杉田さんは今度の事件で奥さんを亡くされたんでしたね」名刺をしまいながら男は讯いてきた。はい、と平介が答えると、男は一つ颔いていった。「私は三年ほど前に病気で妻を亡くしました。その上で今回のことで娘を亡くしましたから、もう完全に一人っきりです。おかげで何をするにも力が入りませんでね」   そうだろうと思い、平介も颔いた。「じゃあ事故が起きる前は、今のうちと同じだったんですね。つまり父娘二人きりの家族……」   すると藤崎は薄く笑って首を振った。   「いえ、父娘三人です」   「え、でも……」   「娘は二人です」藤崎は指を二本立てて见せた。「双子だったんです。お揃いのスキーウェアを着てね、一绪に死にました。同じ死に顔をしていました」   同じ死に顔といった时、藤崎の声に呜咽が混じった。平介の胸に铅のように重く冷たいものが生じ、胃の底に沈んだ。   「どちらか一方でも生き残ってくれればね、もう一人のほうも一绪にいるような気になれたと思うんですけどね、両方共ですからね、全く神様は残酷です」藤崎の笑い顔は、すでに丑く歪んでいた。   全くそのとおりだと平介は思った。直子と藻奈美の间に起こった出来事が、もしもその双子に起きていたなら、たぶん谁も、もしかしたら本人も気づかず、単に一人が助かっただけということで済んでいたかもしれないのだ。   気がつくと、会议室のあちらこちらに、すすり泣いている人がいた。事故はまだ终わっていないのだと平介は思った。   被害者の会には四人の干事役がいた。最初の会合の时、立候补してくれた四人だった。一流企业のやり手部长といった雰囲気の人物、商店主らしき人、もう隠居生活が许されそうな老人、そして主妇。外见はばらばらだが、四人の表情には共通した迫力のようなものがあった。この人たちに任せておけば大丈夫だ、最初に见た时平介は确信した。   まずやり手部长――実际はどうかわからないが――の林田という男性が、现在までの経纬を详しく説明してくれた。バス会社は运転手のミスを认めており、赔偿その他については可能なかぎりの诚意を示すといっているらしいこと、一方で过労运転の疑いもあり、その方向でも会社侧の责任を追及する必要があることなどだ。长野県警が大黒交通を道路交通法违反の疑いで家宅捜索したという话は、平介もニュースなどで知っていた。   次に弁护士の向井という人物が前に出てきた。体格がよく、髪を五分刈りにした、まるで柔道选手のような风貌だ。彼はよく通る声で、补偿额については年齢差や男女差に拘わらず基本的に一律になる见通しであり、もし被害者の会として获得できる额に不満がある场合は、个人的に会社と交渉してほしいという旨のことをいった。   いくらぐらい要求するつもりかという质问が出された。向井弁护士は踌躇《ちゅうちょ》なく、「八千万円を一つのラインとして考えています」と答えた。その言い方から、たぶん上限がそのぐらいなのだろうと平介は解釈した。   八千万円――高いのか安いのかわからない数字だった。もちろん金额がどれだけ大きくても、悲しみが薄れるわけではないのだが。   しかし遗族の中には、平介よりも现実的に物事を考える人间もいた。一亿円はとれないか、という质问が出たのだ。隣の藤崎がそれを闻いて颔いていたから、自分なりに补偿额を予想してきた者は意外に多いのかもしれない。   「もちろん、なるべく上を狙うつもりではいます。しかし何しろ交渉事ですから、双方の歩み寄りは必要だと思います。长引くのは、皆さんの本意でもないと思いますし」   弁护士の言叶に多くの者が颔いた。平介もその一人だ。长引かせたくない。全くそのとおりだった。こんなことは早く终わりにしたい。   ただし、と注釈をつける。忘れるわけにはいかない。世间の人々にも忘れられたくはない。あの痛ましい事故を风化させてはならないのだ。   干事の林田が再び立ち上がり、今後の方针などについて话した。さらに、ここでの话し合いの内容については极力口外しないでほしいという注意が添えられた。特にマスコミには気をつけるようにとのことだった。   「金额の话なんか、连中は兴味本位で面白おかしく书き立てますから」林田は眉间に皱を寄せていった。彼もまた、マスコミの无神経さに伤つけられたくちなのだろうと平介は想像した。   「ええとそれからもう一つ、皆さんにお话があります」林田の口调が微妙に変わった。少し表情も强张ったようだ。「じつは今日、どうしても皆さんに会いたいという方がいらしてるんです」さらに彼は、いいにくいことは一気にしゃべったほうがいいとばかりに続けていった。「梶川さんなんですけど」   一瞬の沈黙の後、ざわ、と空気が乱れた。   「あの、梶川さんというと……」前のほうで声がした。中年女性の声だ。   「はい」林田は颔いた。「梶川运転手の奥さんです。今、そこに来ておられて、我々の话し合いが终わるのを待っておられるんです。それで、どうしても一言皆さんにお诧びをいいたいとおっしゃってるんですが」   先程乱れた空気が、今度は冷たく固まった。そのくせ各自の体内では、血が急速に逆流を始めたに违いなかった。平介がそうだったからだ。顔が热くなっていくのがわかる。そのくせ手足は痹れるほどに冷たくなる。   突然がたんと音をたて、平介の前に座っていた男性が立ち上がった。夫妇连れと思われる二人の、夫のほうだ。彼は小声で妻に、「帰るぞ」といった。その鋭く短い言叶に、彼のいいようのない无念さが込められていた。   妻らしき女性のほうも、夫の行动に同感のようだった。一つ颔き、腰を上げた。皆が注目する中、二人は後ろのドアに向かってゆっくりと歩いていった。林田は声をかけない。彼等二人を止められる者など谁もいないのだ。   数人が彼等に同调した。出ていく者たちは皆、能面のように表情がなかった。   残った者の顔を见渡してから林田が讯いた。「では、梶川さんに入っていただいてもよろしいでしょうか」   谁も返事しない。林田は少し困惑した顔をしている。気の毒だなと平介は同情した。林田だって、事故を起こした运転手の妻など、喜んで迎えたくはないはずなのだ。   「じゃ、山本さん」林田は干事の中の红一点である山本ゆかりに声をかけた。彼女は颔いて、前のドアから出ていった。   気まずい沈黙が一、二分。その後、ドアが再び开いて山本ゆかりが顔を出した。「お呼びしてきました」   「入ってもらってください」林田がいった。   山本ゆかりの後から、痩せた小柄な女性が入ってきた。蛍光灯の光にさらすのが気の毒なほどやつれ、顔色も悪かった。白いカーディガンの肩の部分が濡れている。雨の中を歩いてきたからだろう。   「梶川の妻です」ややうつむき加减のまま彼女は口を开いた。身体と同様に细い声だった。「このたびは夫のミスで、皆様から大切な御家族を夺うことになってしまい、本当に申し訳ございませんでした」そして彼女は深く头を下げた。薄い肩の震えているのが、平介の位置からでもはっきり见えた。   室内の空気がずっしりと重くなった。それがすべて彼女の细い身体にのしかかっていくようだった。今にも押しつぶされそうな気配がある。だが彼女はゆっくりと头を上げた。「夫は亡くなってしまいましたけれど、夫にかわって私が、できるかぎりの偿いをしていきたいと思っています。とにかく、そのことをどうしても申し上げたくて、今日ここへ来させていただきました」途中から声が震えた。手に持っていたハンカチで目を押さえた。   「林田さん」その时一人の男性が立ち上がって発言した。スーツを着た男性だった。「どうしてこんな人を呼んだんですか」   「それはですね――」   林田が説明しようとすると、「私がお愿いしたんです」と梶川の妻がいった。「私が无理をいって……」   「あなたは黙っててください」スーツの男性が遮った。「私は今、林田さんに讯いているんですから」   ひやりとするほど冷たい口调だった。梶川の妻は口を闭ざした。   「ええとですね、理由は二つあるんです」林田がいった。「一つは、谢罪したいという梶川さんの希望をきいたわけです。もう一つは、さっきもいいましたけど、过労运転の问题を明らかにするためにはですね、梶川さんの证言なんかも贵重になってくるので、早い段阶で顔つなぎをしておこうと思ったわけです」   説明は理にかなったものだった。スーツの男性も纳得はしたようだ。しかし腰をおろす时、「我々と顔つなぎをしておく必要なんかあるのかな」と独り言のように呟いた。   「あなたね、别に谢らなくてもいいですよ」どこからか声がした。女性の声だった。平介は首を伸ばした。最前列に座っている初老の女性が梶川の妻のほうを向いていた。「运転していたのはあなたじゃないんですからね。あなただって、本当はそう思っているんでしょ? でも世间体のこともあるし、何もしないと人から何といわれるかわからないから、こうして谢りにみえたんでしょ? そんな形だけの谢罪なんて、いくらしてもらったって嬉しくも何ともありませんからね、もうやめてください」   「いえ、私はそんな……」梶川の妻は反论しようとした。   「いいです、いいです。もう何もいわないでください。そこでそんなふうに立っていられると、まるでこっちがあなたをいじめているような気がするんです」そういってから初老の女性は、ふうーっとため息をついた。それがよく闻こえるほど、室内は静まり返っていた。   彼女の台词は全员の言叶を代弁しているのかもしれなかった。そうだそうだ、という呟きが闻こえてきそうだった。平介もじつは呟いた一人だ。梶川の妻も夫を失って辛いのだろうと头ではわかっていても、同志とは见られなかった。   「ええと、では梶川さん、これぐらいでいいですね」ぅなだれている彼女に、林田が声をかけた。この局面には不似合いなほど、軽い口调だった。   梶川の妻は小さく颔いた。それを见て林田は山本ゆかりに目で合図を送った。山本ゆかりは彼女を连れて、前のドアから出ていこうとした。   ドアが开けられた时だった。平介の隣にいた藤崎が立ち上がった。   「あんたの旦那は人杀しだ」彼の声が响いた。   部屋全体がストップモーションになった。次にコマ送りになった。今にも泣きだしそうになっている梶川の妻を、山本ゆかりが肩を抱くようにして连れ出していく。遗族のうちのある者は藤崎を见上げ、またある者は敢えて彼から目をそらしたようだ。   皆がどう思っているか、平介にはわからなかった。はっきりしていることは、藤崎の台词によって救われた者など一人もいないということだった。彼が口にしたのは、やはり禁句だったのだ。すきま风が吹くような薄ら寒さが空间を占めていく。先程発言した最前列の老妇人は、明らかな不快感をその表情に漂わせていた。   しかし无论谁も藤崎を责めることはできなかった。皆にできることは、彼の台词を闻かなかったふりをすることだけだった。   「ええと、では」林田が一同を见回していった。「何か质问はありますか」   [#ここから7字下げ]   11   [#ここで字下げ终わり]   ホテルを出る顷には、雨はますます激しくなっていた。平介は伞をさし、一人で新宿駅に向かった。   直子にケーキでも买って帰るか――そう思い新宿駅の近くをうろうろした。妙なものだった。直子が彼の妻の姿をしていた时には、土産を买うことなどめったに思いつかなかったのだ。   いい店が见つからないので小田急百货店に入ろうと思った时だった。駅の柱の阴で、一人の女性がしゃがみ込んでいるのが见えた。梶川运転手の妻だった。気分でも悪いのかと思ったが、そうではなさそうだった。彼女は烟草を吸っていたのだ。时折すぐ横の灰皿に手を伸ばし、灰を落とす。さすがに足は奇丽に揃えていたが、大人の女が公共の场でしゃがんでいるのは、见てくれのいいものではなかった。しかしたぶんそれほど疲れているのだろう。年齢は四十歳前後と思われたが、背中を丸めた姿は老婆のようだった。   平介は気づいていないふりをしようと思ったが、一瞬遅れた。彼女の目が彼を捉えたらしいのだ。虚ろだった目が、大きく开かれた。口も开けられた。小さく、あっと叫んだ感じだった。   仕方なく平介は头を下げた。おそらく彼女のほうは、テレビで见て平介の顔を知っていたのだろう。   彼女は即座に立ち上がり、会釈を返してきた。そしてそのまま足早に、どこかへ立ち去ろうとした。   だが次の瞬间、彼女の身体は踊るように舞っていた。そして宙を掴むように手を动かしながら、コンクリートの地面に崩れ落ちた。「あっ」という小さな悲鸣が彼女の口から発せられたのは、その後だった。   平介は急いで駆け寄った。通りかかった人々がじろじろと见る。だが彼女を助けようとする者は、平介のほかにはいなかった。   「大丈夫ですか」右手を差し出しながら平介は寻ねた。   「ええ……はい、大丈夫です」   「目眩をされたようですが」   「はい、ちょっと立ち眩みを」しゃがんでいて、急に立ち上がったからだろう。それに体力もなさそうだ。   「掴まってください」彼は改めて右手を出した。   すみません、といって彼女はそれに掴まってきた。だが立ち上がりかけたところで顔を歪め、再び腰を落としてしまった。右足の足首を擦っている。   「あ、くじきましたか」   「いえ、大丈夫です。本当に……はい」彼女は自力で立ち上がろうとした。しかし足首がかなり痛そうだ。平介が手を贷して、何とか立ったが、歩くのは无理なようだ。   「お宅はどちらなんですか」平介は讯いた。   「あ……もう御心配なく。帰れますから」いいながら顔をしかめている。   「迎えに来てくれそうな人はいないんですか」   「ええ、あの、何とかします」   梶川运転手の妻は、何としてでも平介の世话にはならないでおこうと决めているようだった。その気持ちはわかるし、彼としてもこのまま逃げたい気分だったが、やはり放り出すわけにはいかなかった。   「家はどこですか。それを教えていただかないと、どうしようもないんです」ちょっときつい口调でいってみた。彼女は、はっとしたようだ。   「あの……调布です」   「调布。それなら同じ方向です。タクシーに乗りましょう」   「あ、いえ平気です。歩いて帰れます」   「无理ですよ。人がじろじろ见ますから、いうとおりにしてください」   彼女の持ち物は黒いハンドバッグとデパートの纸袋と折り畳み式の伞だった。平介はそれらをまとめて右手で持ち、左手を彼女が身体を支えられるように贷した。それでようやく移动することができるようになった。   タクシーの中では殆ど会话はなかった。彼女はどうもすみませんとしかいわないし、平介はそのたびに、いいえ、と答えるだけだった。   タクシーは二阶建てのアパートの前で止まった。パネルを组み立てるだけで出来上がりそうな简単な建物だった。   料金は平介が払うつもりだったが、梶川の妻は自分が払うといってきかなかった。结局割り勘にした。   ここでもういいから、このままタクシーに乗って帰ってくれと彼女はいったが、平介は降りた。部屋は二阶にあると闻いたからだった。   四苦八苦しながら二阶に上がると、今度はこのまま帰してはいけないと思ったか、お茶でもどうぞ、と彼女はいった。   「いや、お构いなく。荷物を置いたら、すぐに帰ります」   「そんな、わざわざここまで来ていただいて……お茶ぐらい淹れさせますから」   この言叶が平介は少し気になった。淹れさせますから?   ドアの横には表札が出ていた。梶川幸広と书いた横に、征子、逸美と并んでいる。征子というのが、この女性の名前らしい。逸美というのは娘だろう。ドアを开けると梶川征子は、「イツミ、イツミ」と奥に向かって呼びかけた。すぐに物音がして、ショートカットの中学生ぐらいの女の子が出てきた。ジーンズにトレーナーという出で立ちだった。彼女は平介を见て、ちょっと惊いたようだ。   梶川征子が娘に事情を説明した。「ドジ」と梶川逸美はうんざりした顔でいった。   「とにかく杉田さんにお茶を淹れてちょうだい。それからお座布団用意して」梶川征子が指示する。平介は居心地が悪くなった。   「本当にもう、これで失礼しますから」   梶川征子は彼に向かって头を下げた。「お茶だけでも饮んでいってください。お愿いします」   やつれた顔の彼女にいわれると、あまり强く固辞するのも大人げないような気もした。では少しだけ、と断って平介は靴を脱いだ。   梶川家の间取りは2DKのようだった。入ってすぐのところに少し広めのダイニングキッチンがあり、奥に部屋が二つ并んでいる。一方は洋室で、もう一方は和室らしかった。たぶん和室には仏坛が置かれているのだろうと平介は察した。线香の匂いが漂ってくるからだ。   突然梶川征子が床にしゃがみこんだ。また立ち眩みをしたのかと平介は思ったが、そうではなかった。彼女は彼に向かって土下座していたのだ。   「杉田さん……このたびは、本当に申し訳ありませんでした。奥さんのこと、何といってお诧びしていいかわかりません」额をクッションフロアにこすりつけていた。   「梶川さん、やめてください、そんなことしてほしくはないです。やめてください、お愿いします」平介は彼女の腕を掴み、立たせようとした。そうしながら、この土下座をしてみせるために俺を部屋に入れたのだろうかと彼は考えていた。   くじいた足が痛んだのか、「痛っ」といって彼女が顔をしかめた。   「あっ、大丈夫ですか」平介はゆっくりと彼女を立たせ、そのまま椅子に座らせた。   梶川征子は、ため息をついた。   「すみません、満足に谢ることもできなくて……」   「もう本当に、そういうことはしていただかなくて结构ですから」平介はいった。   気まずい沈黙が室内に広がった。薬缶がしゅーしゅーと音をたてている。逸美がガスレンジの火を消し、急须を使って茶を淹れ始めた。   平介の前に汤饮み茶碗が置かれた。何かの景品でもらったような茶碗だった。   「ありがとう。ええと、中学生?」   「中学二年です」   「そう。じゃあ、うちの娘よりも二つ上だ」   特に意味もなくいったのだが、梶川征子は简単には闻き流せなかったようだ。   「お嬢さんにも、大変な目に遭わせてしまって……本当は直《じか》にお会いしてお诧びしたいんですけど」绞り出すようにいった。   娘は死んだんですよ。そういいたかった。生きているのは身体だけです。そして妻は身体を失った。あなたの旦那のせいだ――。   「お父さんは」立ったまま、不意に逸美がいった。「とても疲れてたんです」   「そうなのかい」   平介が讯くと、彼女は小さく颚を引いた。   「去年の暮れから全然休みもなくて、お正月もなくて、家には寝るために帰ってくるだけでした。いつもくたくたで、スキーバスの仕事がある时は、なかなか仮眠もとれないから辛いっていってました」   「たしかに超过労働が问题になっているようですね」平介は梶川征子にいった。   征子は颔いた。   「一月と二月は特にひどかったと思います。スキー场のホテルに一応仮眠室を确保してあるそうなんですけど、连休なんかで混む时期には、それも客室として取り上げられてしまうので、食堂でうとうとしながら过ごすこともあったようです。一応バスは交代で运転するんですけど、车内で熟睡なんかできないともいってました。ドライブインに止まるたびに、チェーンをつけたり外したりもしなきゃならないから、ちっとも休めないとも」   「それは大変だ」平介は相槌をうつ。しかし完全に同情しているわけではない。事故を起こしたことの言い訳にしか闻こえない。少し皮肉を込めていってみる。「体调管理も仕事のうちということでしょう」   梶川征子は、目の前でぱんと手を叩かれたような顔になった。瞬きをし、うつむいた。   「うち、贫乏だから」逸美がいった。「少しでもたくさんお金をもらおうと思って、お父さん、无理したみたいです」   「贫乏だったら、こういう部屋にも住めないと思うよ」   「だからそれは、お父さんががんばってくれたから……」そこまでいうと彼女はくるりと身体の向きを変え、奥の洋室に入ってしまった。   「どうもすみません。失礼なことばっかりで」梶川征子が头を下げた。   いえ、といって平介は茶を啜った。薄い玄米茶だった。   「では私はこれで」彼が腰を浮かした时、电话が鸣った。电话机は壁际の小さな组立棚の上に载っていた。   征子が腕を伸ばして受话器を取ろうとした时、洋室のドアが开き、逸美の甲高い声が飞んできた。「いやがらせっ」   それで征子は少し踌躇したようだが、结局そのまま受话器を取り上げた。「もしもし」   すぐに彼女は眉を寄せ、受话口から少し耳を离した。数秒间そうした後、静かに受话器を置いた。   「やっぱりそうでしたか」と平介は讯いた。   彼女は小さく颔いた。「最近はかなり减ったんですけどね。时々思い出したように」   今日もすでに何度かかかってきているのだろう。逸美も电话に出たに违いない。   いやな気分だった。その不快感を断ち切るために、平介は势いよく立ち上がった。   「じゃ、これで失礼します」   「あ、どうもありがとうございました」   彼が靴を履こうとした时、再び电话が鸣りだした。征子は彼を见上げて悲しげな顔をした後、さっきと同じように电话机に腕を伸ばした。   平介はその手を上から軽く押さえた。征子は少し惊いて彼を见る。その顔に向かって一つ颔き、彼は受话器を取り上げた。   「ひとごろし」   深い井戸の底で呟くような声が闻こえた。男か女か、すぐには判别できないほど低い声だった。   「いつまで生きているんだ。早く死んでしまえ。そうするしか、つぐなえないだろう? 明日の午前二时までに首を吊って死ね。さもないと」   「いい加减にしろっ」平介は怒鸣った。男が出るとは思っていなくて惊いたのか、相手は即座に电话を切った。ツーツーという発信音だけが残った。   彼は受话器を元に戻した。「警察には届けましたか」   「いえ、悪戯电话の相谈なんかには、あまりまともにのってくれないと闻きましたから」   そうかもしれないなと思い、平介は黙っていた。それにいやがらせの根拠が明白なだけに、彼女としても警察に诉えにくいのだろう。   电话机の横に、小さなカードのようなものが载っているのが目に留まった。平介はそれを手に取った。ある会社の従业员证だった。征子の写真が贴られている。『准』という印が押されているのは、正式社员ではなく、季节労働者などの准社员という意味だろう。   「田端制作所……金属加工の会社ですね」   「ええ、よく御存じですね」   「うちの下请け会社ですから。何度か出向いたことがあります」   「ああ、そうなんですか。じゃあ、ビグッドに?」   「はい」平介は颔いた。株式会社ビグッドというのが、彼の勤める会社の名だった。创始者の名字が大木だったのでビッグ?ウッドを缩めてビグッドとなったという话だ。   「いつから働いておられるんですか」   「去年の夏からです」梶川征子は答えた。   「へえ」意外だった。一家の大黒柱がいなくなったから、やむをえず征子が働き始めたのだろうと思ったのだ。   「こんなことを杉田さんにお话しするのは変なんですけど、うちは本当にお金がなかったんです」彼の内心を察したように征子はいった。「主人は休む间もなく働いていたんですけど、どういうわけかお金は全然残りませんでした」   「お金は使えばなくなりますよ」   「それが、そんなに无駄遣いをした覚えがないんです」   「御主人がそれほど超过労働を强いられていたのなら、手当も少なくはなかったと思いますが」   「だけど本当に、お给料は大したことなかったんです。いつも赤字を出さないようにするのが精一杯でした」   「どういう赁金形态になっていたのかなあ」平介は首を倾げた。   「わかりません。主人は私に、お给料の明细とかを见せてくれませんでしたから。生活费は、主人が银行から下ろして私にくれていたんです。でもそれだけではどうしても苦しくて、少しでも足しになればと思って私も働くことにしたんです」   「御主人が倹约家だっただけかもしれませんよ。银行には结构预金してあるのかもしれない」   平介の言叶に、彼女はかぶりを振った。   「预金なんて大してありませんでした。だから私がすぐにでも働かなきゃいけなかったんです」   妙な话だなと平介は思った。バスの运転手がそんなに低赁金では、谁もやりたがらないのではないか。しかし梶川征子が嘘をついているようにも见えなかった。   「バス会社の労働条件などについては、これからどんどん明らかになっていくと思いますよ」几分傍観者的な响きをもたせてそういい、平介は靴を履き始めた。同情しないこともないが、この女性と连帯意识を持つわけにはいかないと思った。それは先程顔を合わせた被害者の会の仲间たちを里切ることになるような気がした。   失礼しましたお大事に、といって彼は部屋を出た。梶川征子のほうも何かいったようだが、彼の耳には届かなかった。   [#ここから7字下げ]   12   [#ここで字下げ终わり]   夕饭は笋ご饭と茶碗蒸しとブリの照り焼きだった。いずれも平介の好物だ。   「笋ご饭の味がちょっと浓すぎちゃったかな」と直子はいったが、平介はいつもどおりだと感じた。塩分の取りすぎに敏感な直子は、「味が浓すぎたかな」と呟くのが癖なのだ。   「今朝の件、あれからどうなった」   「今朝の件って?」   「田岛君と远藤君のことだよ。俺、间违えちまっただろ」   「ああ」直子は笑いだした。「そうだった。あれ、危なかったわよねえ。大丈夫、特に谁も気にしなかったみたいだから」   「それならよかった。やっぱり子供ってのはすごいよな。一年で、あんなに変わるものなんだな」   「あたしもそれで今日は一日大変だった。特に六年生っていうのは、体格だけじゃなく顔つきも急に大人びる子がいるのよ。结局顔と名前を覚え直すことになっちゃった」   「覚えられたか」   「无理无理。ごまかしながら覚えていく」直子は笋ご饭を食べながらいった。手に持っているのは彼女の茶碗だ。藻奈美の茶碗でないのが、平介には少し妙な感じだった。   「ところで、あの远藤って子は何者なんだ。どうして直子に……というか、藻奈美に対してあんなに驯れ驯れしいんだ」   「気になる?」直子はにやにやした。   「何だよ、その笑いは」   「いやあ、やっぱり気になるだろうなあと思って。あたしだって気になったし」   「もったいぶるなよ。どうせ调べたんだろう」   「まあね。あの远藤君はね、藻奈美の第一ボーイフレンドだったのよ」   「第一? 何だ、それ」   「ほら、アラブの王様なんかだと、第一夫人第二夫人っているじゃない。あれみたいなものよ」   「くだらない。じゃあ、第二第三のボーイフレンドもいるのか」   「まあ、谁が第二で谁が第三とはっきり决まっているわけではなさそうだけどね。とにかく今のところ第一は远藤君。今年の冬から急に仲艮くなったみたいよ」   「何だ、それ。ガキのくせに生意気な」吐き舍てるようにいい、平介は茶碗蒸しを啜る。鲣だしがきいていて、じつに美味だ。直子の味だな、と思う。   うふふ、と直子は笑った。   「平ちゃんは面白くないかもしれないけど、藻奈美はかなりもてたみたいよ。廊下を歩いていると、よそのクラスの男の子たちも、いろいろとちょっかいをかけてくるの」   「からかわれてるだけだろ」   「马鹿ねえ。小学生ぐらいの男の子は、好きな女の子の気をひこうとして、逆にその子の嫌がりそうなことをするのよ。平ちゃんだって覚えがあるでしょ」   「忘れたよ、そんなこと」   夕食を食べ终えると、平介は直子が食器を洗うのを手伝った。彼女が洗剤でこすったものをすすぐのだ。前はこんなこと一度もしてくれなかったのにと彼女はいった。   「中身は直子だってわかっているんだけど、その小さい手とかを见てると、どうもほっとけないんだよな。皿とか落として割るんじゃないかと思ってさ」   「そういうけど、身长も手の大きさも、あたしと藻奈美じゃさほど変わらないのよ。ずいぶん细いっていうだけ」   「そりゃま、细いよな」直子の本来の姿を思い出して平介はいう。身长百五十八センチ、体重は五十キロプラスアルファ。   「それにあなたは知らないかもしれないけど、藻奈美も近顷じゃずいぶんと家事がこなせるようになってたのよ。今日あたしが作った料理なんか、たぶん作れたんじゃないかな」   「へえ、そうなのか」   「裁缝だって上手だったわ。あなたのチャコールグレーの上着のボタン、あの子がつけたのよ。気がつかなかったでしょ」   「全然気づかなかった。ふうん、あいつがねえ」そういって直子の、つまり藻奈美の姿をしげしげと眺める。あの上着のボタンは大切にしなきゃなと思った。   「ただし」と直子は右の肩を回した。「力はないのよね。食器を洗っていると腕がだるくなってきちゃう」   二の腕の太さが半分だものな、と平介は心の中で呟く。   「それで会合のほうはどうだった」   「うん、それほど大きな进展はなかったんだけどな」   平介は补偿金の话をした。八千万円という金额を闻いても、直子はぴんとこなかったようだ。ふうんといって首を捻っただけだ。   「目标が八千万ということだろう。たぶんもっと下になるんじゃないか」   「きっとね」食器をすべて洗い终えた直子は、自分の手についた洗剤を汤で流した。   「それより、话し合いの後でおかしなことになっちゃってさ」   「おかしなこと?」   「うん」平介は梶川征子が来たことや、帰りにその征子の家に寄る羽目になったことなどを话した。直子は大きな黒目をくるくる动かしながら闻いていた。   「それは大変なことだったわね。お疲れさま」   「まあ、ちょっとしたハプニングだよ」   二人は和室に戻った。いつもなら即座にテレビのスイッチを入れるところだ。だがその前に直子がいった。「あたし、今の平ちゃんの话を闻いてて、思い出したことがある」   「何だ」   「バスの中でのこと」   「どんなことだ」   「二人の运転手が话してるのを、ちょっと闻いちゃったのよ。どこかのドライブインに着いた时だったと思う。ほかのお客さんは休憩のために出ていっちゃったんだけど、あたしと藻奈美は残ってたの。というより、藻奈美があんまり気持ちよさそうに寝ているものだから、起こすのがかわいそうになっちゃったのよね。それでどうしようかと思っていたら、前から声が闻こえてきたの。あたしたちのすぐ前が交替した运転手の仮眠用の席で、その前が运転席だったわけ」   「何か変なことでも话してたのか」   「别に変なことじゃない。でもちょっと気になることではあったの。ユンケルを饮んどいたほうがいいかなあとか、カフェインはまだ残ってたかなあとか、そういうこと。どっちがどっちにしゃべってたのかはわからないけど」   ふうん、と平介は腕组みをする。その言叶からだけでも、超过労働だったことが窥えるわけだ。   「そのこと、警察に教えてやったほうがいいかなあ」彼は首を捻った。   じつは事故直後、长野県警から平介に、お嬢さんの话を闻かせてもらえないかという申し出があった。助かった人たちの证言を彼等は集めていたらしいのだ。その时平介は、娘はショックで口がきけない状态だからという理由で断った。それから数日して、再び県警から同様の依頼があった。杉田藻奈美ちゃんが口をきけるようになった、というニュースを闻いたからだろう。だが平介は再び断った。精神状态が不安定のままだし、事故时には眠っていて何も见ていないらしいからと説明した。本当は、藻奈美を迂阔《うかつ》に他人に会わせたくなかったのだ。その理由はいうまでもない。   「别にいいんじゃないの、この程度のことなら」と直子。   「そうかな」平介は颔く。直子を证言台に立たせたくない気持ちは変わらない。   「それより、この话には少し続きがあるんだけど」   「何だ」   「どっちかの运転手がこんなふうにいったのよ。あんたもがんばるなあ、今日ぐらいは休めばよかったのに、そんなに稼いでどうするんだ――」   「ははあ、やっぱり働きすぎを意识していたということだな」   「そんなことじゃなくて、変だと思わない? そんなに稼いでどうするんだっていう台词。だって梶川って人の奥さんの话だと、いくら働いてもあまり収入が増えなかったわけでしょう?」   「あの人はそういってた」   「ねえ、いくら残业しても手当が大したことないって场合に、『そんなに稼いでどうするんだ』なんていう? やっぱりこれは、それ相当のお金をもらってるってことじゃないのかなあ」   「だけど、それ相当っていうのは个人の感覚だぞ」   「でもあなたの目から见て、梶川さんが赘沢をしているようには思えなかったんでしょ」   「それは、まあな」   2DKのアパート。安っぽい组立家具。何かの景品らしき汤饮み茶碗。   「じゃあどういうことだ。稼いでたのに、家には金がなかったってことになるのか」   「そういうことでしょ」   「梶川运転手が、家には金を入れず、ほかのことに使ってたってわけか」   「たぶんね」   「博打とか?」   「女とか」   「ああ」それもあったか。いや可能性としては、そちらのほうが高いか。「奥さんは、そういうことは全然いってなかったけどな」   「知らないか、とぼけてるかのどっちかでしょ」   「そういうことなんだろうな」平介は梶川征子の痩せた顔を思い浮かべた。嘘をついているようには见えなかった。それとも芝居がうまかっただけだろうか。   突然直子が含み笑いを始めた。平介は惊いて彼女の顔を见た。何かがおかしくて笑っているのではなさそうだった。藻奈美の特徴だった大きくて少しつり上がり気味の目は、空间の一点を见つめていた。どうしたんだ、と彼は讯いた。   「なんだか情けなくなっちゃって」と彼女はいった。口元にはまだ意味不明の笑みが张り付いている。   「情けない? 何が」   「だって」彼女は平介を见た。「事故の原因を考えたら情けなくなるじゃない。女に贡ぐつもりだったか、竞轮竞马につぎ込む気だったかはわからないけど、とにかくそういう金を稼ぐために运転手は无理をしてバスを动かした。その结果事故が起きて、何の関系もない人が大势死んだ。あたしと藻奈美はこういうことになってしまった」   ばかばかしい死、と彼女は付け加えた。氷の破片のように冷たく鋭利な言叶だった。   「调べてみるよ」平介はいった。「梶川运転手の稼いでいた金がどうなっていたのか、はっきりさせてみる」   「いいわよ、平ちゃんがそんなことしなくても。ごめんね、ちょっと愚痴ってみたかっただけ」直子は微笑《ほほえ》んだ。今度は不自然なものではなかった。   「いや、このままじゃ俺も纳得できないから」そういって平介は仏坛に饰ってある直子の写真を见た。   [#ここから7字下げ]   13   [#ここで字下げ终わり]   威势よくいったはいいが、梶川运転手について何も调べないまま二周间が过ぎた。何かしなくてはと思うのだが、时间がなかった。日本経済は活况を呈しているようで、平介の会社も残业や休日出勤が増えている。   电子式燃料喷射装置制造工场というのが现在の彼の职场だった。その电子式――というのは、エンジンに送るガソリンの量をコンピュータで制御するというもので、従来のキャブレターにとってかわるものだった。高级志向の象徴だなと平介は内心思っている。   火曜日の昼休み、彼はいつものようにいつもの场所でいつものメンバーとトランプに兴じていた。いつもの场所というのは、工场の入り口にある休憩室である。会议机があり、それを囲むようにパイプ椅子が置かれている。いつものメンバーというのは、同じ生産ラインにいる仲间たちだ。现场一筋三十年のベテランもいれば、二十歳前の若者もいる。トランプの种目はセブンブリッジ。もちろん赌けてやっている。月末に集计するのだが、平介はいい思いをした记忆があまりない。   「あっ、またかよ」あと一歩で上がれる时になって、すぐ横の若者に先を越された。入社二年目の拓朗だ。平介はカードを叩きつける。「ちょっとは远虑しろよなあ。こっちは当分夜勤がないんだからさあ」   「えっ、俺たち来周夜勤じゃなかったっけ」拓朗が讯く。ムースでぴたりと决めた髪形を乱さないため、作业帽を常に斜めにかぶっている。   「夜勤じゃないのは俺だけだよ。おまえたちは夜勤。がんばってちょうだい」   「へえ、どうして班长だけ违うわけ」   「どうしてって、夜勤をやるわけにいかないからだよ」   それでもまだわからないらしく拓朗は何かいおうとした。その彼の腕を、隣の中尾达夫がぽんと叩いた。钝いな、おまえ――という感じだ。   「课长のほうからオーケーは出たのかい」中尾がそのまま讯いてきた。彼は平介よりも二つ年上だ。寿司职人の见习いだったこともあるという変わり种である。   「うん。夜勤の间はB班の手伝いをすることになった」   「そうか。B班は人が足りないっていってたからなあ、平さんが行けば助かるだろう」   この顷には拓朗も事情を饮み込めたらしく、黙って颔いていた。   夜勤を何とかしてもらえないだろうかということは、事故後初めて出社した日に课长の小坂にいってあった。彼が夜勤に出れば、その一周间、直子が一人で夜を过ごさねばならない。女一人というだけでも不安なのに、直子の外见は小学生なのだ。   何とか考えてみようと小坂课长はいってくれていた。その答えが先日出たのだ。夜勤手当がなくなるのは痛いが、何かあってからでは遅い。   「おっ、噂をすれば」中尾が入り口のほうを见た。小坂が近づいてくるところだった。   「やってるな、谁が胜ってる?」得点表を见ながら小坂は讯く。背が低く、顔が大きい。头が身体にうずもれたように见えるほど首が短い。「おっ拓朗か。平さんはどうだ」   いつもどおり、と声が飞ぶ。皆が笑う。つまり胜ってないということだ。   「これからだって。まあ见てな」平介は帽子の锷《つば》を後ろ向きにし、配られたカードに手を伸ばした。   「はりきっているところを悪いんだが」小坂が平介の顔を见ていった。「ちょっといいかな。頼みがあるんだ」   平介は舌打ちをし、伸ばした手を引っ込めて腰を上げた。「なんだ、せっかくいい手が来そうだったんだけどな」   「残念なのはこっちだよ。カモがいなくなった」   拓朗の头を殴る格好をしてから、平介は『赌场』を离れた。小坂と二人で少し离れたベンチに座る。   「じつは午後からタバタに行ってきてほしいんだ」小坂はいった。「今、D型インジェクタの试作をあっちでやらせてるだろ。ところがノズルの穴あけをする时の位置决めがえらく难しいとかで、ちょっとトラブってるらしいんだ。それで生産技术の连中が様子を见に行くそうだから、平さんにも见てきてもらえるとありがたいんだけどな」   「ああ、なるほど。いいですよ。そういうことなら见ておいたほうがいいと思うし」   D型インジェクタというのは、来年本格的に生産がスタートする予定の制品だ。现在はそれを田端制作所で作っている。その试作品を使ってビグッドの研究者たちがテストを缲り返し、最终的な确认を行っているわけだ。そして正式に生産が始まるとなれば、平介がその制造ラインを担当することになっていた。だから试作する段阶で出てきた问题なども、できるだけ把握しておく必要があった。   だが平介は仕事以外のことも咄嗟に考えていた。田端制作所には梶川征子がいる。   「そうかい。そうしてくれると助かる。じゃあ生技の连中にいっておくから」   「わかりました」   ところで、と课长は少し声をひそめていった。   「娘さんの様子はどうだ。もう落ち着いたかい」   「ええ、まあなんとか」平介は答えた。この话题になると、ついうつむき加减になる。   「そうか。それはよかった。いつまでもくよくよしてても仕方がないしなあ」一呼吸置いて小坂は続けた。「だけどあれだぞ。やっぱり、男手一つで子供を育てるというのは难しいぞ。特に女の子の场合は」   「それはよくわかってます」とりあえず平介はこう答えた。じつは现在の彼に、女の子を育てているという意识はない。妻と二人で生活しているという感覚だった。   「まあ、今は无理だろうが、いずれは真剣に考える必要が出てくるんじゃないかな。その时は相谈に乗るから、远虑なくいってくれ」小坂は平介の膝をぽんぽんと叩いた。   はあ、と平介は小坂の大きな顔を见返した。「课长、何のことをいってるんですか」   「何いってるんだ。再婚のことだよ。娘さんの新しい母亲のことだ」   「ええー」平介は大口を开けてから、その顔の前で手を振った。「いや、それはないです。そんなつもりはないです」   まあまあ、と小坂はいった。   「今はそうだろうさ。考えられるわけはないさ。だから、头の隅にでも置いといてくれりゃいい。そういう気になったら、俺のところへ来てくれればいい。な、な」   肩を叩かれ、はあ、と平介は答えてしまっていた。   「じゃ、そういうことで」小坂は立ち上がり、工场を出ていった。その後ろ姿を见送りながら、平介は二つのことを思い出していた。一つは小坂が世话好きであるということ、そしてもう一つは、直子との结婚式では小坂に仲人をしてもらったということだった。   午後、平介は生産技术の担当者二人と车で田端制作所に出向いた。二人とも気心の知れた人物だった。木岛という担当者は平介よりも少し下で、もう一人の川辺は二十代半ばだ。生産ラインを立ち上げる时には、饱きるほど顔を合わせることになるはずだった。   田端制作所は府中にある。畑の真ん中に突然建っている感じだ。社会の教科书に载っているマークそのままに、屋根がジグザグになっている。   生産ラインがずらりと并んでいるビグッドの工场と违い、ここには种々雑多に工作机械が置かれている。无论でたらめに置いてあるのではなく、亲会社の无理な注文にいつでも応えられるシステムになっているのだろう。   平介は木岛や川辺と共にD型インジェクタのノズル穴あけ工程を视察し、责任者の话を闻いた。亲会社から见に来たということで、明らかに平介よりも年上の班长が紧张している。俺たちはそんなに伟くないんですよと平介はいってやりたかった。   トラブルに関する话し合いは一时间半ほどで终わった。现场の班长としては参考となる话が多く有意义だった。问题はいろいろあるようだが、解决するのは生産技术担当者の仕事だ。木岛と川辺はインスタントコーヒーを饮みながら、深刻そうに话し合っていた。   ちょっと知り合いに挨拶してくるからといって、平介は彼等と别れ、工场内を歩き回った。千人以上いる作业员の大多数が男性だ。女性といえばまず事务员だが、この会社もビグッド同様パートの事务员はいないはずだった。   现场作业员で女性が多い职场となると、まずは巻き线だな――。   见当をつけながら歩く。モーターの中には电磁石が入っているが、あれの导线を糸巻きに巻きつけていく作业は、女性に向いているといわれているのだ。   巻き线班は工场の隅にあった。十人ほどの女性が巻き线机に向かって作业をしていた。帽子と安全眼镜のせいで、顔がはっきりわからない。不审に思われない程度に近づき、さりげなく全员の顔を见ていった。   すると一人の女性が作业を止め、彼の顔を凝视した。平介と目が合うと、あわてた様子で头を下げた。帽子と眼镜がやたらに大きく见えるのは、顔が痩せているせいだろう。   彼女は持ち场を离れると、责任者らしき男性の席まで行って何かいった。男性は平介のほうを见て、颔きながら彼女に答えた。   彼女が小走りに駆け寄ってきた。眼镜を取った顔はたしかに梶川征子だった。   「先日はどうもありがとうございました。おかげで助かりました」彼女は头を下げた。   「足はどうですか」   「ええ、もうすっかりよくなりました。御迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」   「いいえ。それより、いいんですか。持ち场を离れても」   「系长に事情を话しましたから」   「へえ……」どういうふうに话したんだろうと平介は気になった。   彼女の同僚たちの気を散らせてはいけないと思い、大きな高周波电源装置の反対侧に移动した。大型の箪笥ほどもあるその四角い装置は、平介が见たところ金属シャフトを高周波焼入れするのに用いられているようだった。   仕事でこっちに来たのでちょっと探してみたんです、と平介はいった。   「そうでしたか」梶川征子は紧张しているようだった。   「じっはあの後、あなたの话を思い出してみたんですが、どうしても纳得できなくて」   彼がいうと、征子は顔を上げた。伤つけられたような表情をしていた。   「旦那さんの収入が仕事の割に少なかったということはないと思うんです。これは、ある筋から闻いた话なんですがね。少なくとも、あなたが働かなきゃならないということはなかったはずです」   「でも」彼女は再びうつむいた。「本当にあまりお金がなかったんです」   「それは御主人がほかのことに使っていたからじゃないですか」残酷な意味を含んでいることを承知で平介はいった。   征子は上目遣いに彼を见た。「浮気のことをおっしゃってるんですか」   「博打かもしれません。あるいは、あなたの知らない借金があったのかも」   彼女は首を振った。   「そんなこと、とても考えられません。私の知っているかぎりでは絶対にありません」   だけど旦那が女房の知らないうちに多额の借金を抱えているというのはよくあることなんだけどな、とこれは平介も口には出せない。   「给与明细を见たことがないとおっしゃってましたよね」   「はい」と颔く。   「一度もですか。基本给がどれだけとか、知りたいとか思うことはなかったんですか」   「すみません」梶川征子は头を下げる。教师に叱られている生徒のようだ。   「信じられないなあ」平介は叹息する。本心から出た言叶だ。たとえば直子なら、今月の给料が大体どれぐらいになるか、たちどころに答えられるだろう。   「あの人は」征子がぽつりという。「自分のことはあまり话してくれなかったんです」   「でも、何年も连れ添ってきたわけでしょう?」   「六年です」   「えっ?」   「六年です。结婚して」   「ああ」なぜか平介の头に逸美の顔が浮かんだ。「するとお嬢さんは」   「私のほうの连れ子です」   「そうでしたか。ええと、前の御主人とは离婚なさったのですか」   「いえ、逸美の父亲は十年ぐらい前に癌で亡くなりました」   「そうでしたか」   急激に目の前にいる女性が気の毒に思えてきた。同时に、あの逸美という少女のことも哀れに思えた。六年で、新しい父亲に驯れることはできたのだろうか。   「御主人のほうは初婚だったのですか」   「いえ、ずいぶん前に结婚していたことがあると闻いています。でもその顷のことは全く话してくれませんでしたので、私もよく知らないんです」   「そうですか」   俺は何をしているのだろうと平介は思った。こんなところで彼女の身の上话を闻いている场合ではないのだ。   「とにかく御主人に浮気や博打をしていた様子はなかったのですね」   「それはありません」小さいが、きっぱりした声で彼女は答えた。   あまり长い时间仕事を抜けさせるわけにはいかなかった。平介は自分の腕时计を见た。   「あっ、そろそろ行かないと。どうもお仕事中すみませんでした」   すると彼女がいった。   「あの、少しここで待っていてくださいますか。すぐに戻ってきますから」   「何ですか」   「ええ、あの、ちょっと……」彼女は小走りにどこかへ行った。巻き线の职场とは全く逆の方向だった。   数分で彼女は戻ってきた。手に白い包みを持っていた。   「これをお嬢さんに。いただきもので悪いんですけど」   ビデァ∑ープほどの大きさの包みだった。包装纸に印刷されている文字から中身は察しがついた。ホワイトチョコレートだ。たぶん谁かの北海道土産なのだろう。   「いや、これはお宅のお嬢さんに持って帰ってあげてください。これをくれた人も、そのつもりだと思いますから」   「大丈夫です、二ついただきましたから。それに、逸美はあまり甘いものが好きじゃないので」   梶川征子は意外に强い力で押しつけてくる。台车を押した若い作业员が怪讶そうな顔で通り过ぎていった。   「そうですか、では远虑なく」あまり强く断るのも大人げないと思い、平介は包みを受け取った。   「じゃあ私はこれで」梶川征子は职场に戻っていった。大きな目的を果たしたと思ったのか、顔色が几分よくなっていた。   川辺の运転する车で、ビグッドに戻ることにした。车の中で平介は包みを开き、ホワイトチョコレートを二人に勧めた。食べきれなかったら、职场の仲间に振る舞うつもりだった。直子は甘いものが好きだが、梶川征子からの贳い物となると、いい気分はしないだろうと思った。   「杉田さんは食べないんですか」木岛が箱を持ったままいった。   「うん、ああ、じゃ、一つもらおうかな」平介は将棋の驹ほどの大きさのチョコレートを摘み、口に入れた。懐かしい甘さが口に広がった。チョコレートを食べるのなんて何年ぶりかなと思い、その後で思い出した。虫歯になるからといって、直子はめったなことでは藻奈美にチョコレートを食べさせなかったのだ。   [#ここから7字下げ]   14   [#ここで字下げ终わり]   平介の帰宅时刻は九时近くになった。なるべく早く帰ろうとしたのだが、残业が二时间あったのではどうしようもなかった。   直子は和室でテレビを见ていた。平介を见ると、「お帰りなさい、すぐに晩ご饭の支度をするからね」といって立ち上がった。   平介は二阶の寝室に上がってトレーナーとスウェットに着替え、再び阶段を下りた。その时にはもうキッチンからいい匂いがし始めていた。   「おっ、今夜は亲子丼か」鼻をひくつかせて平介はいった。   「当たり」と直子。「プラス、あさりの味噌汁」   いいねえといいながら平介は卓袱台の前に座る。亲子丼もあさりの味噌汁も好物だ。   新闻を拾い上げようとして、部屋の隅に押しやられている本やノートに目がいった。手に取ってみる。算数の教科书とノートだ。教科书に挟んである白い纸は问题を印刷したプリントだった。   「勉强してたのか」キッチンに向かって讯く。   「あっ、それ宿题」大声で直子は答えた。换気扇の音がうるさいからだ。「明日まで」   「へえ、大変だな。それはご苦労さん」   「ご苦労さん、じゃないわよ。後で手伝ってよ」トレイに丼を二つ载せて直子が入ってきた。细い腕が頼りない。   「えっ、俺が手伝うのか」   「当たり前じゃない。ほかに谁がいるのよ」无事に二つの丼を卓袱台に载せると、再びキッチンに戻った。味噌汁を运ぶためだろう。   「子供の宿题を手伝っちゃいけないといったのは直子じゃなかったっけなあ」   「あたしはあなたの子供じゃありませんよー」味噌汁を运びながらいう。「だってさあ、ちょっと见てごらんなさいよ。すごく难しいんだから」   「难しいというより懐かしいな。鹤亀算だぞ、これは」プリントを见ていった。   「わかる? さすがは高専出身ねえ」   「いくら何でも六年の算数ぐらい直子でもできるだろう」   「それが全然だめ。単纯な计算问题なら大丈夫だけど、文章题とか図形の出てくるやつはまるで苦手。昔からだめなの」   「ふうん」   いただきます、と軽く手を合わせてから平介は箸を取った。亲子丼も味噌汁もすこぶる美味しかった。直子の腕は、いささかも衰えていないと确信する。   料理がこんなに上手にできるなら算数なんかできなくてもと思うが、现実はそういうわけにはいかなかった。   「なあ、藻奈美ならこの宿题どうだったかな。わからないといって俺に泣きついたかな」   「たぶんそんなことはなかったと思う。あの子、あなたに似て算数は得意だったもの。じつをいうと、それでちょっと参ってるのよね」直子は眉に皱を寄せた。小学生の顔には合わない表情だった。   「何かあったのか」   「あったというか、目に见えないプレッシャーを感じるわけ。周りの子はあたしのことを算数の得意な女の子として见てるんだけど、じつは大违い。本当はこっちが教えてほしいぐらいなの。だけど急に苦手になったともいえないでしょ。おまけに先生まで、杉田さんならこの问题は軽いわねっていう顔で见る。必死で爱想笑いしてるけど、いずれボロが出るだろうと思うと気が気じゃないの」   ふうむ、と念って平介は味噌汁を啜る。   「小学生の算数がねえ」   「しみじみいわないでよ」   「だって三十六にもなってさあ」そこまでいって平介は口を闭じる。现在の直子を何歳といっていいのか、よくわからなくなったからだ。   しかし彼女のほうは三十六歳といわれたことに抵抗はないようである。   「何歳になろうと、わかんないものはわかんないのよ。小学生の时には解けなかった问题が、歳さえとれば解けるようになるってものでもないでしょ」   「それはまあそうだ」   平介は小皿に盛ったしば渍に箸を伸ばす。テレビでは二时间ドラマが始まっていた。出演者を见るだけで、谁が犯人かはおおよそ见当がつく。   「じゃあ、饭食って一息ついたら、算数の特训でもするか」   「気が重いけど、仕方ないわね」直子もしば渍を摘む。二人の口がぽりぽりと鸣った。   食後はテレビを消し、卓袱台を勉强机に変えての特训が始まった。   だが平介が教え始めて一时间も経つ顷には、意外な结果が现れていた。   「なんだ、简単じゃない」宿题のプリントを全部仕上げて直子はいった。目を丸くしている。「こんなにすらすらと算数の问题が解けたのなんて生まれて初めて。さすがに平ちゃん、教え方がうまいのねえ」   「いや、别に俺の教え方はうまくないと思うよ。ふつうだろ」   「えっ、でもとてもよくわかったよ。どうして今まで出来なかったのか不思议なくらい」   「それはもしかしたら」平介は彼女の顔を见た。さらに视线を少し上げる。「脳味噌が変わったからじゃないか」   「えっ」思わず、といった感じで彼女は自分の头に手をやった。   「意识は直子のものだけど、脳は藻奈美のものだよな。才能の质だとか得意科目なんてものは脳によって决まるわけだから、当然今の直子は藻奈美と同じ素质を持っているってことになるんじゃないか」   「あ、そうなのかな」直子も目が覚めたような顔をした。   肉体が変わった以上、当然そうなるはずだった。もっと早くに気づいていてもいいことだった。   「でもあたし、藻奈美みたいに算数とか理科を好きになれないわよ」   「そうかな。本当にそうかな。算数の特训する前と後でどうだ。何か少しは逮うんじゃないか。やっぱり今も嫌いかい?」   直子は卓袱台の上に置いた自分の手を见つめていた。伏せた睫《まつげ》が长い。   「よくわからないけど」顔を上げた。「明日、算数の授业があるなあと思っても、おなかがしくしく痛むようなことはないみたい」   「前は痛んだのか」   「とってもね」そういって彼女はにっこりした。「コーヒーでも淹れようか」   「おっ、いいね」   直子は片方の膝を立て、そのまま立ち上がろうとした。ところがその时、彼女の顔が不意に昙った。眉间を寄せ、首を捻る。「あれ、おかしいな」   「どうした」   「おかしいの」   「だから何がだよ」   「ちょっと……」直子はゆっくりと立ち上がった。平介を见下ろし、瞬きを何度か缲り返してから歩きだした。廊下に出て、トイレに入る。   やっぱり腹が痛くなってきたのかなと思いながら平介はテレビのスイッチを入れた。ニュース番组が始まっており、今日のプロ野球の结果を伝えているところだった。彼はとりあえずそちらのほうに意识を集中させた。彼は巨人ファンだった。   スポーツコーナーが终わりコマーシャルになっても、直子は戻ってこなかった。次の天気予报が始まる时になって、ようやく彼女はトイレから出てきた。   直子は复雑な顔をしていた。考え事をしているようであり、何か奇妙な発见をしたような顔でもあった。いずれにしてもさほど深刻な表情には见えなかったので、平介も気軽に寻ねてみた。「一体どうしたんだ」   「うーん」と彼女はまず念った。   「なんだ、どこか悪いのか」   「ううん、悪いわけじゃない」直子は元の场所に座った。だが何となく落ち着かないように平介には见えた。すると彼女は彼の顔を、じっと覗き込んできた。「明日は赤饭かな」   「えっ」一瞬何のことかわからなかった。だが彼もそれほど钝感ではなかった。すぐに彼女の言叶の意味を理解した。目を见开き、身体をのけぞらせていた。「あっ、あれか」   「そう」彼女は颔いた。「そういえばあの子、まだだったのよね。友达なんかで早い子だと五年生あたりできたらしいけど」   「ふうん」平介としては何ともコメントしようのない话题だった。「で、どうなんだ」   「どうって?」   「何か具合の悪いことでもあるのか。その、つまり、そういうことになって」   「ああ」直子は頬を绶ませた。「别にどうってことないわよ。生理なんか驯れてるもの。何しろ二十年以上付き合ってきてるんですからね。それに最初だから大した量じゃないし」   「今はどうしてるんだ?」   「今? ナプキンをつけたわよ。あたしのが残ってたから。ちょっと大きいけどね」   「ふうん」   ふうんとしかいいようがねえよなあこういう场合、と平介は头を掻く。そして思った。もし本来の藻奈美にこういうことがあった场合でも、こんなふうにとぼけた反応しか示せなかったに违いない。   「それは、どうも、おめでとう」   「ありがとう」直子はぺこりと头を下げてから、にっこり笑った。「これで藻奈美の身体も少しずつ女になっていくわけだよね。あたしみたいに生理痛がひどくなきゃいいんだけどな。でもこればっかりは、平ちゃんに似るわけにもいかないしねえ」   「そうだな」彼女の冗谈にも、平介はあまり笑えなかった。その前の「女になっていく」という台词のほうが、いつまでも头の中で反响していた。现在すでに精神的には完全に大人の女である直子が、今度は大人の女の身体を手に入れることになる。そうなったら自分たちはどうなるんだろうと思った。   [#ここから7字下げ]   15   [#ここで字下げ终わり]   杉田家の浴室は、家全体の大きさと比较するとかなり広い。浴槽は大人が足を伸ばしてゆったりと入れるほど长く、それに合わせて洗い场にもゆとりがある。前に住んでいた人が风吕好きだったのだろう。平介がこの家を気に入った第一の理由も、この広い浴室だったといってもいい。   浴室につかったまま、平介は浴室内を见回した。吸盘で取り付けた小さなフックにシャワーキャップが引っかけられている。あれを直子は最近でも使うことがあるのだろうかと彼は思った。シャンプーや石鹸を置くための棚には、柄がピンク色の安全剃刀が见える。平介が使うものではない。すぐに剃刀负けしてしまう彼は、毎朝电动髭剃り器を使うのだ。ピンク色の剃刀は直子が腋の下を剃るためのものだった。これは间违いなく现在は不必要だろうと平介は推测した。   杉田家では全员が毎日入浴することになっていたが、今夜は生理が始まってしまったため直子は入らない。平介が一人で风吕に入るのは、直子が入院していた顷以来だった。事故の前も、夜勤の周以外はいつも直子か藻奈美のどちらかと一绪に入っていた。浴室の広さを最大限に生かしていたわけだ。   しかしいつまでも直子と一绪に入るわけにはいかないのではないかと彼は思った。もちろんふつうの夫妇なら、死ぬまでそうしたって构わないだろう。だが现在の彼女は、直子であって直子ではない。外见は娘の藻奈美なのだ。   平介の知り合いにも、藻奈美と同じぐらいの年顷の娘を持った男がいる。彼等は皆、近顷では一绪に风吕になんか入ってくれなくなったと叹いている。藻奈美も本来ならば、そろそろそうなっていたはずなのだ。となれば谁も见ていないとはいえ、我が家でもそれをするのはまずいのではないか――。   考えれば考えるほどわけがわからなくなり、头がぼうっとしてきた。彼はタァ‰を水で濡らし、それを额に当てたまま浴槽から出た。   和室では直子が明日の准备をしていた。时间割を书いた纸を卓袱台に置き、それを见ながら教科书やノートを鞄に诘めていく。   「さっきも思ったんだけど、どうしてそういうことをここでするんだ?」冷蔵库から三五〇㏄の缶ビールを取り出しながら平介は讯いた。   「えっ、いけない?」   「いや、いけなくはないけどさ、せっかく藻奈美の部屋があるのにと思ったんだ」   二阶の六畳の洋室が藻奈美の部屋である。   「うん、そうなんだけどさあ」直子の歯切れはよくない。   「何か问题があるのか」   「ううん、别にそういうわけじゃない。ただ、あの部屋を使いたくないだけ」   「どうして?」   「うん、まあ、つまんないことなんだけど」直子は平介を见ていった。「あの部屋、藻奈美が生きていた时のままなの」   「えっ?」   「机の上に置いてあるものだとか、ベッドの布団の形とか、できるだけそのままにしてあるのよ。教科书だとかノートだとか、どうしても必要なものを取り出さなきゃいけない时には触るけど、それでも関系のないところは极力动かさないように気をつけてる」そういって彼女は自分の手元を见つめた。   平介は缶ビールを开けようとしていた手を止めた。なぜそんなことを、という疑问は涌いてこなかった。むしろ今日まで藻奈美の部屋がどうなっているかを考えなかった自分の迂阔《うかつ》さにうんざりした。直子のほうは藻奈美のふりをして学校に行きながらも家の扫除はしなければならないから、娘の部屋をどうするかについて毎日悩んでいたに违いない。   「そうだったのか」   「ごめん。马鹿みたいだと自分でも思うんだけど」   「ちょっと见てもいいか」平介は尻を浮かした。   「藻奈美の部屋?」   「うん」   「それはいいけど」   平介は腰を上げた。直子も立ち上がった。   杉田家の二阶には二部屋ある。阶段を上がったところでドアが二つ向き合っており、右侧が藻奈美の部屋、左侧が夫妇の寝室だった。   右のドアをゆっくり开けると、かすかにシャンプーのような香りがした。中は真っ暗だ。明かりのスイッチがわからず壁を探っていたら、横から直子が手を伸ばしてきてパチンと入れた。蛍光灯が一度瞬きした後、白い光が部屋に充たされた。   「なるほど」という言叶が彼の唇から漏れていた。   そこは纷れもなく藻奈美の部屋だった。窓际の机には、表纸で男性アイドルグループが笑っている雑志が置いてある。壁にも同じアイドルグループの写真。少年队という名前を、つい最近平介は藻奈美から教わった。本棚には少女マンガがずらりと并んでいる。小さなベッドにはギンガムチェックのカバーがかけられ、枕元ではテディベアのぬいぐるみ――あのテディベアだ――が座っていた。ベッドの表面が微妙に洼んでいるのは、藻奈美がごろりと横になった迹か。触れば体温が感じられそうな気がした。   「扫除は?」と平介は讯いた。   「床にちょっとだけ扫除机をかける程度」   「でもそれじゃあ埃だらけになっちまうだろ」   「うん」直子は颔いた。「いつまでもこんなふうにしておくわけにはいかないと思ってる」   「そうだよなあ」平介は大きくため息をついた。藻奈美が座っていた椅子に目がいく。イチゴの柄が入った小さな座布団が敷かれていた。见覚えがある。藻奈美がもっと小さかった顷、椅子が低すぎるというので、直子が作ってやったものだ。それを大きくなってからも使っていたらしい。   「直子、ちょっとそこに座ってみてくれないか」   「椅子に?」   「うん」   直子はあまりよけいなところに触らないでおこうと思っているのか、やけに慎重に椅子を引き、ゆっくりとそこに座った。平介のほうを见る。「これでいい?」   彼は腰に手をあて、座っている直子の姿を眺めた。この瞬间、彼の世界に藻奈美が戻っていた。懐かしい写真を见ているような気がした。「藻奈美……」彼は呟いていた。   夫が何を见ているのか、直子にわからないはずはなかった。「お愿いがあるんだけど」と彼女はいった。「镜を持ってきてくれない?」   「镜か」すぐに彼女の考えを彼も察した。「どこにあったかな」   「なるべく大きいのがいい」   「わかってる」すぐに一つのアイデアが浮かんだ。「待ってろ、今持ってくる」   平介は部屋を出て、向かい侧の寝室に飞び込んだ。こちらは和室だ。壁に箪笥が二つ。窓际には直子のドレッサーがある。いずれも结婚时に彼女が持ってきたものだ。   彼はドレッサーに近づくと、镜の部分を両手で抱え、力を込めて引き上げた。この部分が外れることは引っ越しの时に确认済みだ。   镜を完全に引き抜くと、それを抱えて藻奈美の部屋に戻った。「すごい、よく気がついたね」と直子も感心した。   平介は镜を床の上に立て、直子のほうに向けた。「どうだ」   「もうちょっと上に向けて。それから少し左。うん、それでいい」直子は镜に娘の姿を写すことに成功したようだ。しばらく见つめた後、少し润んだ目を平介に向けた。「写真に撮っておきたい感じ」   「カメラ、持ってこようか」   「ううん、いらない」写真では意味がない、というような口调だった。直子はもう一度镜の中にいる娘を眺めた。时々顔の角度を変えたり、手足を动かしたりする。   「この部屋、使えよ」平介はいった。「扫除もきちんとして……さ」   直子はうつむいた。それから顔を上げ、「そうだね」といって微笑んだ。   二阶に上がったついでに布団を敷き、そのまま寝ようということになった。结婚以来、二人はダブルの布団で一绪に寝ている。   平介がうとうとしかけた时、肩をとんとんと叩かれた。目を开けると、直子がじっと彼の顔を见ていた。「どうした」と彼は寝ぼけた声で讯いた。   直子は少しもじもじした様子を见せてからいった。「あのさあ、あっちのほうだけど、どうする?」   「あっちのほう? 何だよ、あっちのほうって」   「だから、あれよ。あ?れ」   「あれ?」何のことをいっているのか、すぐにはわからなかった。だが理解すると同时に眠気は飞んでいた。彼は目を大きく开いた。「あれのことか」   「うん。どうする?」   「どうするったって、どうしようもないだろうが。こういうことになっちゃったわけなんだから」   「するわけにはいかないもんねえ」   「当たり前だ。马鹿なこというな。そんな……じつの娘と。しかも小学生の」   「でも平ちゃん、我慢していられる? 全然しないで。溜まっちゃうんじゃないの」   「我慢できるもできないも、いくら中身が直子だとわかっていても、その姿じゃ変な気になるわけないじゃないか。俺は変质者じゃねえんだぞ」   「そうよねえ。じゃあほかの女の人とするってこと?」   「うーむ」平介は身体を起こし、布団の上であぐらをかいた。「そういうことは考えてなかったなあ。それより直子はどうなんだ。そういう欲求ってのはあるのか」   以前はあるといっていた。寝ていたら脇腹を突き、「ねえ、しようよ」と小声で嗫いてきたこともあった。   「それがねえ、そういう気持ちに全然なれないの。そういうことを想像しても、なんだかピンとこないのよね。身体が反応しないというか」   「不思议なものだな。でもそれが当然なのかもしれない」セックスのことを考えるだけで身体が反応してしまう小学生というのは、かえって问题があるという気がした。「とにかくこれについては仕方がないだろう。谛めるしかないぞ」   「そうねえ」直子は浮かない顔で颔く。「手とか口を使うっていう手もあるけど、やっぱりまずいわよねえ」   「なに马鹿なこといってるんだ。頼むからそんなこといわないでくれ。そっちはふつうにしゃべってるつもりでも、こっちは藻奈美の口から闻くことになるんだ」   「あっ、そうか。ごめん。じゃあ、あれについてはなしってことで」   「うん」平介は再び布団に足を突っ込んだ。だが挂け布団をかぶる前にいった。「俺から一つ、提案があるんだけどな」   「何?」   「お互いの呼び方なんだけどさ、今は家の中では俺は『直子』って呼んでるし、直子は俺のことを『あなた』とか『平ちゃん』って呼んでるよな。これ、改めたほうがいいような気がするんだ」   「外にいる时と同じように呼ぶってこと?」   「うん。そう习惯づける必要があると思うんだ。これから先、长いしさ」   「そうねえ……」直子は天井を见てしばらく考えていた。その间平介は彼女のパジャマの柄を见ていた。猫のイラストが描かれていた。怒った猫や泣いた猫、笑った猫、すました猫、いろいろいる。   「わかった」やがて彼女はいった。「そのほうがいいとあたしも思う」   「そうか」   「じゃ、今夜から平ちゃんじゃなくてお父さんね」   「そういうことだ」   「では、おやすみなさいお父さん」   「おやすみ……藻奈美」   平介は布団にもぐりこんだ。だが眠気はすっかりどこかへ消えてなくなっている。そのうちに直子のほうから规则正しい寝息が闻こえてきた。やはり子供は寝つきがいい。   平介は冴えた头で闇を见つめながら、俺は娘と妻のどちらを失ったのだろうと考えていた。   [#ここから7字下げ]   16   [#ここで字下げ终わり]   立ち上がった男は頬のあたりを少しひきつらせていた。顔に脂の浮いているのが、かなり离れたところからでもよくわかる。焼き海苔をはっただけのような薄い髪も、べたついて见えた。ゴルフにでも凝っているのか、広い额も含めてよく日焼けしている。それでも几分血の気がひいているようだった。   四千万から四千四百万、と男はいった。声が少し里返っていた。静寂を破る一言だった。いわば攻防开始の合図だ。平介はこんな场にはあまりいたくなかった。だが逃げ出すわけにもいかない。   「――を、补偿额として考えております。男女、年齢等に応じまして、多少増减する必要があるとは思っております」   しゃべっているのは大黒交通総务部长の富井という男だった。损な役回りだなと平介は敌ながら同情した。この男が事故を起こしたわけではないのだ。   事故遗族会と大黒交通との补偿交渉は、例によって新宿のホテル内にある会议室で行われていた。事故から约三か月が経っている。土曜日ということもあり、遗族会侧はほぼ全员が出席。会社侧からは富井のほか、五名の代表者と顾问弁护士が来ていた。部屋の一番前に会社侧の人间が座り、彼等と向き合うように遗族用の席が并べられている。何かの记者会见みたいだなと平介は思った。   「その金额はどういう根拠から出てきたものですか」遗族侧の向井弁护士が质问した。   いったん座っていた富井が再び立ち上がった。   「ええと、过去の事故の例などと照らし合わせたりしてですね、当社としてお出しできるほぼ上限に近い额であると考えていただいて结构です。あの、运输省のほうからもですね、最大限の诚意を见せるようにという指示をいただいております」   代表干事の林田が手を挙げた。   「それはおたくの会社に基本的には落ち度がなくて、不幸にも予测不可能な事故が起きた场合の上限ということではないですか。たとえば突然天候が悪化したとか、别の车に走行を邪魔されたとか。でも今回の事故はそういうものではないですよね」   「どういう意味でしょうか」   「これは単なる事故ではなく人灾だったと我々は考えているわけです。さらにいうならば过失致死にも等しいものだったと受けとめています。だってそうでしょう。休みももらえず働きづめで、ふらふらになっているような运転手に危険なスキーバスの运転なんかをさせたら、いずれ事故が起きるのは明白じゃないですか。そんな物騒なバスに金を取って客を乗せるなんて、犯罪行为以外の何物でもないですよ。客なんかどうなってもいいと考えていたとしか思えません。そんな殆ど杀人に等しいようなことをしておいてですね、过去の事故の例だとかいうのは虫がよすぎると思いませんか」   兴奋した口调で一気にしゃべり、林田は音をたてて椅子に座った。何人かが小さく拍手した。   当然のことながら会社侧の人间は苦い顔をしている。过失致死や杀人という言叶が出ては心中穏やかなはずもなかったが、彼等としては头から否定できない事情もあった。   つい先日労働基准局が、大黒交通の干部二人を労働基准法违反の疑いで东京地検へ书类送検したと発表している。またそれに先駆けて、大黒交通の特别保安监査をしていた関东运输局が、明らかに过労运転防止违反で输送安全の确保に手落ちがあったとして、同社の観光バス八台について十四日间の使用停止命令を出していた。监査结果によると、一か月近くも休みなしで运転していた运転手が四人もいたそうで、これは自动车运送事业运输规则に定められた运転者の过労防止违反に当たるらしい。   さらに长野県警も道路交通法违反で大黒交通を家宅捜索して捜査を続けており、その结果次第では新たな処分が下される可能性もあった。   そうした被害者にとってはいわば「追い风」があるため、林田にしても强気な発言が出来るに违いなかった。   「大体汚いんだよ。ちゃんと罪を认めてないんだからな」平介のそばにいた男が発言した。双子の娘をいっぺんに亡くした藤崎だ。「一昨日の新闻で読んだけど、运転手が过労运転になったのは本人が悪いからだなんていってるそうじゃないか」   「いや、あの、それはですね」会社侧の席から别の男が立ち上がった。运行管理部长で笠松という名だということは、平介も今日の最初の绍介で闻いていた。「超过勤务を会社侧から命じていたわけではないと、强制していたわけではないといったわけです。特に梶川运転手のほうは、タイムチャートを作る担当者に、自分の乗务を増やしてもらうよう頼んでいたという事実があります」   平介は笠松の顔を见た。   「本当かなあ」藤崎が疑いの声をあげる。「どんなに金が欲しいからって、全然休まないで働きたいと思う人间なんかいるかなあ」   「いえ、本当です。内部调査をしてわかったことです」笠松は热い口调でいった。   本当かもしれない、と平介は思った。直子は一方の运転手が、「そんなに稼いでどうするんだ」ともう一人にいったのを闻いている。これは明らかに、いわれたほうの运転手が自分から进んで通常以上の勤务についていることを意味する。   やはり梶川运転手には金が必要だったのだと平介は思った。だがその金を何に使っていたのだろう。   「仮にそうだとしても、会社侧の责任であることに変わりはないですよ」遗族侧弁藩士の向井が発言した。「労働基准法は、过労勤务を强制するだけでなく、本人が望む场合でもそれを许可することを禁じていますから」   「ええ、それはもうおっしゃるとおりです」笠松が头を下げながらいう。「ですからその、责任逃れをしようというのではないわけです。ただ先程、先日の新闻报道について少し误解されているような意见が出ましたので、一応订正させていただいた次第です。梶川运転手にかぎっていえば、强制していたわけではないと……」   「でもね、强制と同じなのかもしれませんよ」林田がいう。手に何かメモのようなものを持っている。「ここに一昨年の资料があるんですけど、バスの运転手の一か月の勤务时间は全産业平均よりも六十时间以上多いんです。时间外勤务は月平均五十时间で、全産业平均の约三?五倍。どうしてこんなことになっているのかというと、结局基本给が他の産业に比べて低いからなんです。だから残业手当で补うしかない。特に教育费のかさむ三十代、四十代でこの倾向が顕着なように思われます。大黒交通さんでも、こうしたことはいえるんじゃないですか」   大黒交通の干部たちは反论できず、黙り込んでいる。颔いている者さえいた。   「ええと、そうしますと」话が违うほうにそれてしまったため、置いてきぼりにされた格好だった総务部长の富井が口を开いた。「遗族会の皆さんのほうでは、大体どれぐらいの额を考えておられるんでしょうか」   林田をはじめとする四人の干事と向井弁护士が何事か嗫き合った。彼等の席は并んでいるのだ。遗族会の他のメンバーたちは、基本的に交渉はすべて彼等に任せるという意思を示している。   やがて向井弁护士がいった。   「补偿については男女や年齢に関わりなく一律としていただきたいというのが、御遗族の方々の一致した意见です。それから金额につきましては、これまで何度か打ち合わせをしてきておりまして、これより以下は譲りたくないという额が一応出ています。それは八千万円です」   さらりと発せられた言叶は、大黒交通侧の人间にとっては、とてつもなく重いハンマーだったようだ。それを上から振り下ろされたように、干部たちはがっくりと首をうなだれた。この场の最高责任者である専务は白髪头を抱え込んだ。彼は先日退いた社长に代わって、今度就任することになっていたが、平介が见たかぎりでは明らかに嬉しそうではなかった。   话し合いはまだまだ长引きそうだなと、平介もまた忧郁になった。   この日の交渉では、大黒交通侧が宿题を持ち帰って検讨すると答えるに留まった。遗族会にとって有利に动いているのかどうかは平介にはわからなかった。だが干事たちや向井弁护士の様子を见ていると、とりあえず一歩进んだと考えてもよさそうだ。   平介が部屋を出ると、廊下では大黒交通の人间たちが资料の後片づけなどをしていた。中でも运行管理部长の笠松は、一人少し离れたところでファイルに何か书き込んでいた。平介は笠松に近づいていった。「あの、ちょっとすみません」   遗族から声をかけられることは予想していなかったのか、笠松はうろたえた目をした。平介の姿を爪先から头のてっぺんまで眺めてから、「あ、はい」と返事した。   「さっきの话なんですけど、あの、梶川运転手が自分から超过勤务を希望していたということですけど」   「はあ」   「梶川さんは、何かお金の必要なことがあって、そういう无理をしていたんでしょうか。なんか、そのあたりの话はお闻きになってませんか」   「いやあ、そこまで详しいことは、私も担当者から闻いてはいないんですが」笠松は戸惑いを隠さなかった。なぜ遗族がそんなことを気にするのか疑问なのだろう。   その时平介の後方から声がした。「杉田さん」   振り返ると林田が见ていた。平介は笠松に礼をいい、林田のところに戻った。   「杉田さん、まずいですよ。向こうの人间と个人的な话はしないでください」代表干事は眉を寄せていった。   「あ、どうもすみません」平介は谢りながら、个人的な话ではなく、事故原因に関することなんだがなと思った。   平介は补偿金などはどうでもいいと思っていた。いや、无论もらわないつもりはないし、金额は多いほうがいいに决まっている。だがそのことに神経や时间を使う気にはあまりなれなかった。それよりも彼は、依然として事故原因がはっきりしないことに苛立ちを感じていた。运転手が过労気味で运転ミスをしたらしい、という见解は出ている。しかしなぜそんな过労状态で仕事に临んだのかという点が暧昧だった。金が欲しかったから。それはそうだろう。ではなぜ金が欲しかったのか。赘沢をしたかったからか、借金があったからか、外に女を囲っていたからか、博打に溺れていたからか。平介はそこまで知りたかった。そこまで知らないことには、现在の状况を受け入れる気には到底なれなかった。   藤崎が向井弁护士に话しかけているのが见えた。その声が断片的に闻こえてきた。最低一亿といってもよかったのではないか。彼はそういいたいようだった。弁护士は少し困惑した表情で、八千万でもかなり思い切った额なのだという意味のことを説明していた。   [#ここから7字下げ]   17   [#ここで字下げ终わり]   新宿駅で帰りの电车の切符を买おうとした时、小銭がないことに気づいた。売店を见つけ、近づいていった。周刊志でも买おうと思った。电车に乗っている间の暇つぶしにもなる。   だが彼がいつも読む周刊志が见当たらなかった。代わりに彼の目に飞び込んできたのは男性周刊志の表纸だった。より具体的にいうならば、彼の目を捉えたのは表纸で官能的なポーズをとっている女性のイラストだった。『快楽星団』という名のその雑志がどういう存在価値を持っているかは一目了然だ。   そういういわゆる官能雑志を平介は买ったことがなかった。会社のロッカー室に放置してあるのを目撃したことはあるが、手に取って読んだことはない。   买ってみようかと彼は思った。だが买いにくいのも事実だった。売店の店员は五十歳ぐらいの太った女性だ。変なふうに思われたりしないだろうかと少し気になる。   迷っていると、余计に买いにくくなってしまった。平介は结局さほど読みたくもないふつうの周刊志を取った。そして财布を开ける。   その时若いサラリーマンらしき男が彼の横に立った。男は店头をざっと眺めた後、殆ど迷った様子もなく『快楽星団』に手を伸ばした。そして千円札を出す。売店の女性は商売にはあまり兴味がないといった顔つきで、无爱想に钓り銭を渡していた。   なるほど、堂々としていればいいのだな――。   平介は今初めてその雑志があることに気づいたという顔をし、思い切って『快楽星団』を取った。そして先に手にしていた周刊志と合わせて手に持ち、一万円札を出した。彼は一刻も早くこの场を去りたかったが、売店の女性は钓りを何度も数え直してから寄越した。だがもちろん、彼がどんな雑志を买ったかについては全く関心がなさそうだった。   帰りの电车の中で、彼はふつうの周刊志のほうを読んだ。『快楽星団』は补偿交渉の资料と共に鞄の中に入っている。念愿のおもちゃを买って帰る小学生のような心境だった。   駅で电车を降り、家の近くまで帰ってきた时だった。正面から桥本多恵子が歩いてくるのが见えた。やや栗色がかった长い髪が风になびいている。彼女のほうもすぐに平介に気づいたようだ。小さく口を开き、立ち止まった。自然な笑みがこぼれている。   「あっ、先生、どうもこれは。御无沙汰しております」平介は头を下げ、挨拶した。   「杉田さん、じつは今お宅に伺ったところだったんです。でもお留守みたいなので、出直そうと思っていたんです」   「えっ、そうですか。じゃあ、よろしかったらどうぞこれからいらしてください」   「でもお帰りになったところで、お疲れじゃないんですか」   「いや、そんな疲れるようなことをしてきたわけじゃないんです。どうぞどうぞ」   「そうですか。じゃあ、少しだけ」   桥本多恵子は身体の向きを変えた。二人并んで杉田家に向かう格好になった。   「藻奈美さんもいないみたいですけど、どこかに游びに行っちゃったんでしょうか」   「ええと、いやたぶんそうじゃなくて」平介は腕时计を见た。间もなく午後五时になるところだった。「晩饭の买い物に出かけたんだと思います。それぐらいの时间ですから」   「ああ」桥本多恵子は纳得したように颔いた。「杉田さん、最近はすっかりおかあさんの代わりができるようになったんですね」   「まあ何とかやってくれています」   「えらいですよねえ。私なんか、まだ母の作ったご饭を食べさせてもらってるんですよ」   「あっ、先生はご両亲と同居されてるんですか」   「そうなんです。早く出ていけっていわれてます」   「先生なんか、その気になればいくらでも相手がいるでしょう」   「そんなことないですよ。学校というのは、とても狭い世界ですから」桥本多恵子は顔の前で手をひらひらと振った。その表情は案外真剣そうだった。   それならば私が立候补しましょうか、という冗谈を思いついたが、平介は口には出さなかった。到底気がきいているとは思えなかった。何より不谨慎だ。   家に着くと、平介は一応玄関のチャイムを鸣らしてみた。しかしインターホンのスピーカーから直子の声は闻こえてこなかった。   「やっぱりまだ帰ってないみたいだな。ええと、藻奈美がいたほうがいいんでしょうか」平介は讯いた。教师とはいえ若い女性が、男の家に上がるのはまずいかもしれないとも思ったからだ。   「いえ、どちらかというとお父さんだけのほうが」   「あ、そうですか。じゃあ、あの、狭いところですけど」   平介は玄関の键を开け、彼女を促した。桥本多恵子のほうは全く拘泥《こうでい》した様子もなく、お邪魔しますといって中に入った。彼女がそばを通る时シャンプーの匂いがかすかにした。   一阶の和室に彼女を招き入れた。こういう时のためにジュースぐらいは买っておかなきゃいけないなあと冷蔵库の中を见て平介は思った。中に并んでいるのはビールと麦茶だけだ。直子が、子供の歯に悪いといって、昔からめったにジュースを买わないのだ。その习惯は彼女自身が子供になった今も続いている。   结局冷えた麦茶をグラスに入れて出した。どうぞおかまいなく、と桥本多恵子は头を下げた。彼女はテレビのすぐ前の位置に、座布団を敷いて座っていた。直子が嫁入り道具の一つとして持ってきた客用座布団だ。ずっと使っていなかったが、例のバス事故の直後は频繁に吊问客が访れたので、押入の奥から引っ张り出してきたのだ。もしそのプロセスがなかったら今日などは、桥本多恵子を玄関先に待たせ、座布団探しに悪戦苦闘していたところだった。   「それで、今日はどういったお话でしょうか。藻奈美が学校で何か问题を?」   「いえいえ」楠本多恵子は首と一绪に手も振った。「そんなに大层なことではないんです。ただちょっとお父さんの御意见を伺っておきたいということがありまして」   「はあ」平介はこめかみを掻いた。桥本多恵子の口调が少しぎくしゃくしたように感じられた。「ええと、どういうことですか」   「先日お嬢さんから相谈を受けまして」   「はい」   「私立中学に行きたいということでした」   「えっ」平介はのけぞった。グラスを持っていたので、あやうく麦茶をこぼすところだった。「私立中学って、ええと、麻布とか开成とかのことですか」   「はい。男子校でいいますと、そういった中学になります。まあもちろん、もっとふつうのといいますか、入りやすい中学もあるんですけど」   开成とか麻布は入りにくい中学なのか、と平介は解釈した。彼はその方面の知识は皆无だった。开成中学や麻布中学の名は、かつて直子から闻かされたことがあるので知っていただけだ。   「女子校というのもあるんですか」   「もちろんあります。桜荫とか白百合学园とか」   「ははあ」こめかみを掻いていた手を头に移动させた。「何というか、闻くからにレベルの高そうな学校名ですねえ」   「ええ」桥本多恵子は颔いた。「そのあたりの学校は、とてもレベルが高いです。偏差値六十以上は确実に必要です」   「そうなんですか」相槌はうつがピンとこない。じつは平介は世间で騒がれている偏差値というものがあまりよくわかっていなかった。   数秒後、彼は改めて目を见开いた。「えっ、すると藻奈美がそういう学校に行きたいといってるんですか」   「具体的な学校名までは闻いていません。まだ决めていないようなことをいってました。进学のこと、お父さんは御存じじゃなかったんですか。私はてっきり、お父さんと相谈して决めたのだろうと思っていたんですけど」   「全然知りませんでした」   「そうだったんですか。じゃあ、杉田さんが一人で决めたことなんですね」そういって桥本多恵子は麦茶を一口饮んだ。その口元を平介は凝视していた。口红の迹がグラスの縁につくのではないかという想像が一瞬头に浮かんだ。だが彼女がテーブルに置いたグラスに口红はついていなかった。   グラスから目をそらし、平介は腕を组んだ。   「何だってあいつ、そんなことをいいだしたんだろう」   「将来のことを考えた结果だと、私にはいってました」   「へえ」   直子の顔を思い浮かべながら将来という言叶のことを考えると、奇妙な居心地の悪さがあった。考えずに済ませられる问题ではなかった。小学六年生の藻奈美という形が存在する以上、藻奈美としての将来は确実に存在する。それは杉田直子としてのものでは决してない。平介の将来とシンクロするものでもない。それがわかっていながら今日まで目をそらしてきたのは、考えたくないからにほかならなかった。なんとか先延ばしにしようとしてきたのだ。しかし直子はそうではなかった。彼女としては自分の问题なのだから当たり前なのかもしれない。   「ええと、将来のことを考えると私立中学に进んだほうがいいということですか」   「问题はそこなんです」桥本多恵子は真っ直ぐに平介を见つめてきた。担任教师の目になっていた。「いろいろ考えると、今がんばって私立中学に进んでおいたほうが将来の选択肢も多くなる、というのが杉田さんの言い分でした」   「选択肢……」   「ええ、选択肢って杉田さんがいったんです。なんだか最近の彼女は言叶遣いなんかもぐっと大人っぽくなって、话していても子供だということをふと忘れそうになります」   それはそうだろうなと思ったが、平介はとぼけねばならない。   「単にませてるだけですよ」   「いえ、彼女の场合はそういうのとは违うと思います。大人のふりをしているんじゃなくて、本当に内面から渗み出る落ち着きみたいなものがあるんです。この间なんかクラスの男の子たちが扫除の最中に騒いでいるのを注意してくれてたんですけど、その口调が私なんかよりずっと堂に入ってて……」そこまでしゃべったところで桥本多恵子は口元を押さえた。「すみません。话が横道にそれちゃって」   「いえ。えーと、それで先生はどのようにお考えなんですか」   「私は必ずしも私立中学に进むことが选択肢を広げることには繋がらないと思うんです。公立には公立の良さがありますから。ここの学区ですと第三中学になりますけど、あそこなら特に风纪が乱れていることもありませんし、学力レベルもわりと高いほうですし。でも杉田さんの意思が固いようなら尊重してあげたいとも思うんです。それでとりあえずお父さんの御意见を伺っておこうと思って、こうしてお邪魔したわけなんです」   「御意见も何も、初耳ですからねえ」   「そうだったんですね。私も惊きました」   「あのう、私立に进むとなると、何か特别なことをしなくちゃならないんですか」   「それはもういろいろと准备が必要です。资料を揃えて学校选びをしなくちゃいけませんし、藻奈美さんは当然受験用の勉强をする必要がありますし、公开模试なんかも受けたほうがいいですし」   「えっえっえっ」平介は身を乗り出した。「受験って……试験があるんですか。中学に入るのに」   「はい。あります」桥本多恵子は目を丸くして答えた。そんなことも知らないのか、という表情だ。   「でもそれは何というか、知能テストみたいなものじゃないんですか。クイズのような感じの」   いえいえ、と女性教师は首を振った。   「中には作文だけという学校もありますけど、ほんの少数派です。殆どのところで国语と算数の试験があります。それに作文がつくというのが一般的です。中には理科と社会も试験する学校があります」   「それじゃあ高校受験と変わらないじゃないですか」   「そうなんです。だから中学受験というのは、高校受験で体験する竞争を先にやっておくということでもあるんです。藻奈美さんのいう选択肢の中には、高校受験はしないという道も含まれているわけです」   「ははあ、なるほど」   直子はいつの间にそんなことを考えたんだろうと平介は思った。その答えはすぐに见つかった。彼が仕事のことで头をいっぱいにしている间に相违なかった。   「ただ、あまり小さいうちからそういう受験戦争なんてものに巻き込まれるというのは、私としてはあまり賛成ではないんです。それで藻奈美さんにも、もう少しよく考えるようにといったんですけど」   「わかりました。よく话し合ってみます」   「お愿いします。胜手な意见をいいますと、藻奈美さんにはクラスから离れてほしくないんですよね。今はとてもいいリーダーになってくれていますから。受験となると、たぶんみんなと一绪に游ぶこともあまりできなくなると思います。それが残念なんです」桥本多恵子は笑みを浮かべていった。   ではこれでと彼女が腰を上げた时、玄関のドアの开く音がした。さらに、「ただいま」と直子の声が闻こえた。   あら、と桥本多恵子が平介を见た。その直後、さらに直子の声。「あれえ、今顷どうしてこんな靴が出てるの?」そして続けて大声でいう。「ねえ、スーパーで珍しいもの见つけたわよ。芋茎《ずいき》。ほら、十年ぐらい前に大阪のおばさんの家で食べたじゃない。あれがあったの。珍しいよねえ东京で――」   しゃべりながら廊下を歩いてきた直子は、部屋の入り口まで来てから足と口を止めた。电池がきれた人形のようだ。   「あれっ、先生、どうして?」担任教师と平介の顔を交互に见た。   「うん、ちょっとお父さんに话があってね」そういってから桥本多恵子は直子が提げているスーパーの袋に目を向けた。直径二センチほどの赤い茎がはみ出ている。「それ、ズイキっていうの?」   「はい。里芋の茎なんですけど」   「へえ……」桥本多恵子は腑に落ちないといった顔をしている。   「いや、あの、一年前……一年前にですね、大阪の亲戚で御驰走になったんです」平介はあわてて取り缮った。「藻奈美、马鹿だなおまえ。今、十年前っていったぞ」   「あ、そうだった? ごめんなさい。一年前です、一年前」   「ああ、去年ね。ふうん、それどうやって食べるの? サラダにするの?」   「いえ、煮るんです。灰汁《あく》が出るのが难点ですけど、そう难しくないですよ」   「杉田さん、できるの? すごいわねえ」   「十年……一年前に亲戚の人が煮るのを手伝いましたから。その时の料理メモがたぶん残してあると思うんです」   「大したものねえ。今度教わりたいぐらい」   「いつでもいいですよ。今の若い人たち……あたしも含めてですけど、最近の人はあまりこういうものを料理しませんものね」   话题が料理のことだからか、言叶遣いが子供のものではなくなっている。平介は気が気でなかった。   「藻奈美、先生はもうお帰りになるところだったんだから、あまりお引き留めしちゃ気の毒だぞ」   「あ、はいはい」直子は荷物を持ったまま、玄関のほうに戻った。   「ところでさっき、変なこといわなかった? 靴がどうとか」パンプスを履いてから桥本多恵子が直子に讯いた。   「あっ、あの、母のと同じ靴だったんです。それで、母の靴が出してあるんだと思ったんです」直子は答えた。   「この靴が? 本当に? へえ、そうだったの」   「本当か」と平介は讯いていた。   直子は颔いた。「母のお気に入りだったんです。でも、先生のほうが断然よく似合うみたい。母にはちょっと派手すぎたし、先生のように足が细くないとだめなんですね」   「やだ、じろじろ见ないでよ」桥本多恵子は後ずさりしてから平介に向かって头を下げた。「じゃあこれで失礼いたします」   「あ、どうも」   桥本多恵子が帰った後、平介はドアに键をかけた。その时にはもう直子の姿はなかった。平介が部屋に行くと、彼女は台所でスーパーの袋から野菜を取り出していた。   「私立中学に行くなんて话、全然闻いてないぞ」彼女の後ろ姿にいった。   「いずれ话そうと思っていたの」流し台を背にして直子は立った。   「どういうことなんだ。どうしてそういうことを黙って决めたんだ」   「まだ决めてないわよ。これから相谈するつもりだったから」   「理由を闻かせてくれよ。どうしてそんな気になったんだ」   「まず第一は、ずっと前から漠然と考えてたことだってこと」   「ずっと前からって?」   「こんなことになる前よ」直子は両手を広げた。「藻奈美が生きていた顷からっていう意味。この子は私立中学に进ませたほうがいいのかなって。それも大学まで上がれる中学。高校や大学の受験で苦しませたくないと思ったの」   「つまり直子自身が将来苦しみたくないから、今のうちに楽な道を选んでおこうというわけだな」平介はいった。言叶に皮肉の响きを込めていた。   「最後まで闻いて。たしかに、来年は中学だなと思った时、すぐに私立中学への进学を思いついたきっかけは、昔からそんなふうに考えていたことがあるわ。でも、そこから先は全然违うの。だって、実际に中学に进むのはあたしなんだものね。あたしはね、别の理由から、やっぱり私立に进まなきゃいけないと思ったの」   「别の理由って何だ」   「简単なこと」直子は流し台にもたれ、片足をクロスさせた。「勉强がしたいの」   「えっ?」平介は目を剥いた。彼にとっては予想もしていなかった台词だ。惊きの後、おかしさがこみあげてきた。彼は笑った。笑いながら胡座をかいた。「本当かよ、おい。小学生の问题が解けたからって、东大には入れないんだぞ」   だが直子のほうは頬の肉をぴくりとも动かさなかった。无表情にいった。   「あたし、真面目に话してるんだけど」   冷めた声だった。外见が子供の口から発せられると、余计に冷たさが感じられるようだった。平介の笑いは一瞬にして消えた。   「ねえ、あたしがこんなふうになって三か月が経つわよね。それで今、あたしはどんなふうに感じてると思う? やっぱりくよくよして、なんでこんなことになっちゃったんだろうと叹きながら毎日を过ごしてると思う?」   いや、と彼は首を振った。   「そりゃあね、やっぱり悲しくなることもあるよ。ちっぽけな人间だったと思うけど、あたしはあたしなりに一生悬命生きてきたつもりだから。できればあの人生の続きをやりたいよ。何よりも、あなたと藻奈美と三人で暮らしていた顷に戻りたい。でもさ、戻れないものは仕方がないじゃない。で、戻れないとなったら、この二度目の人生をどう生きるかを考えるしかないよね。それであたしは考えたわけ。どうすればいいか、毎日いっぱい考えた。その结果出た答えは一つ。前と同じ後悔はしないでおこうってこと」   「後悔って?」   平介が讯くと、彼女はにっこりした。   「ほら、あなただって时々いうことがあるじゃない。若い顷にもっと勉强しておけばよかったって。同じことを、あたしだって考えないわけじゃないんだよ」   「そうなのか」   「子供に梦を托すってことあるよね。あなたはどうかわからないけど、あたしには藻奈美に托してた梦ってものがある。それはたとえばピアニストになってほしいとか、スチュワーデスになってほしいとか、そういう具体的なものじゃない。あたしは藻奈美に、とにかく自立できる女性になってほしかったの。気持ちだけでなく経済的にも。男の人に頼らなくても生きていける、しっかりした女性にしたかった。しかもできれば一流になってほしかった」きっぱりとした口调で彼女はいった。   「直子は」平介は唇を舐めてから続けた。「俺の扶养家族になっているのが不満だったのか。後悔してたのか」   「そんなことはない。あたしはあなたの奥さんだったことに満足してた。それでよかったと思っている。主妇业なんかほうりだして、仕事をばりばりしたかったとかいってるわけじゃないの」   「でも藻奈美には、そんな自分と同じような生き方はしてほしくないと思っていたわけだろう」   直子はゆっくりとかぶりを振った。   「そうじゃないの。あのね、自立した女が主妇をしたってかまわないと思うよ。あたしが嫌なのはね、自立できない女が、仕方なく主妇におさまってるっていう构図なの。夫のことが嫌になっても――误解しないでね、たとえばの话だから――そういうことになっても、生活が不安だからという理由で出ていかない女の人がたくさんいるでしょ? そんな生き方は藻奈美にはしてほしくなかったの。男にしがみついているしかない人生なんて、惨めだと思わない? あたしはね、运がよかっただけなの。相手があなただったから。でもあなたじゃなくて、もっとひどい男だったらどうだったかなと思う。结局あたしの幸せにしたって、すべてあなた任せだったのよ」   「それを惨めだと思ったことがあるのか」平介は讯いてみた。   直子は深呼吸を一つした。真っ直ぐに夫を见つめた。   「ここで格好つけても仕方がないからはっきりいうわね。惨めだと思ったことがある。何度か」   「そうか」平介はため息をついた。   「ごめんね。あなたを不愉快にさせたいわけじゃないの。あなたは全然悪くないのよ。悪いのはあたし。漫然と楽に生きてきて、今さら惨めも何もないわよね」   「直子はふつうだよ。ふつうだと思うよ」   「もちろんあたしが特别に惨めだったとは思わないわよ。そう、ふつうだった。それを惨めと思うかどうかは本人次第よね」   平介は卓袱台の天板をとんとんとんと指先で叩いた。どのように言叶を返していいかわからなかった。   「というわけで」直子はいった。「あたしは藻奈美の代わりに自立できる女になろうと决心したの。こんなふうにもう一度人生をやり直すチャンスなんて、ほかの谁にも与えられないと思う。この奇迹を无駄にしたくないのよ」   热っぽく力説する直子を见て、昔こういう感じの女の子がいたなあと平介は思い出していた。中学一年の时に同级生だった彼女は、三年の前期には生徒会长になっていた。   「うん。それはまあ、よくわかるよ」平介はいった。気の利いた台词が一つも浮かばないことが情けなかった。   「ありがとう。でね、そんなふうに考えた结果、本気で勉强するためには、それなりの场所に身を置かなきゃいけないという结论に达したのよ」   「それが私立中学ということか」   「とりあえずはね。でも私立ならどこでもいいということではないのよ。やっぱりそこそこのレベルの学校でないとだめ。それから、仮にそこがどこかの高校や大学の付属だったとしても、そのまま上がる気はないの。その时点で自分が入れる最高レベルの学校を目指していくつもり」   「ふうん……なんか、すげえ気合いが入っちゃってるなあ。俺、置いてきぼりにされてくみたいな気がしちまうよ」平介は头を掻きながら笑い顔を作った。冗谈めかした言叶ではあったが、じつは本心だった。本心だということに、彼自身も気づいていた。   「気合い入れなきゃ。だって、受験は戦いなんだから」そういうと自分の台词に纳得したように直子は颔いた。   「でもそれ、中学からでないといけないのか。とりあえずは地元の中学に进んで、高校受験あたりからがんばるっていう手もあるんじゃないか。桥本先生は第三中学も悪くないっていってたぞ」   平介がいうと、「だめよ」と直子は首を横に鋭く一回振った。   「彼女はまだ若いから、よくわかってないのよ」   「若いったって、教师になってもう何年にもなるんだろ」   「だめなのよ。いい人なんだけど、いつまでもお嬢さん気分が抜けないの。だから世の中に対する考え方も甘いんだから」   见かけは小学生だが中身は三十六歳である。若い女性教师を非难する口调には容赦ないものがある。   「あまり悪口いうなよ。心配して、わざわざ来てくださったんだから」   「あれっ?」直子は顔を少し倾けて平介を见た。「ずいぶんと庇《かば》うのね」   「なんだよ」平介は口を尖らせた。   「别に」直子はいったん横を向いてから、再び彼のほうを见た。「そういうことだから、私立中学への进学を认めてほしいの。公立に比べて授业料も高くなるわけだから、お父さんの理解と协力が必要なのよ」   たった今まで「あなた」と呼び続けていたのに、突然「お父さん」に変わった。都合のいい时だけ「お父さん」にされるのかと平介は思った。しかしそれを口には出せない。   「好きにすればいいよ」と彼は答えた。それ以外の答えなど思いつかなかった。   「ありがとう」直子は素直に喜んだ。「あたしがんばるからね。さてと、じゃとりあえず芋茎を煮るとするか」   彼女は流し台のほうを向き、まな板に手を伸ばした。   夕食のおかずは芋茎を煮たもののほかに、鯵の塩焼きと三度豆のお浸しがついた。どれもおいしかった。特にだしのきいた汁をたっぷりと染み込ませた芋茎は格别だった。十年前に食べただけの料理を见事に再现する腕前に、平介は感心した。こういうことができるなら、何もがむしゃらに勉强していい学校に行く必要なんかないのになと彼は思った。   夕食が终わると、直子はすぐに後片づけを始めた。ナイター中継を见ていた平介は、彼女が食器を洗う音が気になった。   「何もそんなにばたばたと片づける必要ないだろ。少しはじっとしてろよ」   「うん、でも时间が无駄だから」手を止めずに彼女は答えた。   时间が无駄の意味がわかったのは、食器洗いが终わった时だった。彼女は手を拭くと、一度も腰を下ろすことなく、そのまま阶段を上がっていこうとした。   「どこへ行くんだ」と平介は讯いた。   「部屋よ」と彼女は答えた。「今日からは、毎日最低二时间は勉强することにしたの」   「今日から? もう今日からなのか」   「思い立ったが吉日というでしょ」十一歳の姿には不似合いな古臭いことをいって、直子は阶段を上がっていった。   仕方なく平介はテレビ画面に目を戻した。巨人が広岛相手に苦戦していた。ワンアウトでランナーは二、三塁。バッターは山本浩二。ピッチャーは江川。ふつうなら自分が球场にいる如く、どっぷりと试合の世界に入り込んでいくところだった。だがさっぱり集中できなくなっていた。   彼の目が、部屋の隅に置いてある鞄を捉えた。彼はそれを取り、盖を开けた。例の『快楽星団』をそっと取り出す。   表纸を开いてみると、いきなり女性の胸が目に飞び込んできた。お椀を二つ伏せて并べたように形のいい胸で、乳首は薄いピンク色をしていた。身体は细く、足は长い。モデルの年齢は二十歳になるかならぬかであろう。   そのモデルのグラビアは六页あった。いずれの写真も、男の欲望を刺激するポーズを撮ったものだった。恍惚とした表情は性行为の最中を连想させる。   平介は忽ち勃起してきた。手が无意识のうちに股间に伸びていた。   もうずいぶんしていないな、と思った。最後に直子とセックスをしたのは、たしか事故の前日だった。あたしが留守中に浮気しないように、とかいいながら彼女のほうから平介の横にもぐりこんできたのだ。   彼は雑志を手に立ち上がった。足音をたてぬよう気をつけながらトイレに入った。   スリムな体型のヌードモデルを眺めながら、彼はマスターベーションをした。桥本多恵子の顔を、その裸体に重ね合わせていた。   [#ここから7字下げ]   18   [#ここで字下げ终わり]   七月に入っていた。ずっと雨が続いていたが、珍しく朝から青空が出ていた。   「今日は暑くなりそう。きっとみんな喜んでるよ」朝食を食べる箸を止め、直子が外を见ながらいった。おかずは昨夜の天麸罗の残りものだ。いつもならこれに味噌汁がつくが、今朝はなし。直子が寝坊したからだが、遅くまで勉强していたせいだと知っている平介としては、そのことをからかう気にすらなれない。   「どうして暑いと喜ぶんだ」   「だって今日はこれだもん」箸を持ったまま、直子はクロールの格好をした。   「あっ、いいな。プールか」   「泳ぐのなんて何年ぶりかな。忘れてないかなあ」   「そういうのは自転车と一绪で、忘れないっていうぞ」平介はそういって御饭をかきこんだ。だがあることに気づいて顔を上げた。「藻奈美は泳げたよな」   「泳げたわよ。だってスイミングスクールに通ってたこともあるんだから。クロールでも平泳ぎでも何でもござれ……」しゃべっている途中で、直子も顔色を変えた。「あっ、平泳ぎ……」   「大丈夫か?」   「大丈夫じゃない」直子は首を振った。「わあ、どうしよう」   直子がクロールしか泳げないということを平介は知っていた。若い顷一绪に海に行った时も、最初は顔をあまり水に濡らしたくないといっていたくせに、いざ海に入ったらばしゃばしゃとクロールばかりしていた。直子の身体は若く、みずみずしかった。今とは违う意味で。   「たしか藻奈美は去年の夏、校内水泳大会に出てたぞ。しかも平泳ぎで」   「まずいなあ。今年になって、急に平泳ぎができなくなったともいえないしねえ。仕方がない、生理ってことにしよう。ちぇっ、せっかくのプール日和なのに」直子はしょげ返った。そんなふうにしていると、本物の小学生のようだった。   家を出るのは平介のほうが少し先だ。靴を履いていると、直子が突然手を叩いた。   「ごめん、いい忘れてたことがあった。昨日の夕方、お父さんに电话があったんだ」   「谁から」   「梶川さん。あの运転手の奥さんじゃないの?」   「梶川さんといえばそうだろう。何だって?」   「用件は闻かなかった。また电话しますって」   「ふうん」何だろうと平介は思った。前に田端制作所で会って以来、话もしていない。   「夜にでも电话すれば」直子はいった。   「电话番号、讯いたか?」   「あっ、讯かなかった。お父さんが知ってると思ったから」   「それが知らないんだ。まあいいや、そのうちにかかってくるだろう」そういいながら梶川征子が电话をかけてくる理由について考えた。しかし何も思いつかなかった。   ところがこの日出勤してみると、小坂课长から、また田端制作所に行ってきてくれないかといわれた。   「D型インジェクタの试作で、例の位置决めのトラブルが解消したそうだから、ちょっと见てきてほしいんだ。何か特殊なジグを使うそうだから、その図面も贳ってきたらいいと思うんだけどな。平さんが忙しいのなら、谁かほかの者を行かせてくれてもいいけど」   「いや、俺が行ってきますよ。详しい话も闻きたいし」   「そうか。そうしてくれると助かる。先方には连络しておくよ」小坂はほっとした顔をした。それから何かを思い出したように、にやりと笑った。上司の顔から亲しいおじさんの顔になっていた。「ところで、わりといい话があるんだけどなあ」   「いい话?」   「三十五だっていうんだよ。だからほら、亡くなった奥さんよりは少し下だろ。しかも初婚だってさ。写真を见たけど、なかなか感じのいい人なんだ」   何の话をしているのか察し、平介は手を振った。首も振った。   「そんなこと、まだ全然考えてないですから」   「それはわかってるさ。本人はそうなんだ。だからこういうことは傍《はた》の人间が面倒见てやらなきゃいけないんだよ。とにかく一度会ってみたらどうだ」   「いや、いくら何でも、まだ早すぎますから」   「そうか? まあ、平さんがそういうなら无理には勧めないけどさ。だけど」小坂は平介の耳元に口を寄せた。「あっちのほうなんかはどうなんだい。そろそろ溜ってきてるんじゃないのかい」   あっちのほう、の意味は平介にもわかった。   「えっ? いえ、そんなことは全然ないです。本当に、そういう気持ちは起きないんです」   「へえ、そうなのかなあ。信じられないなあ」小坂は疑わしそうに首を捻っている。   「とにかく、じゃあ、田端に行ってきますから」平介は小坂の前から逃げだした。   会社のサービス用车両をうまく借りられたので、それを运転して田端制作所に向かった。他の工场や下请けに出向くのが彼は好きだった。正确にいうと、移动している时间が好きだった。同じ职场で同じ仲间たちと同じ仕事をし続けていると、时々世界から取り残されたような気になることがある。そんな时にたとえ短い时间でも会社の外に出ると、自分が今どこにいるのかを确认できるのだ。   田端制作所での打ち合わせは一时间あまりで済んだ。トラブルが起きたという话ではなく、解决したという话を闻くわけだから、気楽な仕事だ。先方の若い担当者も、どこか夸らしげだった。   打ち合わせの後、平介は巻き线班のほうに足を向けてみた。梶川征子から电话があったという直子の话を思い出したからだ。   ところがずらりと并んだ女性作业员の中に、彼女らしき姿は见当たらなかった。平介は责任者と思われる男性が座っている席に近づいていった。主任、と书かれた札が立っている。顔は四角くごついが、目つきは优しい。たぶん女性に対する気配りも细かいのだろうと平介は想像した。そうでないと、この职场の责任者は务まらない。   「ああ、あの人はここのところ、ずっと休んでるんですよ」梶川征子のことを讯くと、主任は即座にいった。「どこか身体が悪いとかでね、私たちも心配してるんですけど」   「入院でもしたんですかね」   「いや、そこまでは闻いてませんけど」主任は首を捻った。「ええと、梶川さんに何か」   「いえ、ちょっと顔见知りなだけです」平介は礼をいって、その场を离れた。   梶川征子の痩せた身体と青白い顔が思い出された。相当无理をして働き続けたのかもしれない。しかも世间の冷たい视线にも耐えねばならない。部屋にかかってきたいやがらせ电话の阴湿な声が鼓膜に苏った。   しかしそんな状态で、どうして俺のところに电话なんかをかけてきたんだろう――平介はますます気になりだした。   工场を出ると、平介は车に乗り込んだ。エンジンをかけ、マニュアルレバーをローギアに入れようとしたところで、ドアのポケットに道路地図が入っているのが目に留まった。彼はそれを取り出し、西东京の拡大页を开いた。   调布にある梶川征子の家は、ここからだと目と鼻の先だった。   彼は腕时计を见た。午前十一时を回ったところだった。今から急いで会社に戻っても、すぐに昼休みだ。   ギアを入れ、彼はゆっくりと车を発进させた。   以前タクシーで送ったことがあるので、すぐに道を思い出した。见覚えのあるアパートの前の路上に车を止めた。   阶段を上がり、梶川と表札の出ているドアのチャイムを押した。インターホンはついていない。   返事がないので、もう一度押そうとした时、ドアの向こうから声がした。「はい」   娘の声だった。名前はたしか逸美といった。   「突然すみません。杉田といいますが」   ドアが细く开いた。チェーンはついたままだ。その向こうに少年のように引き缔まった表情をした逸美の顔が见えた。   「こんにちは。おかあさんはいるかな」   平介がいうと、ちょっと待ってくださいといって彼女はいったんドアを闭めた。だがすぐにチェーンを外してくれるわけではなく、少し待たされてから、がちゃがちゃと金属音が闻こえた。たぶん母亲に平介の来访を伝えていたのだろう。   「どうぞ」逸美が固い表情で迎えてくれた。   「お邪魔します」   彼が靴脱ぎに立つのと、奥の袄の开くのがほぼ同时だった。やつれた顔つきの梶川征子が、薄い笑顔に惊きの色を渗ませながら现れた。タァ‰地で出来た、丈の长いワンピースを着ていた。   「杉田さん、どうしてここに?」   「田端制作所に行ったものですから、ついでにと思いまして。昨夜、电话をいただいたそうですね。生憎こちらの电话番号を知らなかったので、突然お邪魔することになってしまいました」   「ああそうでしたか。あたしは以前被害者の会に出た时、名簿をいただいたものですから、杉田さんのところの番号もわかったんです」   「なるほど」平介は纳得して颔いた。「ところで会社を休んでおられるとか」   「ええ、ちょっと具合がよくないものですから……。あの、どうぞお上がりになってください。今何か冷たいものを御用意しますから」   「いえ、どうぞおかまいなく。それより电话の用件は何だったのですか」平介はすぐに本题に入った。ここに来る前に、决して部屋には上がらないことを自分に誓っていた。   彼のほうにくつろいで世间话をする気などないことを察したか、梶川征子はそれ以上は何もいってこなかった。うつむくと、少しお待ちくださいといって、奥の和室に消えた。   するとそれまで流し台のほうを向いて何か洗い物をしていた逸美が、盆に麦茶の入ったグラスを载せて运んできた。「どうぞ」   「あ……ありがとう」平介はあわててグラスを取った。「おかあさんは、どこが悪いのかな」小声で讯いた。   逸美は少しためらいを见せてから口を开いた。「甲状腺……です」   「ははあ」どう答えていいかわからず、平介はただ颔き、麦茶を饮んだ。   甲状腺と具体的にいうからには、おそらく病院でそういう诊断が下されているのだろう。しかし甲状腺が悪いとどうなるのか、どういった病名があるのか、平介は全く知らなかった。そもそも、甲状腺が身体のどこにあるどんな器官なのかを知らなかった。   「ごちそうさま。君は今日、学校は休みなの?」   「いえ。今日はいつもより具合がよくないみたいだったから……」   「休んだの?」   逸美は小さく颔いた。平介は思わずため息が出た。ついていない家というのはあるものだなと思った。梶川母子は今、不运ということでは世界でも指折りに违いない。   大黒柱を失い、母亲もまた病気に倒れたとなると、この子はこれからどうやって生きていくのか。それを思うと平介は胸が痛んだ。   梶川征子が和室から出てきた。手に何枚かの纸片を持っていた。   「これが主人の荷物の中から见つかったんです」   平介はその纸片の束を受け取った。それは现金书留の控えだった。受取人はすべて同じで、根岸典子となっている。よく见ると、大体月初めか月末に送られているようだ。金额は十万円から二十万円の间といったところだ。たまに二十万円を越す金额を送っている场合もある。日付が一番古いのは、昨年の一月となっていた。メモが一枚まじっていて、札幌の住所が书かれていた。   「これは……」平介は梶川征子を见た。   彼女はゆっくりと颚を引いた。「根岸さんという名字は、主人から一度だけ闻いたことがあります。たしか前に结婚していた女性の旧姓だったと思います」   「じゃあこの人は前の奥さん?」   「そうだと思います」   「御主人は前の奥さんに仕送りをしていたということですか」   「そうなります」梶川征子はこっくりと颔いた。   彼女の唇にはりついた寂しそうな笑みの意味が、平介には何となくわかった。夫の気持ちが自分たち母子にだけ向いていたわけではないと知り、孤独感と虚しさに袭われているのだろう。   「御主人が前の奥さんと离婚したのは、いつ顷のことなんですかね」   「正确には知らないんですけど、たぶん十年ぐらい前だと思います」   「じゃあその间ずっと仕送りしていたんでしょうか」   だとしたら律仪な男だなと平介は感心した。离婚の际に生活费や养育费を月々支払うことを约束しても、一年以上それを守る男は殆どいないという话を闻いたことがあった。   「わかりません。あたしの感覚では、ここ一、二年のような気がするんですけど」   ここ一、二年で急に家计が苦しくなった、ということを彼女はいいたいのだろう。   「御主人はこのことをあなたには、一言もお话しになってなかったのですね」   「闻いてません。全然」梶川征子はうなだれた。   「あたしたちより、前の家のほうが大事だったんだ」後ろから不意に逸美がいった。语気は鋭く、声は暗かった。逸美、と母亲がたしなめた。   逸美はダイニングの椅子に座っていたが、がたんと音をたてて立ち上がると、奥の部屋に入ってばたんと戸を闭めた。   すみませんと梶川征子があやまり、いいえと平介は答えた。   「とにかくこれで、主人が无理してまで働いていた理由がわかったと思うんです。それで一応杉田さんにお知らせしておこうと思いまして。杉田さんは、主人が何のため跃起になってお金を稼ごうとしていたのかについて、ずいぶんと気にされてたようでしたから」   「そうですか。博打とか浮気とか、変なことばかりいってすみませんでした」   平介が谢ると、いいえ、と彼女は首を振った。そして続けた。「どっちかというと、そういうことのほうがよかったぐらいです」   心の奥から绞り出されたような本音に、平介は絶句して梶川征子を见た。彼女は迂阔なことを口にしてしまったと後悔したのか、唇を噛んでいた。   「この……前の奥さんから何か连络はないのですか」   「ありません。仕送りが止まって、先方でもお困りだろうと思うんですけど」   「事故のことを知っているのかな」   「そうかもしれませんね」   「でも、もしそうなのだったら、线香の一本ぐらいあげに来てもよさそうなものだけどなあ。さんざん世话になってきていたわけなんだから」   「でも、さすがに来にくいんじゃないですか。主人が再婚していることを、たぶん先方も御存じでしょうし」   「それにしたって」怒りに言叶を口にしようとし、平介はこらえた。自分が愤慨するのも妙な话だと思ったからだ。だが纳得はできなかった。胃にしこりが残っている。   彼は持っていた现金书留の控えの束に目を落とした。   「あのう、これ一枚いただけませんか」   えっ、と梶川征子は目を见开いた。「それはいいですけど」   「娘にも见せたいんです。バスの运転手さんが事故を起こしちゃった原因について、ずっと知りたがってましたから」   「あ、はい。わかりました」   平介は控えの一枚を取り、メモにある住所を书き写すと、残りを彼女に返した。   「身体のほうは大丈夫ですか。お嬢さんは看病のために学校を休まれたみたいですけど」   「いえ、大したことないんです。あの子が心配しすぎるんです」梶川征子は顔の前で手を振った。だがその振り方にも势いがなかった。   「何か困ったことがあったらいってください。买い物とかも大変でしょう? あっ、今日の晩ご饭のおかずとかは大丈夫なんですか」   平介がいうと、梶川征子は両手を振り始めた。   「大丈夫です。はい。あの、もうそんなに心配してくださらなくて结构です」心底困惑している様子だった。その表情に、平介は自分たちの立场の违いを思い出した。彼女にとっては、ここでこうして被害者の遗族と対峙《たいじ》していること自体苦痛なのだ。   「そうですか。じゃあお大事に。お嬢さんによろしく」平介は头を下げ、ドアを开けて外に出た。   「わざわざすみませんでした」梶川征子も何度も头を下げていた。泣き笑いのような表情が平介の睑に焼き付いた。   车に戻りエンジンをかけてから、またしても梶川家の电话番号を讯き忘れたことを平介は思い出した。しかし彼はそのまま车を発进させた。もう二度とあの母子と会うことはないだろうと思った。   この夜、夕饭を食べ终える顷になって、平介は直子にこの话をした。彼女は现金书留の控えを眺めながら、彼の话を闻いていた。   「そういうわけだ。梶川运転手が无理して働いていた理由は、博打でも女でもなかったんだ」平介は箸を置き、腕组みをしていた。胡座もかいていた。   「ふうん」直子は现金书留の控えをテーブルに置いた。「そういうことだったの」何となく反応が钝い。意外な真相だったので、ぴんとこないのかなと平介は思った。   「この根岸という人から何の连络もないというのはおかしいよな。事故のことを知っているなら、葬式には出ようと思うんじゃないか」   「さあ、ねえ」直子は首を倾げながらお茶渍けの残りを食べた。   「俺、この人に手纸を出そうと思うんだよ」平介はいった。「じつをいうと、そのために一枚贳ってきたんだ」   直子が箸を止めた。不思议そうな顔をして平介を见た。「どういう手纸?」   「だからまず、梶川さんが事故に遭ったということを知らせるわけだよ。もしかしたら知らないかもしれないだろ。それで、一度墓参りに来たらどうかと勧めてみるんだ。このままうやむやで済んじまうなんて、絶対におかしいもんなあ」   「どうしてお父さんがそんなことをしなくちゃいけないわけ?」   「どうしてって……何となく寝覚めが悪いじゃないか。乗りかかった船という言叶もあるしさ」   直子は箸を置いた。正座している膝を、平介のほうに向けた。   「お父さんがそんなことをする必要はないと思う。そりゃああたしだって、その梶川さんという人のことを気の毒だと思うわよ。御主人亡くして、御本人も病気なら、きっと大変でしょうよ。でも悪いけど、あたし、そんなには同情する気になれない。だってあたしたちだって、十分に不幸だと思うもの」   「それはそうだけど、俺たちはまだ何とかやっていけているじゃないか」   「简単にいわないでよ、あたしがどんな思いで気持ちを吹っ切ったと思ってるの」   直子の言叶に、平介は见えない手で頬を殴られたような気がした。言叶をなくし、视线を落とした。   「ごめん」すぐに直子が谢った。「お父さんの性格だもんね、苦しんでる人を见たらほうっておけないのは」   「そんな格好のいいもんじゃないよ」   「ううん、わかってる。お父さんはバランス感覚があるのよ。むやみに人を恨んだりしない。あたしみたいに、筋违いなことで怒ったりしない」直子は、ほっと息を吐いた。「正直いうと、さっきの话を闻かされて、ちょっとがっかりしちゃったわけ」   「がっかり?」   「うん。じつをいうとね、その梶川という人が博打や浮気が原因でお金に困ってて、それで无理して运転して事故に繋がったっていうストーリーのほうを期待してた。期待っていうのも変かもしれないけど、そっちのほうがよかったというのが本音」   「どうして? そんなことが事故の原因だったら许せないって、前にいってたじゃないか」   「だからよ」直子はわずかに微笑んだ。「そういう事情だったら、理屈抜きに运転手を恨めばよかった。悲しくなるたびに、怒りをぶつければよかった。わからないかもしれないけど、自分の置かれている境遇に耐えられそうにない时には、谁か恨みや憎しみをぶつけられる相手がほしいものなのよ」   「それは……わかる」   「でも离婚した相手に仕送りを続けていたという话じゃ、恨みきれないもんね。怒りの持って行き场がなくなっちゃう。それでお父さんに八つ当たりとかもしちゃう」   「そんなのはいいけどさ」   「手纸、书いてあげれば」直子はいった。「お父さんがそうしたいと思うなら、すればいいよ。もしかしたら本当に、先方の人は梶川さんが亡くなったことを知らないのかもしれないし」   「いや、もういいよ。よく考えたらお节介なことだ」そういって平介は书留の控えを手の中で握りつぶした。   [#ここから7字下げ]   19   [#ここで字下げ终わり]   学校が近づくにつれて、子供たちの歓声が闻こえるようになった。时折スピーカーを通した女性の声も耳に届く。桥本多恵子の声ではない。さらに『天国と地狱』の曲が流れてきた。运动会は昔から何も変わっていないなと平介は思った。   学校に着いたのは十二时少し前だ。どこかの学年が纲引きをしていた。オーエス、オーエス――かけ声も昔と同じだ。   すでに保护者席は大势の亲たちによって埋められつつあった。殆どの父亲がカメラを手にしていた。中にはビデァ~メラを持ってきている者もいる。平介はカメラ派だ。   直子の姿を探し、ゆっくりと会场内を歩いた。空はほどよく昙っており、スポーツをするには最适の気候だ。もっとも直子は今朝家を出る时まで、休む口実を探していた。无駄に疲れることはしたくないのだという。   「运动会なんて、やりたい子だけがすればいいのよ。强制参加なんて、马鹿げてる」ぶつぶつと文句をいいながら家を出たのだった。   彼女が休みたい理由を平介は知っていた。このところ连日受験勉强で疲れているのだ。日曜日に早起きして出かけるのは苦痛に违いなかった。   六年生の集まっている场所が见つかった。平介は直子を探そうとした。が、彼女を见つける前に、桥本多恵子の姿が先に目に入った。段ボール箱に入った、玉入れ竞争の玉を调べているようだ。   视线を感じたのか、桥本多恵子が顔を上げた。すぐに平介に気づき、爽やかに笑いながら近づいてきた。他の女性教师は长いジャージで脚を隠しているのに、彼女は白いショートパンツを穿いていた。   「お仕事、大丈夫だったんですね。杉田さんは、お父さんは休日出勤が多いから来れないかもしれないなんていってたんですけど」   「ええ、今日は大丈夫です」平介は头に手をやりながら答えた。   このところ彼はマスターベーションをする时、いつも桥本多恵子の顔を思い浮かべていた。空想の中で彼女に、娼妇の如き振る舞いをさせている。そのせいかこうして向き合うと、平介は彼女の顔を正视できなかった。   「もう间もなく、この纲引きが终わると思います。そうしたらお昼休みになりますけど」桥本多恵子はそういってから彼の手元を见た。彼は手ぶらだ。「ええと、お弁当は?」   「そのことなんですけど、用意できなかったので、外に连れていきたいんですが」   保护者が一绪の场合は、昼休み中に学校を出て外食していいことになっている。   「それは构いませんけど」桥本多恵子は自分の颚に手をやり、何か考え事をした。   ちょうどその时、グラウンドでは纲引きが终わった。午後一时まで昼休みとします、というアナウンスが流れた。   「杉田さん、藻奈美さんを见つけたら、二人でここにいてください。いいですね」   「あ、はあ」   平介が生返事をしている间に、楠本多恵子はどこかに行ってしまった。仕方なく彼がその场に伫んでいると、「お父さん」と声がした。赤い鉢巻きをした直子が、小さく手を上げて近づいてくるところだった。「何ぼんやり突っ立ってるの、こんなところで」   「いやあ、それが」平介は桥本多恵子とのやりとりを话した。直子は、ふうん、といっただけだった。   やがて桥本多恵子が戻ってきた。手にコンビニの白い袋を提げていた。   「これ、よかったら召し上がってください。あたしが作ったので、あまり出来はよくないんですけど」彼女は袋を差し出した。どうやら弁当が入っているらしい。   「えっ、いやあ、それは申し訳ないです。だって先生のお弁当でしょ」   「あたしのは别にあるんです。こういうこともあるかもしれないと思って、余分に作ってきたんです。ですから、どうぞ」   「えっ、そうですかあ。おい、どうする?」平介は直子に讯いた。   「あたしはどっちでもいいけど」と直子は髪を触りながら答えた。   「じゃあ、远虑なくいただいておきます。本当にどうもすみません」   「中に缶入りのお茶も入れておきましたから」そういうと桥本多恵子は教师席のほうへ歩いていった。   「大変だなあ、担任ってのも。こんなことにまで気を回さなきゃいけないんだなあ」   平介がいうと、直子は呆れたような目で彼を见上げた。   「ばっかじゃないの。そんなの余分に作るわけないでしょ」   「えっ、だけど先生がそういってたぜ」   「そういわないと受け取らないからよ。あの人はたぶん、职员用のパンでも食べるんだと思うよ」   「そうなのか? だとしたら、悪いことしちゃったな。返してこようか」   「もういいよ。今返したら、かえって変だよ」   直子に连れられ、平介は校舎の里へ回った。出入口の小さな阶段に并んで腰挂けた。グラウンドは全く见えない。   「こんなところだと、运动会っていう気が全然しないぞ。保护者席に行こうや」   「いいのよ、ここで。埃っぽくなくて。それよりお茶ちょうだい。喉、渇いちゃった」   平介は袋に入っていた缶入りの日本茶を直子に渡した。そして一绪に入っていたプラスチック容器を开けた。小さな握り饭とカラフルなおかずが入っていた。   「旨い」握り饭を一口食べて、平介はいった。中には明太子が入っていた。   「见た目はまあまあだね」   「どうして自分の弁当をくれたのかな」   「さあね」直子は日本茶をごくりと饮んでからいった。「お父さんのこと、好きなんじゃないの」   平介はむせそうになった。   「ふざけるなよ、いっていい冗谈と悪い冗谈があるぞ」   「别にふざけてないよ。彼女、お父さんのこと结构気にしてる。今日だって、来るかどうか、何度もあたしにたしかめたんだもの」   「俺は子持ちだぜ」   「でも独身。歳の差だって、问题ってほどじゃない。あとは见た目だけど」直子は平介の顔をしげしげと眺めた。「彼女が好きになっても、そんなには不思议じゃないと思うよ」   「そんなことあるわけないだろ。ほら、直子も食ってみろよ」プラスチック容器を彼女のほうに差し出した。   「藻奈美っていいなさいよ。今日ぐらいは」直子が周囲を见回してから小声でいった。   「あ、すまん。藻奈美……」平介は、いつまで経っても彼女のことを娘の名前では呼べないでいた。   直子は手を伸ばし、卵焼きを素手で掴んだ。それを丸ごと口に入れる。   「ちょっと味がしつこいな。下町育ちかな」首を捻った。   桥本多恵子のことで、平介は内心浮き立っていた。そうなのか。脉があるのか。しかし一方で、それがどうしたのだと问う自分がいる。自分には直子がいる。浮かれたところを彼女に决して见せてはならない。   「ところで、运动会が终わった後はどうする? 一绪に行くか?」平介は话题を别の方向にねじ曲げた。   「调印……だっけ」   「うん。新宿のいつものホテルだ」   事故の补偿交渉が、ほぼ妥结していた。协定书の调印が、今日行われることになっている。最後ぐらいは遗族として出席してみるかと、昨夜平介のほうから提案したのだ。   「やめておく」饮みかけの缶入り茶を差し出しながら彼女はいった。   「そうか」   「自分の命の値段が决まる瞬间なんかに、あまり立ち会いたくない。どんなに高い値段でもね」   「わかった」缶を受け取り、平介は冷えた茶を饮んだ。   昼休み终了のアナウンスが流れると、直子は急いで席に戻っていった。平介は弁当の礼をいうために桥本多恵子を探した。入场门の脇に彼女の姿があった。   彼が近づいていくと、あら、という顔で駆け寄ってきた。「お弁当、いかがでした」   「あ、もう、大変おいしくいただきました。どうもごちそうさまでした」平介は头を何度も下げた。   「そうですか。それならよかったんですけど。じゃあ入れ物を」彼女は両手を出した。   いえいえ、と彼は手を振った。「洗ってお返しします。そうするのが礼仪だと娘が」   「杉田さんが? 相変わらずしっかりしてますね」桥本多恵子は微笑んだ。   もっと何か话をしたほうがいいのだろうかと平介は考えた。彼女はそれを望んでいるかもしれないのだ。だが话题が思いつかなかった。そのうちにほかの女性教师が彼女の名を呼んだ。彼女は返事した。   「じゃあ、これで」   立ち去っていく彼女の胀《ふく》ら胫《はぎ》を平介は见送った。   昼休みが终わって三番目の竞技が六年生の徒竞走だった。平介は保护者席の一番前まで进み出た。   ピストルの音と共に、五人の选手が次々にスタートしていく。距离は五十メートルだ。选手たちが保护者席の前を走っていくように设定されている。亲たちは热くなり、大声で応援する。   ゴールのテープを持っている一人が桥本多恵子だということに平介は気づいた。彼女はもちろん彼のほうなどは见ていない。悬命に駆け込んでくる子供たちを优しい笑顔で迎えている。   直子はかなり後のほうになって出てきた。身长が高いほうだからだ。全く紧张しているふうではなかった。どちらかというと、走ること自体が面倒といったように见える。   ピストルの音が鸣った。五人の选手が一斉にスタートする。二人が飞び出し、直子は三番目になった。その位置をキープしてゴールイン。その间に平介は二回シャッターを押した。   そういえば藻奈美もいつもこれぐらいの顺位だったなと思い出した。精神が大人でも、肉体は変わらないのだから、こういう结果が顺当なのだろう。ゴールインした直子は、平介の姿を见つけ、苦笑して軽く手を上げた。彼も同じようにして応じた。   最後に彼はもう一度カメラを构えた。だがファインダー越しに覗いたのは、テープを持っている桥本多恵子の姿だった。秋风が吹き、栗色がかった髪が彼女の顔にかかった。彼女はそれを空いているほうの手でさりげなくかきあげた。   その瞬间平介はシャッターを押していた。   五千二百万円――。   协定书に记された金额を见ても、平介はぴんと来なかった。5と2の後に0が六つ并んでいる。ただそれだけのことだ。その数字の意味するところが、どうしても実感できなかった。しかし胜ち取った数字なのだという。大黒交通侧が过去の事例や新ホフマン方式という计算式などから出してきた额は、これよりももっと下の额だった。   胜ち取ったという気持ちなど、全くなかった。结局これで爱する者の命が消されたことについては谛めろということなのだ。   「よろしいでしょうか」向かい侧に座っていた男が讯いた。これまでに一度も会ったことのない男だった。隣にいる男もそうだ。平介がこの别室に入ってきた时、二人は立ち上がって丁宁に头を下げてきた。谢罪の気持ちを表したのだろうが、それがどの程度心のこもったものかはわからなかった。事故から数か月が経过し、大黒交通では社长をはじめ大幅に人间が入れ替わっている。今目の前にいる男たちも、大黒交通の社员というだけで、事故に関しては全く责任のない人间たちなのだ。   たぶんこうして风化していくのだと平介は感じた。今目の前にある纸切れだけが、悲剧の记録となる。   平介は所定の位置にサインし、持参してきた実印を、隣に座っている弁护士の向井に指示されるまま押していった。补偿金を振り込んでもらう银行口座を书いて完了だ。   「お疲れさまでした。これで终わりですよ」向井弁护士がいった。唇に笑みが浮かんでいた。この人物にとっても大仕事だったはずである。表情が少し缓むのも无理のないところだろう。   「どうもいろいろとありがとうございました」平介は向井に礼をいった。   彼が腰を上げると、向かい侧の二人が揃って立ち上がった。「本当に申し訳ございませんでした」声まで揃っている。   あんたたちが谢ることないよ、関系ないんだから――そういいたかったが、黙って颔いて部屋を出た。   遗族会全员の调印が终わると、いったん会议室に集められた。向井弁护士から、细かい説明があった。さらに向井は、マスコミに対してどの程度発表していいかということを寻ねてきた。   「具体的には补偿额についてです」弁护士はいった。「マスコミが一番知りたいのは、そこだと思いますから」   「発表するメリットはあるんですか」遗族会干事の林田が质问した。   「今後同様の事故が起きた场合の先例にはなると思います。今回の额は、たぶん裁判では取れない额でしょうから」   「我々には特にメリットはないんですね」   「まあそうです」向井は目を伏せた。   结局多数决が采用された。金额については公表しないことを全员が望んだ。   「ほかに何か质问はありますか」向井が皆の顔を见渡した。   平介は讯きたいことがあった。それをここで讯くべきかどうか迷っていた。だがほかにこの质问をできる场所はなかった。   「ないようでしたら、これで――」向井がそこまでいった时、平介は手をあげた。向井は意外そうな顔をして彼を见た。「何でしょう?」   「梶川さんのところには、いくらか支払われたんですか」平介は讯いた。   「梶川さん?」それが谁か、弁护士は咄嗟に思い出せなかったようだ。   「运転手さんです。バスの」   ああ、と向井は颔いた。同様の声を漏らした者が、平介の周りにもいた。   「それは私は全く闻いていません。遗族会とは别の话ですから」   「あ、そうなんですか」   「たぶん何らかの见舞金は出ていると思いますが、私は知りません。それが何か?」   「いえ、别に……」平介は腰を下ろすしかなかった。   他の遗族たちが、怪讶そうな目で、じろじろと平介のことを见ていた。   「だって事故を起こした张本人だものな」と谁かがいった。   七か月におよぶ补偿交渉は、こうして终结した。遗族たちは向井や干事たちに礼をいい、また顔见知りになった者たちと挨拶を交わし、三々五々去っていった。谁の顔にも充実感らしきものはなかった。これで怒りの矛《ほこ》をおさめねばならない无念さが漂っているように平介には思えた。いつか直子が、自分の置かれている境遇に耐えられそうにない时には恨みや憎しみをぶつけられる相手がほしい、といっていたのを思い出した。   ホテルから出ると、外は真っ暗だった。饮みに行きたいなと彼は思った。しかし直子が一人で待っていることを考えると、そういうわけにはいかない。   シュークリームでも买って帰るかと、彼は駅に向かって歩きだした。   [#ここから7字下げ]   20   [#ここで字下げ终わり]   吐き出す息が白かった。コートのポケットに両手を突っ込み、その场で细かく足踏みする。寒いからだけではなかった。気持ちが落ち着かないのだ。   こんなに早くこういうことを経験するとは思わなかったと、平介はぼやきたい心境だった。早くても藻奈美が高校に上がる时だろうと高をくくっていた。   周りを见る。殆どが亲子连れだ。亲は裕福で知的阶级が高そうに见える。その子供もかしこそうだ。自分たちだけが浮いてるんじゃないかと不安になる。   目の前にポケットティッシュを差し出された。直子が赤い手袋をはめた手で持っていた。「洟《はな》、出てるよ」   あっ、といって平介はそこから一枚抜き、洟をかんだ。ごみ箱が周りにないので、コートのポケットに押し込んだ。   「落ち着いてるなあ」平介は直子の顔を见ていった。   「だって、今さらじたばたしたって仕方ないじゃない。もう结果は出てるんだし」   「そりゃそうだけどさ」   「それに」直子は一つ颔いて続けた。「大丈夫だよ、たぶん」   「自信満々だな」   「あたしが落ちたら、受かる子なんかいないよ。絶対に」   「じゃあ、もし落ちたとしたら俺のせいだな。面接の时、とちっちゃったからなあ」   志望动机はと讯かれ、予《あらかじ》め考えておいた理由をすらすらと述べたところまではよかったが、最後の缔めのところで、「というわけで娘と相谈して、こちらの学校に决めました」というべきところを、「妻と相谈して」といってしまったのだ。面接官も変な顔をしていた。杉田亲子が父子家庭ということは、当然彼等も知っている。   「あんなこと、どうってことないよ」   「そうかあ?」   「案外プラスに働くかもよ。この学校、结构ミーハーなの知ってる?」   「ミーハー?」   「有名人に弱いんだよ。作家とか文化人」   「それがどうしたんだ」   「お父さんのあの言い间违いは、あたしたちが例の有名な事故の被害者だってことを思い出させる効果があったと思うんだよね。となると、何となく落とし辛くなるんじゃないかな。マスコミの目だって気にするかもしれないし」   「そんなにうまくいくかねえ」   「とにかくマイナスにはならないよ。大丈夫だって」直子は平介の腕をぽんと叩いた。   彼女が志望する中学の合格発表の日だった。试験は昨日终わっている。受験する前も後も、直子の表情に変化は全くなかった。彼女が平介にいったことは、入学の纳入金を用意しておいて、ということだけだった。   やがて掲示板に白い纸が张り出された。黒いフェルトペンで数字がびっしりと书き连ねてある。周辺にいた亲子连れが、一斉にその前に群がった。   平介は目をこらし、直子から闻いていた受験番号を探した。236が彼女の番号だった。九九《くく》の二×三が六と覚えている。   「あったよ」先に直子がいった。他人事《ひとごと》のような口调だ。   「えっ、どこだどこだ」   「どこ见てんの。もっと左」   彼女が指差したほうに目を向けた。たしかにそこに236の数字があった。   「あっ、ほんとだ。あったあった。おい、やったじゃないか」平介はガッツポーズをとった。   「だから大丈夫だっていったじゃない。早く入学手続きして帰ろうよ」直子はくるりと背中を见せ、すたすたと歩きだした。   平介は彼女の後を追いながら、拍子抜けした気分を味わっていた。もしも合格したのが本物の藻奈美で、直子が直子としてこの场にいたなら、喜びのあまり泣きだしていたかもしれないのだ。   あいつ変わっちまったなあと思った。   入学手続きを终えた後は、二人で吉祥寺に出た。今度彼女が入った中学が、吉祥寺から近いのだ。买い物をし、さらにその後は食事をすることになった。   「二人できちんとしたフレンチレストランに入るなんて久しぶりね。何年ぶりかなあ」テーブルの向こうで直子が嬉しそうにいった。   「そういえば藻奈美が生まれて以来、ファミレスばっかりだったな」   「あの子、ハンバーグが好きだったから」   平介が赤ワインのハーフボトルを饮んでいると、自分も饮みたいと直子がいいだした。   「酒は饮めなかったじゃないか」   「うん。でも今は何となく饮みたいの。それに前とは身体が违うわけでしょ? うちの家系はアルコールがだめだけど、お父さんの遗伝子が加わっているわけだから、饮めるかもしれない」   「小学生のくせに」   「中学生よ。もう」ワイングラスを手にし、平介のほうに差し出した。「注《つ》いで」   「知らねえぞ」周りを少し気にしながら、おおぶりのグラスに少しだけ注いだ。   どこで覚えたのか、直子は鼻の下でグラスを軽く回し、匂いを嗅ぐしぐさをしてから赤い液体を喉に流し込んだ。すぐに梅干しを口に入れたような顔になった。   「どうだ?」と平介は讯いた。   「甘くない」   「そりゃそうだ。ジュースじゃないんだぞ」   「でも」彼女はもう一口饮んで、味わうように口を动かした。「わりといける」   「そうかい」   结局ハーフボトルの三分の一以上を直子が饮んだ。   レストランの前からタクシーに乗ったところ、途中で直子は居眠りを始めてしまった。やはりワインがまわってきたようだ。だがアルコールに耐性があるのは事実のようである。平介は彼女の寝顔を眺め、不思议な感じがした。心は直子であっても、この身体には间违いなく自分の血が流れているのだ。   家に着いたのは九时过ぎだった。平介は直子の身体を抱いて二阶に上がり、苦労しながらパジャマに着替えさせ、そのままベッドで寝かせた。彼女は寝ぼけているのか、酔っぱらっているのか、「平ちゃんごめんね。平ちゃんごめんね」と、しきりに谢っていたが、横になるとすぐに寝息をたて始めた。   平介は风吕に入り、冷えた身体をたっぷり时间をかけて暖めた。风吕から上がるとスポーツニュースを见ながら缶ビールを一本空けた。ジャイアンツのキャンプ报告がなされていた。   眠る前に直子の部屋を覗いた。彼女は布団に抱きつくような格好で眠っていた。肩まで布団をかけ直し、明かりを消してから部屋を出た。   寝室に入ると、平介は布団にもぐって目を闭じた。だが眠気は全く起きなかった。彼はすぐに枕元のスタンドのスイッチを入れた。傍らに文库本が置いてある。それに手を伸ばしかけて、すぐにその手を引っ込めた。その推理小説は、先日読み终えてしまっていた。すぐ横に本棚があるが、今すぐに読みたいような本はなかった。   うつぶせになり、枕に颚を载せた。ぼんやりと畳の目を眺めた。平介たちが越してきた时には青々としていた畳も、今は日に焼けてすっかり茶色くなっている。あれから时间は确実に流れた。そしてこれからも流れていく。畳の茶色はもっと浓くなり、自分は老いていくだろう。   不意に、いいようのない孤独感が袭ってきた。暗く先の见えないトンネルに、たった一人で取り残されたような気がした。これまで一绪に歩いてきた直子の姿はない。ただ彼女の声が闻こえるだけだ。そして彼女はすでに别の世界を歩きだしている。ここにいるのは自分だけなのだ。   同时に腹立たしさもわき起こってきた。自分が理不尽な出来事の犠牲になっているように思えた。俺の人生はどこにある? 俺はこのままなのか――。   平介は右腕を布団から出し、本棚の一番下に入れてある『品质管理』という本を抜き取った。専门书だが、もちろん今これを読みたいわけではない。その里表纸を开くと、写真が一枚挟まっている。それを取り出した。   桥本多恵子が笑っていた。あの运动会の日、こっそり撮影した一枚だ。   平介は股间に手を伸ばした。阴茎を握ってみると、徐々に膨张を始めた。   俺が恋をしたっていいじゃないか、と思った。俺にだって恋をする権利はある。なぜなら俺には何もないからだ。俺には妻などいない。性の喜びを分かち合う相手もいない。俺にあるのは、ただ奇妙に歪んだ宿命だけだ。   桥本多恵子の顔を眺めながら、彼は悬命に卑猥な妄想を思い浮かべようとした。マスターベーションしようとした。事実、この写真を见ながら何度かそうしたのだ。   だが今夜はうまくいかなかった。彼の手の中で彼自身は、急速に势いをなくしていた。   谛めて写真を本に挟み直した。そのまま彼は枕に顔を埋めた。   肌に一瞬冷たい空気の触れる感覚があって目が覚めた。睑を开くと藻奈美の顔があった。スタンドの光に照らされた顔は平介を见て笑っていた。   「ごめん、起こしちゃった」と直子はいった。彼女は布団の中に入り込んでいた。   「今、何时だ」   「まだ夜中の三时だよ」   「どうしたんだ」   「何だかわからないけど、急に目が覚めちゃった。あたし、どれぐらい寝てたのかな」   「帰りのタクシーの中からだからな。六时间以上は寝てるだろ」平介はあくびをした。   「久しぶりによく寝た感じがする。いつも六时间ぐらいは寝てるんだけどな」   「受験が终わって安心したんだよ」   「そうかもしれない」直子はぴったりと身体を寄せてきた。平介の胸に頬をつけた。「ねえ」上目遣いをした。企みを打ち明ける顔だった。「手で抜いたげようか」   平介はぎくりとした。一瞬、先程自慰しようとしたのを见られたのかと思った。   「そういう冗谈はいうなっていっただろ」   「冗谈のつもりじゃないんだけど。あたしの顔を见てるのが嫌だったらさ、顔を隠してしたらどうかな」   「だめだって。ほんとに、そういうのはだめだ」   「そう?」   「うん」   「ふうん。そうかもね」直子はずり上がってきた。见惯れた藻奈美の顔が平介の顔に近づいてくる。娘の顔だ。长年、娘として爱してきた顔だ。   彼女はじっと平介の顔を见つめた。思い诘めたような表情だった。何か重大な告白をされるのではないかと思い、彼は身体を固くした。   ところが彼女の目が、ふっと上に向いた。何かに手を伸ばす。「何これ。寝る前に、こんなのを読んでるの?」   『品质管理』の本だった。本棚に戻すのを忘れていたのだ。しまった、と思った。   彼女は平介の头の上で、本の页をぱらぱらとめくっている。どの页を见ているのか、平介にはわからない。   「数字ばっかり书いてある」   「だろ。つまんない本だよ」平介がこういった时だ。   突然直子の表情が停止した。唇は中途半端に开いたままで、目は一点を凝视していた。ただしその目がみるみる充血していくのを平介は认めた。   桥本多恵子の写真を见つけたに违いなかった。平介は瞬时にして様々な言い訳を考えた。いつ撮ったのかもよく覚えていない写真だ、本人に渡すつもりがうっかりしていた、本を読んでいて栞《しおり》が手元になかったので身近にあったものを代用したにすぎない――。   だがそれらの言い訳は不必要だった。直子は何もいわず、本を闭じた。それから彼の胸に顔を埋めた。   一分间ほどそうした後、彼女はごそごそと布団から这い出た。その顔には笑顔が苏っていた。「寝ているところ、邪魔してごめんね」   「行くのか」   「うん。おやすみなさい」   「おやすみ」   直子が出ていった後、平介は枕元の本を见た。『品质管理』は闭じられていたが、写真の角が五ミリほどはみ出ていた。   本を本棚に戻し、电気スタンドを消した。   [#ここから7字下げ]   21   [#ここで字下げ终わり]   运転手の运転は慎重を极めていた。最後まで决して気を缓めまいという思いが、サイドブレーキを引く动作にさえ込められているようだった。この慎重さがあの时の梶川にあったらと思うが、それはいっても仕方のないことだった。   事故からちょうど一年が経っている。一周忌を皆でと提案したのは、例の遗族会の干事たちらしかった。彼等は大黒交通と交渉し、遗族全员がバスで事故现场まで连れていってもらえるよう话をまとめた。大黒交通侧に文句のあるはずがない。宿泊费のほうも当社で、ということになった。   ドアが开くと、まずガイド役の大黒交通の社员がバスを降りていった。彼はすぐに戻ってきて、マイクを手にした。   「はい。では、前の方から顺番に降りてください。决して急がないようにお愿いします。下は雪なので、滑るおそれがあります。必ず手すりに掴まって、ステップを一段ずつ下りるようにしてください」   指示に従い、前列の乗客から顺に降车していく。平介たちの番も近づいてきた。   「行こう」窓际の席に座っている直子に声をかけた。彼女は黒のフード付きのコートを羽织った。   外は缓やかに风が吹いていた。バスの暖房で少し头がぼうっとしかけていたので、その冷风が最初は心地よかった。だがすぐに頬がぴりぴりと痛くなってきた。   「寒いな、やっぱり」平介は呟いた。「耳がちぎれそうだ」   「この程度で?」直子がいった。彼女にとってはここが地元同様だということを平介は思い出した。   事故现场は、すっかり修复が成されていた。テレビや新闻写真でよく见た、破れたガードレールは、新しいものに変わっていた。平介はその新しいガードレールの手前から、バスが転落していったという谷を见下ろした。   斜面の角度は三十度から四十度というところだろうか。しかし目の错覚で、おそろしく急倾斜に见える。死への滑り台は何十メートルも続いている。その先に小さな川が流れているが、殆ど真下にある感じだった。   今は昼间なので、雪面が太阳光を反射して目が痛いほど眩しい。川の水面もきらきらと光っている。だが事故が起きたのは、まだ薄暗い早朝だった。周囲の林にも光を遮られ、この谷はおそらく真っ暗に近かったに违いない。   闇の中を、ごろごろとバスが転がり落ちていく光景を平介は思い浮かべた。それだけで恐怖のあまり、胃が缩んだ。その巨大な棺桶に乗っていた者たちの思いは、到底想像できるものではなかった。   周りですすり泣きが始まった。谷底に向かって合掌している者もいる。直子はただじっと斜面を见下ろしていた。   东京から同行してきた若い僧侣による読経が始まった。遗族たちは目を伏せて、それぞれの思いに沈んだ。すすり泣きは消えない。平介の隣で老妇人が呜咽を漏らした。   読経が终わると皆が持参してきた花束を谷に向かって投げた。花ではなく、故人の好きだったものを投げる者もいた。ラグビーボールが投げられた时には、一层深い叹きの声が皆から上がった。故人はたぶん大学のラグビー部员だったのだろう。   谷を见下ろしていた直子が顔を上げた。「ねえ、信じてくれる?」   「何だ」   「あの时あたし、このまま自分は死ぬんだと思ったの。不思议だけど、どんなふうに死ぬのかも咄嗟に头に浮かんだ。全身にいろいろなものが突き刺さり、头がスイカみたいに割れて死ぬんだと思った」   「やめろよ」   「でもね、それはいいと思ったの。いやだったのは藻奈美を死なせること。そんなことになったら、あなたに合わせる顔がないと思った。あなたに申し訳ないって。変だよね。自分も死ぬわけだから、そんなこと心配する必要ないのに。とにかく、この子だけは助けなきゃと思ったの。自分を犠牲にしてでも」そういってから彼女は改めて讯いた。「信じてくれる?」   「信じるよ」平介は答えた。「そのとおり、藻奈美を救った」   「中途半端だったけどね」彼女は肩をすくめた。   後は俺の仕事だ、と平介は思った。藻奈美の身体と直子の心を守ることが、俺に与えられた使命だ――。   「马鹿野郎っ」谁かが叫んだ。平介は声のしたほうを见た。双子の娘を亡くした藤崎という男だった。両手をメガホン代わりにして、もう一度叫ぶ。「马鹿野郎」   彼に触発されたか、何人かが続いた。叫ぶ内容はまちまちだ。さようなら、と叫んだ女性がいた。   平介も叫びたくなった。「おやすみ」という台词を思いついた。悪くないと思った。   谷に向かって立ち、すうっと息を吸った时だ。直子に服の袖を引っ张られた。   「ダサいよ」   「えっ、そうか」   「うん。行こ」   直子がバスのほうへ歩きだしたので、平介も彼女の後を追った。   慰霊旅行から帰った日の翌日が、小学校の卒业式だった。古い造りの讲堂で、それは行われた。後方に设けられた保护者席の中程に座り、平介は卒业生たちが顺番に卒业证书を受け取っていくのを见守った。   「杉田藻奈美」平介の娘の名が呼ばれた。   はい、という歯切れのいい返事があり、直子が立ち上がった。他の卒业生たちと同じように歩き、坛上に上がり、卒业证书を受け取って校长に礼をした。その一部始终を平介は见つめていた。   卒业式が终わると、グラウンドが别れの挨拶の场となった。特に直子は大势のクラスメイトに囲まれた。私立中学に进んでしまう彼女は、もう学校で皆と会うことはないからだ。彼女が握手を求められたり、サイン帐を渡されたりしているのを、平介は少し离れたところから眺めた。中には泣いている女の子もいる。そんな子の肩を抚で、直子は何か慰めの言叶をかけているらしかった。その姿には同级生というより母亲に近いものがあった。   直子以上に囲まれているのが桥本多恵子だった。彼女は子供たちだけでなく、それぞれの亲たちからも挨拶されていた。色白の彼女の頬が、今日は少し赤らんで见える。だがさすがに涙はないようだ。   别れの言叶がひとしきり飞び交った後、卒业生とその亲たちは、正门からぞろぞろと帰り始めた。一仕事を终えた教师たちには、感慨のほか、やれやれといった色も见える。   直子がようやく平介のところへやってきた。手に卒业证书の入った焦げ茶色の筒を持っている。   「お待たせ」少し疲れた顔で彼女は苦笑した。   「握手ぜめだったな」   「手が痛くなっちゃった。それより」直子はまだ少しクラスメイトたちが集まっているほうを见た。「挨拶した?」   「谁に?」   平介が讯くと、直子はかすかに眉を寄せた。   「彼女によ。决まってるじゃない」颚を小さく动かす。その先には桥本多恵子の姿があった。   「ああ」平介は首の後ろをこすった。「挨拶しておくべきかな、やっぱり」   直子は吐息をついた。目をそらし、斜め上を见た。「行っといでよ。あたし、ここにいるから」   「えっ、俺一人でか」   「うん」今度は下を向いた。グラウンドの乾いた土を蹴る。「いろいろ话があるんじゃないの? 远虑なく话しかけられる、最後のチャンスだよ」   この瞬间、平介は悟った。あの夜、直子はやはり本に挟んだ写真を见たのだ。あれ以来何もいわなかったが、心の中ではずっと悩んでいたに违いない。平介の恋を认めるかどうか――。   「わかった」平介はいった。「じゃあ、一绪に行こう」   えっ、と直子は顔を上げた。   「一绪に挨拶に行こうや」と彼は缲り返した。   「それでいいの?」   「いいよ。でなきゃ、変だろう?」   さあ、といって平介は右手を出した。直子はためらいながらもその手を握ってきた。   二人で桥本多恵子のところへ挨拶に行った。どうもいろいろとありがとうございました、先生もお元気で――月并みな言叶を彼は并べた。   「こちらこそいたりませんで。杉田さんもどうかお身体を大切に」桥本多恵子は笑顔でいった。父兄に対する教师の表情を越えるものではなかった。   学校から家まで、平介は直子と手を繋いで帰った。考えてみれば、彼女とこうして歩くのは久しぶりだった。妙なものだと思った。あの事故の前は、藻奈美と歩く时はいつも手を繋いでいたのだ。   直子は桥本多恵子のことは、一切口にしなかった。   家に帰ると、邮便配达人が止まったところだった。ポストに何か入れようとしている。平介は声をかけ、邮便物を受け取った。速达ハガキだった。   差出人を见て、少し惊いた。   「谁から?」直子が讯いた。   「梶川逸美さんだ」   「梶川って……」   「梶川运転手の娘さんだよ」平介はハガキの里を见た。   全身から血の気のひいていくのがわかった。鸟肌が立った。   「どうしたの?」直子が不安そうに讯く。   平介はハガキを彼女に见せた。   「梶川征子さんが亡くなった」   [#ここから7字下げ]   22   [#ここで字下げ终わり]   梶川征子の葬仪は、彼女が住んでいた町内にある集会所で行われていた。古い平屋で、间口も狭かった。通りに沿って、ほんの申し訳程度に花轮が并んでいた。   平介が梶川逸美からの速达を受け取ったのは昨日だ。そこには、『今朝、母が死にました。お葬式はたぶん日曜日だそうです。いろいろとありがとうございました。』とだけ书かれていた。何时にどこで葬式が行われるのかということは记されていなかった。   それで昨日すぐに车に乗り、梶川征子のアパートまで行ってみたのだ。ところがドアをノックしても応答はなかった。   アパート中のドアを叩いてみたところ、梶川母子のちょうど真下にすむ主妇が、この集会所で行われる葬仪のことを教えてくれたのだった。死因について知りませんかと寻ねてみると、彼女は眉をひそめていった。   「心臓麻痹だそうですよ。朝、仕事に行こうとして玄関のドアを开けた途端、その场に倒れたとかで」   「仕事は何を?」   「ビルの清扫って闻いてましたけど」   田端制作所は辞めたのかと思い、すぐにそれを否定した。辞めたのではない。たぶん辞めさせられたのだろう。   平介は帰宅してから直子に、明日の葬仪に行ってもいいかと寻ねた。どうしてそんなこと讯くの、いいに决まってるじゃないと彼女は答えた。   集会所の入り口は、通りから少し奥まったところにあった。平介が进んでいくと、入り口のすぐ手前の左侧に、七十歳近いのではないかと思われる小柄な老人と梶川逸美が并んで立っていた。老人が何者なのか、平介には全く想像がつかなかった。父亲だと考えると年齢的には合致するが、梶川征子と顔はあまり似ていなかった。   焼香の顺番はすぐに回ってきた。そもそも吊问客が少ないのだ。   梶川逸美は中学の制服姿で、目を伏せて静かに立っていた。その手には白いハンカチが握られていた。时々あれで涙を拭くのかなと平介は思った。   彼が前を通ろうとした时、逸美が不意に顔を上げた。何かの気配を感じたかのようだった。目が合うと、彼女はかすかに惊いたような色を见せた。大きな目が一瞬さらに见开かれた。平介は立ち止まりそうになった。   逸美は黙って头を下げてきた。そのまま顔を上げなかった。それで彼は足を止めることなく、前に进んだ。集会所の中は香の匂いがたちこめていた。   平介のもとに梶川逸美から连络があったのは、葬仪の翌周の土曜日だ。この日彼は休日出勤をしたので、帰りは午後七时过ぎになった。するとそれを知っていたかのように、八时顷电话がかかってきたのだ。もしかしたら逸美は母亲から、土曜日は休日出勤の可能性があるということを闻かされていたのかもしれない。   「お葬式に来てくださって、ありがとうございました」逸美は固い口调でいった。あの少年のような表情が、平介の头に浮かんだ。   「いやあ、いろいろと大変だったね」电话をしてきてくれてよかったと彼は思っていた。葬仪には出たが、结局何もわからないままだった。逸美とも口をきいていない。   「あの、お香典の、何というのか……お返しを」   「香典返し?」   「あ、はい。それを、渡したいんですけど」ぶっきらぼうな口调だ。伝えたいことをうまくいえない自分に対して苛立っているようだった。   「いや、そんな気を遣ってもらわなくていいよ」平介はいった。「おじさんが出したのは、そんなに大きな金额じゃないからね。そういうことはしなくていいんだよ」   「みんなもそういいますけど……」逸美は口ごもった。みんな、というのは葬式を取り仕切っている大人たちのことだろう。平介は気づかなかったが、亲戚が来ていたのかもしれない。   「気持ちだけいただいておくよ。ありがとう」   「でも、渡したいんです。渡したいものがあるんです」   「渡したいもの? 俺に?」   はい、と彼女は答えた。ある种の决意が込められているような声だった。   どういったものだいと讯こうとし、その质问を饮み込んだ。それを闻いてからだと、受け取るとも受け取らないともいいにくくなる。   「そう。そこまでいってくれるなら、远虑なく受け取ろうかな。ええと、それでどうすればいいんだい? 君の家まで取りに行けばいいのかな」   すると一拍间を置いてから彼女はいった。「家は、もうないんです」   「えっ?」   「昨日、あのアパートは出たんです。今は亲戚の家にいます」   「そうだったのか。亲戚のおうちというのは、どこなんだい?」   「志木というところです」   「志木? 埼玉の?」   「はい」   志木と闻いても、平介は何のイメージも涌かなかった。地名は知っているが、これまで自分とは何の関わりもない土地だった。彼は电话を持ったまま、道路地図帐を手にした。   「志木のどのあたり? 近くに何か目印はあるのかな」   「わかりません……あたしも、ここへ来たばかりだから」逸美は沈んだ声を出した。   これまで亲交のあった亲戚ではないのだということが窥い知れた。彼女のこれからの苦労を思うと、平介は切なくなった。   结局、駅で会うことにして电话を切った。   翌日曜日の午後、平介は直子を连れて电车を乗り継ぎ、东武东上线の志木駅まで行った。最初は一人で行くつもりだったが、一绪に行くと直子がいったのだ。その理由について彼は讯かなかった。直子自身にもうまく答えられないのではないかという気がしたからだった。   梶川逸美は改札口の近くの壁にもたれて立っていた。全体が赤色で袖の部分が白いスタジアムジャンパーを着ていた。平介を见つけ、ぺこりと头を下げた。それから直子に目を向けた。一瞬、眩《まぶ》しそうな目をした。   「どこか入ろうか。おなかはすいてない?」   逸美は返事に困ったような顔をし、わずかに首を倾げた。すると横から澄子がいった。   「すいてるに决まってるじゃない。何か食べられるところに入りましょうよ」   「あ、そうかい? じゃあ、适当な店を探してみようか」   志木駅周辺は平介が思っていたよりもずっと开けていた。太い道が走り、それに面して巨大スーパーをはじめとする大きな建物が并んでいる。駅のすぐそばにはファミリーレストランもあった。平介たちはそこに入った。   「远虑しないで、いっぱい食べてね」直子は逸美にそういってから平介のほうを见た。「お父さんは竞马で大穴を当てたばっかりなんだから。ねっ」   えっ、と声を漏らして平介は直子の顔を见た。竞马など、やったこともなかった。だが彼女が逸美からは死角になっているほうの目で素早くウインクするのを见て、その意図を理解した。   「そうなんだ。冗谈で买った马券が大当たりでね。ぱーっと使っちゃおうといってたところだったんだ」   固かった逸美の表情が少しほぐれた。彼女はようやくメニューに目を向けた。   それでも彼女が注文したのはカレーライスだけだった。たぶん自分が好きなもので、なるべく値段の安いものを探したのだろう。すると彼女の次に直子が、ハンバーグやフライドチキンなど子供が好きそうなものをいくつか頼み、最後に逸美に向かって、「ねえ、パフェとかアイスクリームとか食べる?」と讯いた。逸美が远虑がちに、「あたし、どちらでもいい」と答えると、直子は迷わずチョコレートパフェ二つを追加した。   平介は直子が一绪に行くといった理由の一つがわかった。彼だけならば、たとえこんなふうに店に入ったとしても、远虑を见せる彼女の扱いに困っただけだろう。   「お母さんのこと、大変だったね。少しは落ち着いたのかな」平介は讯いてみた。   逸美は颔き、「ちょっとびっくりしたけど」といった。   「心臓麻痹って闻いたけど」   「はい。なんか、もうちょっと难しいことをいわれたんですけど、心臓麻痹ってことみたいです」いいながら首を倾げた。   「そう」平介は水を饮んだ。心臓麻痹という病名がないことは、彼も知っていた。   「あたしが朝ご饭の片づけをしていたら玄関で物音がして、それで见たらおかあさんが倒れてたんです。靴の片っぽだけ履いて、もう片っぽは裸足で」   「救急车はすぐに?」   「呼びました。でも、间に合いませんでした。电话している时から、たぶん、もうだめだと思った」逸美はうつむいた。「眠ってるみたいな顔してたんだけど」   彼女は首から斜めにかけていた小さなポシェットを开け、ティッシュペーパーにくるまれた何かを取り出した。それをテーブルの上に置いた。   「これです」と彼女はいった。   「香典返し?」平介は讯いた。彼女は颔いた。   彼はそれを手に取り、ティッシュペーパーを开いた。中から出てきたのは古い懐中时计だった。   「へえ、珍しいものだね」   大きさは直径が五センチほどだ。银色をしている。斜め上に竜头《りゅうず》がついていた。   盖を开けようとした。ところが金具が引っかかっているのか、指先にどんなに力を込めても开けられなかった。   「盖が壊れちゃったみたいなんです」   「そのようだね」   「お父さん……父は、いつもそれを持ってたんです。事故の时も持ってて、それで盖が壊れたらしいんです」   「そういうことか」手の中で弄《もてあそ》びながら平介は呟いた。   「値打ちのあるものだって、父はいってました。自分の持っているものの中で、一番価値の高いのはこれだって」   「そんなに贵重なものなら、君が持っていればいいじゃないか」   すると彼女はかぶりを振った。   「亲戚の人に见つかって、父のものだとわかったら舍てられちゃうから……」   「えっ、まさか」   だが逸美は大げさにいったわけではなさそうだ。「本当にそうなんです」と悲しそうにいった。   平介は暗い気分になった。おそらくその亲戚にとっては、梶川运転手は疫病神《やくびょうがみ》なのだ。   「それに」逸美は顔を上げた。少し照れくさそうに頬を缓めた。「杉田さんに何か渡したかったんです。お葬式に来てくれて、うれしかったから」   「いや、でもそんなことは……」平介がそこまでいった时、隣の直子がテーブルの下で彼の腿をつついた。黙って受け取っておけ。そういっているようなつつき方だった。   平介は懐中时计を手に持った。「ほんとにいいのかい。おじさんがもらっても」   逸美はこっくりと颔いた。   「じゃあ、いただいておくよ。远虑なく」彼はそれをもう一度ティッシュペーパーで丁宁に包み、ズボンのポケットに入れた。   この後すぐ、料理が続々と运ばれてきた。   食事を终えた後、梶川逸美は平介たちを駅の改札口まで送ってくれた。平介は别れ际に何か気の利いた台词をいおうとしたが、言叶が何も思いつかなかった。気取ったことを言うと、直子からまた「ダサいよ」といわれそうだ。   「じゃあ、君も元気で。がんばってね」无难に、こういった。   梶川逸美は黙って小さく颔いた。唇を真一文字に结んでいた。   改札口から中に入ってすぐ、平介は直子に讯いた。「なあ、どうしてあの子が腹をへらしているとわかったんだ?」   直子は彼の顔を见上げ、ふっと息を吐いた。   「あの子は今居候なんでしょ? 居候、三杯目はそっと出し、という川柳を知らないの。あの子はたぶん今の家では一杯のおかわりすらできないでいると思う」   「ああ……そうか」   平介は後ろを振り返った。すると梶川逸美はまだ改札口の向こうにいた。彼等のほうに真挚な眼差しを向けていた。   平介は手を振った。直子も同じようにした。   梶川逸美の顔が瞬く间に泣き顔に変わった。   [#ここから7字下げ]   23   [#ここで字下げ终わり]   直子の中学生活は、平介の目から见るかぎり、まず顺风満帆といっていいようだった。肉体と心のずれという问题も、どうやらコントロールできているように见えた。不自然だった言叶遣いも、有名私立中学に通う、やや大人っぽい女子生徒としては、おかしいものではなくなっている。   顺风満帆という言叶が不适切だと思うのは、彼女の学校での成绩に関してだった。悪いのではない。その逆だ。最初の中间テストでいきなり学年七位に入ったかと思うと、その後もベストテンから落ちないのだった。三学期の期末テストでは、とうとう三位に食い込んだ。   「どちらの塾に通わせておられるのですか」保护者恳谈会の时、平介は担任の男性教师から寻ねられた。教师は、杉田藻奈美という一见平凡な少女の学力に、心底惊叹している様子だった。   塾には通わせてないと答えると、教师の惊きはさらに増したようだ。勉强法や教育法について、しつこく质问された。果ては家系に学者の血が流れているのかとまでいわれた。   「勉强はよくやっているようですけど、私はあまり関知していないです。勉强しろといったこともありません。成绩について家で话すことも殆どないです」   平介のこの言叶は、谁からも全く信用されなかった。たぶん何か秘诀――特别な教育方法や超一流の家庭教师といったものが、杉田藻奈美の学力の阴に存在していると思われているようだった。平介は恳谈会のたびに、教育热心な母亲から质问ぜめにされた。   だが本当に直子は、特别なことは何もしていないのだった。ただし日顷の勉强量は半端なものではなかった。彼女は怠けるということを全くしなかった。家事の合间に勉强し、勉强が一段落すれば、残った时间を家事にあてた。もちろんテレビを见たり、游んだりすることはある。しかしそれはまさに息抜きだった。たとえば彼女は、一日にテレビを见る时间は一时间半と决めていた。どんなに见たい番组があっても、この规律を破ろうとはしなかった。   どうしてそんなにがんばるのかと平介が讯いてみたことがある。彼女はリンゴの皮を器用に剥きながら、淡々と次のようにいった。   「一つ破ると、二つ破るのも三つ破るのも同じだと思っちゃうでしょ。そうしてどんどんだめになっていっちゃうのよね。あたしの前の人生は、それの典型だった。その结果、小学校から短大まで十四年间も学校と名のつくところに通っていながら、生きていくための术が何ひとつ身につかなかったの。あたしはね、同じことを二度缲り返したくないわけ。あんなに深い後悔を、もう一度するのは死んでも嫌なの」   そして奇丽に剥いたリンゴを四つに切ってフォークで刺し、「はい」といって平介のほうに差し出した。彼はそのリンゴを食べながら、そんなに前の人生は後悔ばっかりだったのかよと心の中で呟いた。   もっとも彼女は勉强だけがすべてと考えているわけでもなさそうだった。勉强以外のことに目を向けることも大切だと认识はしているようだ。彼女は以前に比べて、はるかにたくさんの本を読むようになった。ずっと埃をかぶったままだったミニコンポを扫除し、音楽を闻くようにもなった。   「世の中には、素晴らしいものが本当にたくさんあるのよね。そんなにお金をかけなくても幸せになれるものだとか、世界観が変わっちゃうものだとかが简単に手に入る。どうして今まで気がつかなかったのかなと思っちゃう」感动する本や音楽に出会った时など、彼女は目を辉かせて平介にこういうのだった。   直子は友人も大事にした。当然のことながら、はるかに精神年齢の低い友人たちを、彼女は积极的に作った。彼女は成绩がよく、面倒见もいいので、仲间たちからも人気があるようだった。   日曜日に数人の友达を家に呼ぶということもあった。そんな时には直子は手作りの料理を出してもてなした。その料理の出来映えには、例外なく皆が惊いた。   「すごいのねえ、藻奈美。どうしてこんなことができちゃうわけ?」   「大したことないよ、この程度。あなたたちだって、やろうと思えばできるよ。今は便利な调理器具がいっぱいあるもんね。昔は电子レンジだって、どの家にもあるってわけじゃなかったんだよ。蒸し器とか使わなきゃなんなくて大変だったんだから。今の若いお母さんなんかは恵まれてるよねえ」   「やだなあ、藻奈美。おばあさんみたいなこといっちゃってえ」   「だからその、あたしも感谢しなくちゃいけないと思うわけよ」ボロが出そうになった时に咄嗟に取り缮うのも、直子は巧みになっていた。   あの子たちはあたしの先生なのよ――若い友人たちが帰った後で、直子が平介にいったことがある。   「単に中学生らしく振る舞うためのお手本という意味じゃないの。彼女たちと一绪にいると、あたしの中にある古い価値観が更新されるような気がするわけ。それだけじゃなくて、あたし自身もその存在を知らなかったような神経の蕾《つぼみ》みたいなものが、ぽんぽんと花开いていくような気がするの。彼女たちと接した後は、间违いなく世界の色が违って见えてくるのよ」   平介としては言叶の意味はわかっても、感覚では理解できない种类の话だった。「そうか、それはよかったな」としかいえなかった。彼女との间に、见えない沟が生じつつあるのを认めないわけにはいかなかった。   人格は直子のものであっても、学习能力と同様、おそらく感性も藻奈美の若い头脳に支配されているのだろうと平介は解釈した。ティーンエイジャーだからこそ见えるもの、年をとってしまえば见えなくなるものが、间违いなく今の直子には见えているのだ。   厄介なことはその感性の変化を、直子自身が十分に把握していないことだった。そしていうまでもなく平介は、その変化についていけないでいた。彼にとって直子は――外见はたとえ藻奈美のものであってもその人格は――依然として自分の妻だと思っていた。   その日平介はいつもより帰りが遅くなった。职场にやってきた新しい仲间二人を歓迎する饮み会があったからだ。二次会の途中で席を立ったのだが、家に着いた时には午後十一时近くになっていた。适度に酔っていて、気持ちがよかった。   玄関で靴を脱ぎながら、「ただいま」と奥に向かって声をかけてみたが、返事はなかった。そのまま洗面所に行くと、浴室に明かりがついていて、ドアの向こうからシャワーを使う音が闻こえてきた。   平介はドアを开けた。直子の小さな背中が见えた。   彼女はシャワーを使って髪を洗っているところだったが、惊いたように振り返った。その拍子に持っていたシャワーノズルを落とした。汤が无関系な方向に飞び散り、浴室の壁を濡らした。彼女はあわてて汤を止めた。   「びっくりするじゃない。急に开けないでよ」直子はいった。声が少し尖っていた。   「ああ、すまん」平介は谢った。谢りながら、じゃあノックでもすればよかったのか、と思った。「今帰ってきたところなんだ。风吕、俺も入っていいか」   「あ……あたし、もう出るけど」   「早く入りたいんだよ。身体に烟草の臭いがしみついちゃったみたいでさ」そういいながら彼はもう服を脱ぎ始めていた。   直子と一绪に风吕に入るのは久しぶりだった。彼が入ろうと思う时には、彼女は大抵勉强中だからだ。   全裸になり、浴室に入っていった。直子は顔を洗っているところだった。平介は洗面器を使って挂かり汤をし、汤船に浸かった。腹の底から绞り出すような、中年男特有の呻き声をつい漏らした。   「今日は参ったよ」胸まで汤に浸かった状态で彼はいった。「课长がすねちゃってさあ。宴会场に行くのに、谁も诱わなかったみたいなんだよな。そんなに邪魔者扱いすることはないだろう、とかいっちゃってさ。机嫌とるのに、えらく苦労しちまったよ」   「ふうん。それは大変だったね」直子の口调はどこか上の空だ。濡れたタァ‰を绞り、髪と顔を拭いている。身体を捻り、平介のほうには背中を见せていた。   そのまま身体も拭き始めた。それで平介は不审に思った。   「どうした。汤船に入らないのか。いつも髪を洗ってから、もう一度入るじゃないか」   「うん。今日はもういいから」背中を向けたまま彼女は答えた。   出ようとして彼女が立ち上がった时だった。一瞬それがちらりと见えた。   「あっ、おい」と平介は汤船の中から声をかけた。   なによ、というように直子は首だけを回した。   「そこんとこ、生えてきたんじゃないのか」平介は彼女の下腹部を指差した。「ちょっと见せてみろよ」汤船の中で中腰になった。   「いいじゃない、そんなことどうだって」直子は反対侧に腰を捻った。   「なんでだよ。见せたっていいだろ」彼は彼女の腰に手を伸ばした。腰骨のあたりを掴み、自分のほうに引き寄せようとした。   「触らないでよっ」直子は彼の手を振り払い、さらに肩をどんと押した。   平介はバランスを失い、汤船の中で尻饼をついた。一瞬鼻の中にまで汤が入った。   直子は浴室を出ていき、ばたんとドアを闭めた。そのまま服も着ずに洗面所を出ていく物音がした。   平介はしばらく呆然として汤船でしゃがみこんでいた。何が起きたのか、すぐにはよくわからなかった。   どういうことだ。   俺は亭主だぞ。亭主が女房の裸を见て、何が悪い。   身体は藻奈美のものだというのか。藻奈美は俺の娘だぞ。おむつだって替えたんだ。   理不尽な仕打ちを受けたという愤りが、少しの间彼の体内を駆けめぐっていた。しかしやがてそれも消えていった。彼は何となく、状况が饮み込めてきた。どういう状况なのか言叶ではうまく表现できなかったが、自分がどうやら直子の心に走っている细い糸に足を引っかけたらしいということはわかった。   ろくすっぽ身体を洗いもせず、彼は风吕から出た。その时になって、下着の替えも风吕上がりに着るはずのパジャマも用意しておかなかったことを思い出した。出しておいてくれるよう、直子に頼むつもりだったのだ。   やむをえずさっき脱いだ下着をつけ、通勤用のズボンを穿いて洗面所から出た。   一阶の和室に直子の姿はなかった。平介は二阶に上がり、下着を替え、パジャマを着てから、直子の部屋のドアをそっと开けた。   直子は赤いパジャマを着て、部屋の中央で膝を抱えてうずくまっていた。その手の中にはテディベアのぬいぐるみがあった。彼のほうに背中を向けている。ドアが开いたことに気づいていないはずがなかったが、彼女の肩はぴくりとも动かなかった。   「あのう、何というか、その、悪かったよ」平介は头を掻きながらいった。「ちょっと酔っぱらってた。何だか最近、酒が弱くなったみたいでさあ」   ははは、と彼は笑ってみた。だが直子の反応は何もなかった。   谛めて彼は部屋を出ようとした。その时彼女の声がした。「変だと思うでしょう?」   えっ、と彼は讯いた。   「変だと思うでしょう?」彼女はもう一度いった。「たかがあんなことで怒ったりして」   「いやあ」といったきり平介は言叶が続かない。   直子が顔を上げた。だが向こうをむいたままなので、どんな顔をしているのかは平介には见えない。   「ごめんなさい」彼女はいった。「何となく嫌だったの」   「触られるのがかい」   「触られるのもだけど……」   「见られるのも、か?」   「うん」彼女は颔いた。   「そうかあ」ため息と共に平介はいった。こめかみを掻き、その指先を何気なく见た。脂で爪が光っていた。风吕には入ったが、満足に顔も洗わずに出てきたからだ。中年男の汚さだなと自虐的に思った。   「ごめんなさい」直子はもう一度いった。「どうしてだか自分でもわからないの。决してお父さんのことを嫌いになったわけじゃないのに」   平介は何ともいえない気分だった。目の前にいるのが妻なのか娘なのか、よくわからなくなった。   いずれにせよ、自分が选ぶべき态度は一つしかないと彼は思った。   「わかった。気にしなくていい。これからは风吕は别々に入ろう。风吕のドアを开けたりもしないから」   直子がすすり泣きを始めた。小さい肩が小刻みに揺れた。   「泣くことないじゃないか」努めて声を明るくした。「たぶん、これが正常なんだ」   直子がゆっくりと振り向いた。目は真っ赤だった。   「あたしたち、こうして壊れていくのかな」   「何も壊れちゃいない。変なこというなよ」平介は少し怒った声を出した。   [#ここから7字下げ]   24   [#ここで字下げ终わり]   梶川逸美から贳った懐中时计は、一年六か月の间、和室のリビングボードの引き出しに入れられたままだった。それを久しぶりに引っ张り出すことになったきっかけは、突然札幌への出张を命じられたことだった。   现场の生産ラインの班长をしている平介は、めったに出张などない。ごく稀にあるのは、新しく导入される技术を见学に行く时などである。今回の出张も、そういったものだった。   平介たちの现场では、コンピュータの指示に従ってガソリンをエンジン内に喷射するノズルを作っている。そのノズルが正确な量を喷射できるかどうかを瞬时にして判定できる装置というのが今度采用されることになり、平介と生産技术担当の木岛、川辺コンビが见に行くことになったのだ。その计测器を作っているメーカーが札幌にあるわけだ。   「その気になれば日帰りできるだろうけど、当日は金曜だし、あわてて帰ってくることもないんじゃないか。平さんも、しばらく旅行なんかしてないだろ。秋の北海道はいいっていうよ。红叶がきれいだろうし」课长の小坂はそういった後、声をひそめて続けた。   「それに札幌といやあ、あそこがあるしなあ」   「あそこ?」   平介が首を捻ると、钝いなあと小坂は顔をしかめた。   「札幌といやあススキノじゃないか。决まってるだろう」   「はあ、そうなんですか」   「何ぼんやりした顔してるんだ。平さんのことだから、奥さんが亡くなった後も、全然游んでないんだろう。たまにはそういうところでリフレッシュしたほうがいい」小坂は声を落とし、「ススキノのソープは美人が多いっていうぞ」といい、やや黄ばんだ歯を剥いて笑った。   ソープのことなど考えもしなかったが、札幌に行けるのはいいなと平介は思った。北海道には行ったことがなかった。   问题は直子のことだが、これは简単に片づいた。平介の札幌行きに合わせて、长野から直子の姉である容子が上京してくることになったのだ。容子の一人娘が今春东京の大学に入学しており、容子は以前から一度娘の様子を见に行きたいといっていたのだ。   「お姉ちゃんのことを、伯母さんって呼ぶわけだね。それは楽しみ」话が决まると直子は一人にやにやしていた。   札幌と闻いて、平介は一つ思い出すことがあった。彼はリビングボードの、自分専用の引き出しを探った。まず见つけ出したのが、小さく折り畳まれた一枚の纸だ。それは梶川幸広运転手が前妻に送っていた现金书留の控えだった。舍てるつもりだったが、结局そのまま引き出しに入れておいたのだ。   札幌市豊平区――となっていた。地図で见ると、札幌駅からさほど远くはなさそうだ。   梶川母子のことを、平介は今も忘れられないでいた。肉亲を亡くしたという点では、彼女等も他の遗族も変わらないはずだった。だがあの母子だけは、谁からも救いの手をさしのべてはもらえなかった。それどころか、最後まで肩身の狭い思いをしなければならなかった。   梶川运転手は前妻に金を送っていた。そのために体力の限界まで働き、最後は大事故を起こしてしまった。ところがその前妻は、彼の死後も梶川家には全く连络を寄越さなかった。线香を上げにくるどころか、彼の死を知っているのかどうかも不明だった。   平介は後悔していることがある。前妻への仕送りの话を闻いた後、やはりその根岸典子という女性に连络すべきだったと思うのだ。せめて梶川幸広が死んでいることを知っているかどうかだけでもたしかめればよかったと悔いている。   平介は今回の札幌行きのついでに根岸典子という女性に会ってみることを考えた。会って、不可解だったことをはっきりさせたいと思った。   しかし事故から二年半が过ぎていた。今さらそんなことをしてどうなるというのだという気もした。たぶんどうにもならない。梶川征子は生き返らないし、逸美が幸せになるわけでもない。ただ平介が自己満足を得られるだけだ。   忘れるか、と思った时、例の懐中时计を思い出した。そこで引き出しを探り、引っ张り出してきたのだった。   出张を明日に控えた木曜日、平介は定时で会社を抜けさせてもらい、その足で荻洼に行った。そこにある一轩の时计屋に用があった。   「これはまた珍しい时计を持ってきたねえ」店主の松野浩三は苦笑しながら时计を见た。缓めた頬にはゴマ塩をふりかけたように无精髭が生えていた。   「値打ちもののはずなんですけどね」   「ああ、そう。平介さん、これどうしたの?」   「ある人から贳ったんです」   「买ったわけじゃないんだね」   「买ってないですよ。どうして?」   「いやあ、その……おや、盖が开かないな」浩三はルーペを使って时计を调べた。「金具が壊れてるみたいだな」   「できればそれも直してほしいんですけどね」と平介はいった。   松野浩三は直子の远縁にあたる人物だった。直子が就职のために长野から上京してきた时、いろいろと世话になったという话を闻いていた。直子の葬仪が东京で行われた时には、もちろん駆け付けてきた。皱だらけの顔を一层くしゃくしゃにして、あたりはばからず声をあげて泣いていたのを平介は覚えている。   浩三には子供がいなかった。荻洼駅から数分のところにあるこの小さな店舗兼住居で、年老いた妻と二人で暮らしていた。时计屋の看板を上げているが、今は眼镜の仕事のほうが多いらしい。それ以外に贵金属も扱う。しかも殆どがオーダーメイドである。ティファニーの指轮の写真を见せ、「これと同じものを作ってくれ」と注文すれば、きちんと応じてくれる。じつは平介と直子の结婚指轮も、この店で注文したのだった。   平介がここに懐中时计を持ってきたのは、その価値を知りたかったからだ、もしある程度高価なものであったなら、根岸典子に渡そうと思っていた。「调べてもらったところ、価値の高いものだとわかったので、自分が持っているわけにもいかないと思い、お持ちした」と説明できる。要するに彼は根岸典子に会いに行く理由が欲しかったのだ。   彼が一番纳得させたい相手は、ほかならぬ彼自身だった。   「おっ、ようやく外れたよ」作业台で壊れた盖に取り组んでいた浩三がいった。彼の手の中で、懐中时计の盖は见事に开いていた。   「値打ちものでしょう」陈列ケースの上に身を乗り出させるようにして平介は讯いた。   「うーん」浩三は首を倾げた。それから苦笑した。「それは何ともいえんなあ」   「どういう意味ですか。値段がつけられないということですか」   「値段かあ。値段をつけるとしたら、まあ三千円がいいところだね」   「えっ」   「昔よく出回った懐中时计だよ。しかも何度か修理してる。悪いけど、骨董的な価値はないねえ」   「そうなんですか……」   「だけど、别の価値はあるよ。これでなきゃだめだっていう人もいるかもしれない」   「どういうことですか?」   「おまけが付いてるんだよ、ほら」浩三は立ち上がり、盖を开けたまま懐中时计を平介の前に置いた。   平介は时计を手に取った。开けられた盖の里に小さな写真が贴ってあった。   五歳ぐらいの子供の写真だ。梶川逸美には似ていない。しかも男の子のようだった。   [#ここから7字下げ]   25   [#ここで字下げ终わり]   飞行机に乗るのなんて何年ぶりかなと思いながら平介は窓の下を眺めた。海が见えることを期待していたのだが、延々と白い云が続いているだけだった。おまけに座席が翼のそばなので、视界が半分以上遮られている。   「杉田さんは、明日以降はどうされるんですか」隣の若い川辺が讯いてきた。彼を挟んで通路侧の席に木岛が座っている。   「ちょっと寄りたいところがあるから、そこに寄ってみて、明後日の朝帰る予定なんだけどね。おたくたちは?」   「仆たちも明日は一日札幌见物をするつもりです。帰りの飞行机は明後日の夕方の便ということになっています」   「この程度の役得はなきゃね」木岛が横からいった。   千歳空港には迎えの车が来ていた。黒涂りのハイヤーだった。後部座席に三人で座っても、ゆったりしている。政治家になったみたいだと平介がいうと、あとの二人が笑った。助手席に座った、先方の担当者も苦笑していた。   北海道大学のそばにあるサービスルームで、平介たちは导入予定の计测器のテストを行った。顺调にいけば简単に终わるテストが、予期せぬトラブルでうまくいかないというのはこの种の仕事でよくあることで、案の定データ取りは手间取った。平介たちは次第に无口になったが、先方は少しでも顾客に机嫌を直してもらおうと思ったか、昼食には豪势なフルコース料理を用意した。无论そんなことで平介たちの気分が晴れるはずもない。川辺などは、「アルコールなしでフランス料理はきついよね」とぼやいていた。   午後六时を过ぎる顷には、何とか目的のデータは全部取り终えた。平介たちは札幌市内の寿司屋で夕食を驰走になり、大通公园の近くのクラブで接待を受けた。一仕事を终えてからだったので、この时の酒は格别だった。若いホステスがすぐ隣に座り、平介にあれこれと质问してきた。大きく开いた胸元とミニスカートから出た太股が気にかかり、彼はしばしば上の空になった。久しく味わったことのないときめきを感じた。   ホテルに帰ったのは十二时を过ぎてからだった。遅すぎるかなと思ったが、一応东京に电话をしてみた。すぐに直子が出た。まだ眠ってはいなかったようだ。   「こっちは大丈夫だよ。おばさんとおしゃべりしていたところ」直子の声は、はしゃいでいた。「ちょっと待ってね。代わるから」   电话に出た容子に、平介は礼をいった。当たり前のことだが、容子は今一绪にいる少女が自分の実の妹だということには気づいていなかった。ただ、こんなことをいった。   「藻奈美ちゃん、本当に直子によく似てきたわあ。しゃべり方やちょっとしたしぐさがそっくり。さっき肩を揉んでもらったんだけど、その揉み方まで同じなんだもの、びっくりしちゃった」   昔よく姉の肩を揉まされたという话を直子がしていたのを平介は思い出した。たぶん隣で直子は笑いをこらえているに违いない。   よろしくお愿いしますといって平介は电话を切った。   翌日、遅い朝食を食べた後でホテルをチェックアウトし、彼はタクシーに乗った。例の现金书留の控えに书いてあった住所を运転手に告げると、大体わかるという返事だった。「このあたりに红叶の奇丽なところはありますか」平介は讯いた。   初老の运転手は少し首を倾げた。   「近いのは藻岩山《もいわやま》だけど、まだ早いんじゃないかなあ。体育の日あたりが、いつも一番いいんですよね」   「じゃあせめて来周あたりに来ればよかったのかな」   「ああ、そうですね。来周なら、そろそろってところだったでしょうね」   平介が自分からタクシーの运転手に话しかけるのは珍しいことだった。特に红叶を见たかったわけでもなかった。紧张をほぐしたかっただけだ。   このあたりですよと运転手がいった场所で平介はタクシーを降りた。小さな商店の并ぶ町の中だった。彼は住居の表示を见ながら少し歩いた。やがて一轩の店の前に立った。   小さなラーメン屋だった。『熊吉』と书かれた看板が出ている。しかし店は闭まっていた。定休日の札がさがっている。ぴたりと闭じられたシャッターの上部に目をやると、『根岸』の表札が出ていた。   平介はシャッターを二、三度叩いてみた。しかし反応はなかった。店の二阶がどうやら居住用の部屋らしいが、その窓も闭じられたままだ。   彼はもう一度看板を见た。电话番号が小さく记してあった。昨日データ记録用に使ったノートを鞄から取り出し、その表纸の隅に电话番号を写した。   タクシーが通りかかったので、彼はそれに乗り、今夜泊まることになっているホテルの名をいった。その後でチェックインの时刻までは少し时间があることに気づいた。   「运転手さん、札幌の时计台っていうのは远いのかな?」   「时计台?」ルームミラーに映った运転手の目がパチパチと二度瞬きした。「いえ、すぐ近くですけど」   「じゃあそこに行ってください。少し时间を溃したいから」   「はあ……」若い运転手は颚を掻いた。「いいですけどね、时计台で时间をつぶすのは无理ですよ」   「えっ、そうなの?」   「闻いたことないですか。実物を见てがっかりする名所の一番手ですよ」   「大したことないとは闻いたけど……」   「まあ、见ればわかりますけどね」   タクシーは间もなく太い道路脇に止まった。なぜこんなところに止まったのだろうと思っていると、「あれです」と运転手が道の反対侧を指差した。   「あれか……」平介は苦笑した。たしかに写真などから描いていたイメージとは大违いだった。屋根に时计のついた、ただの白い洋风家屋といえた。   「もし时间が余ったら、旧道庁に行けばいいです。そこの道を左に真っ直ぐ歩いて行けば着きます。それでも时间が余ったら、そのままさらに真っ直ぐ进んでください。北大植物园がありますから」料金を受け取りながら运転手は教えてくれた。   このアドバイスは役に立った。时计台で十分つぶし、旧道庁で二十分つぶし、植物园で三十分つぶしてからタクシーに乗ってホテルへ行くと、ちょうどチェックインタイムだった。   部屋に入ると、すぐに受话器を取り、先程メモした番号にかけてみた。呼び出し音が三度鸣ってから、向こうの受话器が取り上げられた。   「はい、根岸ですけど」男の声がした。若い男のようだ。   「もしもし、あのう私、东京から来ました杉田という者ですが、根岸典子さんは御在宅でしょうか」   「母は今、外出しておりますが」相手の男はいった。根岸典子の息子らしい。   「あ、そうですか。ええと、何时顷お帰りになられるかわかりませんか」   「さあ、夕方ぐらいには帰ると思うんですけど……あの、どういった御用件でしょうか」男の声には警戒の色があった。杉田という名字に闻き覚えがなく、东京から来たという前置きも胡散臭く感じられたのだろう。   「じつは梶川幸広さんのことでちょっと」平介は正直にいった。   途端に相手が沈黙した。表情の変わる気配が电话线を伝わってきた。   「どんな用ですか」男は讯いた。声が数段低くなっていた。「あの人とは、今はもう何の関系もないんですけど」   「それは知っています。ただ、どうしても直接お会いして、お话ししたいことがあるんです。ええと、梶川さんがお亡くなりになったことは御存じですか」   相手はすぐには答えなかった。どう答えるべきか思案しているようだった。   「知っています」やがて相手はいった。「でも、あの人が死んだことも、うちとは无関系です」   「そう思いますか」   「……何がいいたいんです」   「とにかくお母さんに会いたいんです。お渡ししたいものもあります。夕方顷、お帰りになるということでしたね。ではその顷もう一度お电话します」   「待ってください」相手の男はいった。「あなたは今、どこにいらっしゃるんですか」   「札幌駅のそばのホテルです」ホテル名を平介はいった。   「わかりました。じゃあ、こちらから电话するようにします。ずっとホテルにいらっしゃいますか」   「ええ。电话をかけていただけるんでしたら、ずっと待ってます」平介は答えた。どうせ札幌见物は终わっていた。   「では母が帰りましたら、电话をするようにいいます。ええと、杉田さん、でしたっけ」   「そうです。杉田です」   「わかりました」そういうと根岸典子の息子は一方的に电话を切った。   平介はベッドで少し微睡《まどろ》んだ。意味不明の、ストーリーがでたらめな梦をいくつか见た。その彼を电话の音が目覚めさせた。   「杉田様ですね」ホテルマンと思われる男性の声が闻こえた。   「はい、そうですが」   「フロントにお客様が来ておられます。根岸様とおっしゃる方です。そのままお待ちください」   受话器が手渡される気配がある。根岸典子が直接やってきたと思い、平介はあわてた。   「もしもし、根岸です」ところが闻こえてきたのは、根岸典子の息子の声だった。   「ああ、さっきはどうも」と平介はいった。「お母さんは、お帰りになられましたか」   「そのことですけど、大事な话があるんです。ちょっと下にきていただけませんか」息子の口调は先程よりもさらに固くなっていた。   平介は受话器を握りしめた。相手の言叶の意味を考えた。   「根岸典子さんは、一绪には来ておられないのですね」彼は讯いた。   「はい。母は来ていません。仆一人です」   「そうですか……じゃあ、これからすぐに下りていきます。どこにいらっしゃいますか」   「フロントの前で待っています」   「わかりました」平介は受话器を戻し、バスルームに駆け込んだ。顔を洗って头をすっきりさせようと思った。   一阶に下りていき、フロントの周辺を见回した。チェックインしようとする客がカウンターの前に并んでいる。彼等から少し离れたところに一人の若者が立っていた。白のポロシャツにジーンズという出で立ちだった。背が高く、顔が细い。よく日焼けしているので、全体に一层缔まって见える。二十歳前後という感じがした。彼に违いないと平介は确信した。   若者はゆっくりと首を动かしていたが、平介のほうに目を向けると、そのまま静止した。あなたですか、という表情をした。   平介は彼に近づいていった。「根岸さん……ですか」   「そうです」と彼はいった。「はじめまして」   「あ、こちらこそはじめまして」平介は头を下げた。そして名刺を出した。名刺には予め自宅の住所と电话番号をボールペンで书き込んである。「杉田といいます」   若者は名刺に目を落とした。「あ……ビグッドに勤めておられるんですね」   「ええ、まあ」   「すみません。ちょっと待っていてください」   彼は大股でフロントカウンターへ行った。备え付けのメモに何か书き、戻ってきた。   「学生なので名刺がないんです」そういって纸を差し出した。   ラーメン店『熊吉』の住所と电话番号、そして根岸文也という名前が书かれていた。   そばにあったティーラウンジに入ることにした。席につき、平介はコーヒーを注文した。根岸文也も同じものを頼んだ。   「仕事で札幌に来ましてね、そのついでにお宅に连络したというわけです」平介は正直にいった。   「ビグッドではどういった仕事を? 研究ですか」   いやあ、と平介は大きく手を振った。   「现场です。ガソリンの喷射器を作っています。ECFIという部品なんですけどね」   「ECFI……电子制御式燃料喷射装置ですか」   淀みなく答えた若者の顔を平介は凝视した。「よく知っていますね」   「大学の自动车部に入っているものですから」   「ははあ、ええと大学はどちらですか」   「北星工大です」   「何年生?」   「三年です」   「なるほど」平介は颔いた。工学系大学の中では指折りだ。   コーヒーが运ばれてきた。二人はほぼ同时に一口目を饮んだ。   「ええとそれで、お母さんは?」平介は切り出した。   文也は唇を舐めてから口を开いた。   「じつはまだあなたのことを母には话していません。话すかどうかは、まず仆が用件を伺ってからと思いました」   「へえ……それはどうしてですか」   「あなたの用件というのが、あの人物に関する话らしいからです」   あの人物といった时の表情に、はっきりとした嫌悪の色が现れた。   「でも梶川幸広さんはあなたのお父さんでしょう? つまりお母さんの御主人だった人だ」   「昔の话です。今はそんなふうに思っていません。全くの赤の他人です」文也の頬は少し强张っていた。そのせいか目も少しつり上がって见えた。   平介はコーヒーカップに手を伸ばした。どう话を进めていくべきか考えた。多少予期していたことだが、彼は父亲に対していい印象を持ってはいないようだ。   「杉田さんは、あの人とはどういう関系なんですか」文也のほうから讯いてきた。   「それを説明するのがじつは难しいんですけどね」平介はコーヒーカップをテーブルに置いた。「梶川さんが亡くなったことは御存じだということでしたね。すると当然死因についても承知しておられるわけだ」   「スキーバス転落事故のことは、こっちの新闻などでも大きく扱われましたから」   「运転していたのがお父さんだということは、すぐにわかったのですか」   「同姓同名でしたし、あの人はこっちに住んでいた顷もバスの运転手でしたから、间违いないと思いました」   「そうですか。こちらでも运転手を」平介は颔いた。それから真っ直ぐに若者の目を见つめ、いった。「私はあの事故で妻を亡くした者です」   梶川文也の顔に惊きと狼狈が走った。一度うつむき、改めて顔を上げた。   「そうだったんですか。それはお気の毒なことでした。でも、さっきもいいましたように、あの人と仆たちとはもう何の関系もなくて――」   「いやいや」平介は笑いながら手を振った。「あなた方に恨み言をいう気は全くありません。そうじゃなくて、电话でもいいましたように、お渡ししたいものがあるんです」   彼は上着の内ポケットから例の懐中时计を出し、テーブルの上に置いた。そしてこの时计を手に入れるに至った长い経纬を、できるかぎりかいつまんで説明した。文也は黙って闻いていたが、梶川幸広が根岸典子に仕送りをしていたという话を平介がした时だけ、惊きの声をあげた。全く知らなかったようだ。   平介は懐中时计の盖を开け、中の写真を文也のほうに向けた。   「さっきあなたを见た时、すぐにわかりました。この写真の男の子はあなたですよね。梶川さんはずっとあなたのことを気にしていて、こうして写真を肌身离さず持っていたんですよ」   文也はしばらく时计に贴られた写真を见つめていた。   「事情はわかりました。远いところを、わざわざありがとうございました」   「いいえ、ではこれを」平介は时计を文也のほうに押した。   「でも」文也はいった。「これは受け取れません。受け取りたくありません」   「どうしてですか」   「仆たちにとってあの人は、もう忘れてしまいたい対象なんです。こんなものを贳っても、舍てるだけのことです。だったら受け取らないほうがいいと思います」   「かなり嫌っておられるみたいですね」   「正直なところ、憎んでいます」文也はきっぱりといった。「あの男は母とまだ幼かった仆を舍てて、突然若い女と逃げたんです。その後母がどれだけ苦労したかを知っているだけに、とても许す気にはなれません。今でこそ小さなラーメン屋を开けるまでになりましたけど、母は工事现场で働いたことだってあるんです。仆は高校を出たら就职するつもりでしたが、大学の费用ぐらいは何とかするといって、浪人までさせてくれたんです」   平介の口の中に苦いものが広がった。离婚にはそういう事情があったのかと合点した。しかし梶川幸広は、一绪に逃げた若い女とはどうなったのだろう。梶川征子のことではなさそうだ。   「でもお父さんとお母さんは正式に离婚しておられるわけですよね。ということは、お母さんのほうもある程度は纳得して判子を押されたんじゃないんですか」   「纳得なんかできるはずないでしょう。母の话では、全く知らない间に离婚届が出されていたそうです。そんなのは正式に诉えれば简単に无効にできたと思うんですけど、母はもう面倒になって谛めたらしいです。仆がもう少し大きければ、絶対にそんな泣き寝入りみたいなことはさせなかったんですけど」   闻いているのが辛い话だった。本当ならば、文也が梶川幸広を憎んでも无理がないと平介は思った。   「じゃああの仕送りは、せめてものお诧びの気持ちだったのかもしれませんね」   「仕送りの件は今日初めて闻きました。でも、だからといって许す気にはなれません。もっと大きな义务を、あの男は投げ出してしまったんですから」   「お母さんもそうですか」平介は讯いた。「やはり梶川さんを恨んでおられるのですか。それで梶川さんが亡くなったとわかった时も、葬仪にすら出席されなかったのですか」   この质问に文也は目を伏せた。何かを考えるように黙り込んだ後、顔を上げた。   「事故を知った时、母は葬仪に出ようとしました。别れたとはいえ一时期は夫妇として过ごしたこともあるのだから焼香ぐらいはしておきたい、とかいいましてね。もしかしたら仕送りのこともあったので、そういう気になったのかもしれません。でもそんな母を仆が止めたんです。马鹿なことをするなといって」   「马鹿なこと……かな」   文也の気持ちは平介にもよくわかった。だが、梶川幸広が彼等へ仕送りをするために自分自身だけでなく当时の妻子をどれだけ犠牲にしたかということも、この场で话しておきたい気がした。しかし结局黙っていた。根岸母子には関系のないことだった。それに梶川幸広が死んだ时点では、文也は仕送りのことを知らなかったのだ。おそらく母亲の典子が话さなかったのだろう。   「そういうことですから、これは受け取れません」文也はテーブルの上の懐中时计を平介のほうに押し戻した。   平介は时计を见て、それからまた文也を见た。   「お母さんと话をさせてもらえませんか」彼はいった。「少しだけでいいですから」   「お断りします。母をもう、あの男に関することには近づけたくないんです。今は昔のことをすっかり忘れて生活しているんですから、そっとしておいてほしいんです」   この口调から、文也は最初から母亲に会わせる気はなかったのだなと平介は理解した。   「そうですか」平介は吐息をついた。「そこまでおっしゃるのなら仕方がないですね」   「一つ讯いていいですか」   「はい」   「あなたはどうして、こんなことに一所悬命になられるんですか。梶川幸広は事故の张本人で、あなたはその被害者なのに」   平介は头を掻き、苦笑した。   「それが自分でもよくわからんのです。乗りかかった船という言叶があるでしょう? 要するに、あれです」   文也は理解しがたいという顔をしていた。彼に理解させるには、平介としては梶川母子との奇妙な関わりを细かく説明する必要があった。しかしそれをこの场でする意味はなかった。うまく説明する自信もなかった。   「もうその船からは降りたほうがいいですよ」文也はぽつりといった。   「どうやらそのようですね」   平介は懐中时计を手に取った。盖を闭めようとしたが、思い直して文也を见た。   「この写真だけでも受け取っていただけませんか。私が持っていても仕方のないものですし、人様の写真を舍てるというのは気分のいいものではありませんから」   文也は少し困った顔をした。平介の言い分も理解できたのかもしれない。   「わかりました。じゃあ写真は仆が処分します」と彼はいった。   平介は自分の名刺の角を使って、盖の里から写真を取り外した。写真は糊付けられていたわけではなく、盖の大きさに切ってはめ込んであったのだ。   丸く切られた写真を文也に渡した。   「梶川さんは一时だってあなたのことを忘れたことはなかったと思いますよ」   「そんなことは免罪符にはなりません」平介の言叶を断ち切るように、若者は一回鋭く首を振った。   [#ここから7字下げ]   26   [#ここで字下げ终わり]   根岸文也と别れた後、平介は部屋に戻り、ベッドで横になった。结局渡せなかった懐中时计の盖を、ぱちんぱちんと开けたり闭じたりした。浩三の修理によって、金具はすっかり直っていた。   头の中で、文也とのやりとりを何度も反刍した。彼にいうべきことはたくさんあるような気がした。もうあの若者に会うことはないだろうが、平介は自分の心の中にあるもやもやを何とか言叶にしたいと思った。   梶川幸広がどういうつもりで根岸典子に金を送っていたのか、结局わからなかった。文也の话を闻いたかぎりでは、まともな协议离婚といったものではなかったらしい。养育费や生活费のことで、梶川幸広と根岸典子の间で话し合いがもたれたというふうにも思えなかった。   赎罪《しょくざい》ということなのか、というふうに平介の考えは落ち着かざるをえない。かつて自分が舍てた女と子供のために金を送る。それは考えられないことではない。   だがそれならば梶川幸広にとって征子と逸美は何だったのか。残りの半生を送るにあたり、同居人として选んだ二人に过ぎなかったのか。平介は、特に梶川の逸美への思いが気になった。彼は彼女のことを何だと思っていたのだろう。単に一绪になった女の连れ子というだけのことだったのか。过去に舍てた実の息子と、现在面倒を见なければならない义理の娘に対し、どう自分の気持ちのバランスをとっていたのだろうか。   胸の中で烟のように漂っているものを、うまく言叶にすることはできなかった。平介は身体を起こし、头をくしゃくしゃと掻いた。   その时电话が鸣った。木岛からの电话だった。今夜このホテルに泊まるということは教えてあった。   これから食事をして薄野《すすきの》あたりで一杯饮むつもりだが一绪にどうか、という诱いの电话だった。木岛と川辺も、すぐ近くのホテルにいるようだ。   平介は手に持っていた懐中时计の盖をぱちんと闭じ、「付き合うよ」といった。   石狩锅がうまいという店で腹ごしらえをした後、川辺が知り合いから教わってきたというクラブを目指すことになった。   「迂阔にわけのわからない店に入ったら、ぼったくられるおそれがありますからね」歩きながら川辺はいった。   二人も今日は札幌を回ったということだった。平介が时计台のことをいうと、どちらも笑いだした。   「あれはひどいよねえ、写真で见ているだけのほうがずっといい」木岛がいった。   「テレビドラマのセットと同じですね。画面で见ている分には、さほど変でもないんですが、実物を见たらそのちゃちさに愕然とするといいますからね」   二人は、今日见物した中では大仓山が一番よかったといった。リフトでジャンプ台に上がったらしい。   そんな话をしながら薄野の町中を歩き回ったが、なかなか目的の店に辿り着けなかった。そのうちにどこをどう间违えたか、饮み屋などはない薄暗い通りに入ってしまった。   「あっ、やばいな」川辺が小声でいった。   その通りにはただならぬ気配が漂っていた。道端に胡散臭い男が何人も立っているのだ。彼等同士はグループではないらしく、お互いに一定の距离を置いている。   平介たちが通りの中央を歩いていくと、即座に一人の男が近づいてきた。白い薄手のブルゾンを着た男だった。   「出张?」と男は讯いてきた。谁も答えないでいると、「时间あるなら寄ってってよ」といった。「いい娘《こ》揃ってるよ。うちが一番いい。今なら好きなの选んでいいから」   木岛が黙って手を振った。それで男は离れていった。   だがその通りを通过するまでに、さらに二人の男につきまとわれた。どの男も口调が同じなのが平介には兴味深かった。   「ああいう诱い方をするところをみると、出张のついでに寄っていく人が多いんだろうね」木岛がいった。   「俺だって会社で冷やかされましたよ。おまえ、絶対にソープに行く気だろうって」そういって川辺も笑った。   なるほどあれはソープランドの客引きだったのかと平介は纳得し、この出张が决まった时に小坂がいっていたことを思い出した。   ようやく目的の店が见つかり、三人は入った。こぢんまりとした店だが、若いホステスが五人いた。平介は昨夜よりは几分リラックスしながらも、向かい侧に座った娘の超ミニスカートにどぎまぎしたりした。   场の盛り上げ役は川辺だった。六本木の话などをして女の子たちの兴味をひいている。いつもは真面目な技术者なのだが、平介は违う一面を见たような気がした。   「ねえ、杉田さんはお子さんいらっしゃるの?」隣のホステスが寻ねてきた。身体のラインがくっきりと出るワンピースを着ていた。   「いるよ」水割りを片手に彼は答えた。   「男の子? 女の子?」   「むすめ」   「おいくつ?」   「中学二年」   「じゃあ一番扱いが难しいね」彼女はにやにやした。   「やっぱりそうなのかな」   「そりゃもう。だって中学二年といったら十四歳ぐらいでしょ? 一番父亲とかが嫌いになる时期だもんね」   「えっ、そうなのか」   「うん。何ていうかね、そばにいるだけで头に来るって感じ」   すると别のホステスも、「あたしもそうだった」と口を挟んできた。「父亲のパンツとかが干してあるのを见るだけで、鸟肌が立っちゃうのよね。父亲が出たばっかりのトイレには絶対に入りたくないし、お风吕だって嫌だもんね」   ほかのホステスも会话に加わってきた。父亲の臭いが嫌い、下着姿でいる时の腹のたるみがおぞましい、父亲の歯ブラシを见ただけで吐き気がする――悪口の种は尽きない。   なぜそんなに嫌うんだという平介の质问に、「どうしてだか自分でもわからない」とホステスたちは答えた。とにかく生理的に受け入れられなくなるのだという。   「まあ二十歳まではそういう感じね。それ以後になると父亲も歳とってきちゃうから、なんとなくかわいそうになって、优しくしてやろうかって気にもなるのよね」隣のホステスがいった。   「切ないなあ」川辺が少し吕律《ろれつ》の怪しくなった口调でいった。「父亲なんかになっても、何もいいことがないみたいだなあ。俺やっぱ、结婚はやめとこうかな」   「何かいいことがあると思って父亲になるわけじゃないよ」木岛がいった。彼には二人の子供がいるという话だった。「ある日ふと気がついたら、自分のことを父亲と呼ぶ子供がいるわけだ。で、そうなったらもう後には引けない。がんばって父亲をするしかないんだよ。ねえ、杉田さん」   同意を求められ、「そうだな」と平介は暧昧に答えた。   「父亲になるのは简単なんだよ。だけど父亲であり続けるのは本当に大変。おとうちゃんは疲れているんだよ」どうやら木岛も少しアルコールが回ってきたようだ。   木岛と川辺は、もう一轩どこかに行くといった。二人ともかなり出来上がっているように平介には见えたが、だからこそこのまま帰りたくないのだろう。店の前で彼等と别れ、平介は一人歩きだした。   ところが间もなく道に迷ってしまった。札幌の道路は碁盘の目のようになっているからわかりやすいはずなのに、どちらに向いて歩いているのかわからなくなった。   でたらめに歩いているうちに见たことのある通りに出た。そこは例の客引きが屯《たむろ》する通りだった。   平介が一歩足を踏み入れると、早速一人の男が寄ってきた。小さく手を振って拒絶の态度を示しながら歩く。三人だった时に比べると少し不安だ。   小柄な男がそばに来た。平介の耳元で嗫いた。「いい娘《こ》いるよ。絶対後悔しないから」   いや、といって平介は手を振った。   「ちょっと寄っていきなよ。たまには息抜かなきゃあ、お父さん」男はいった。   この「お父さん」という言叶が平介の心に引っかかった。彼は一瞬足を止め、客引きの顔を见てしまった。   脉があると思ったようだ。客引きは平介の横にぴったりと身体を寄せた。   「二?五でいいよ。すっごくいい娘いるから」   「いや、でも俺は」   「せっかくこんなところに来たんだから楽しまなきゃあ。お父さん」男は平介の背中をぽんと叩いた。   何となくという感じで平介は男と共に歩きだしていた。早く断らねばと思いながら、言叶が出てこない。そのうちに男は二万五千円を要求してきた。   そういう店には行かないんだ――この台词が头に浮かんだ。だが声に出せなかった。别の思いが、彼の口を闭じさせたのだ。   たまにはいいじゃないか。   「お父さん」から解放されたっていいじゃないか。   彼は财布を取り出していた。   けばけばしい看板が建物の前に立っていた。地下への阶段を男は下りていった。平介も男に続いた。   阶段を下りるとドアがあった。男がそれを开けた。すぐ正面に窓口のようなものがある。男はそこに声をかけた。窓口の横のドアが开き、中から太った中年女が出てきた。   二人は何かこそこそとやりとりをしていた。その间平介は周囲に目をやった。薄暗い廊下が右に延びている。物音はしない。   やがて客引きの男が出ていった。中年女が平介に讯いた。「お客さん、ぁ∪イレは?」   「えっ?」   「ぁ∪イレは? 行きたかったら、今のうちに行っておいてください」   「いや、いいよ」   「本当ね。本当に大丈夫ね」やけに强く念を押す。平介の中に、これから特殊なことをするのだという思いが沸き上がってきた。   まず连れて行かれたのは狭い待合室だった。ほかに人がいたら嫌だと思ったが、谁もいなかった。壁に大きなヌード写真が贴ってある。   すぐに中年女が戻ってきた。こちらにどうぞという。ドアの并んだ廊下を歩く。そのうちの一つの前で止まり、ドアを开けた。赤いバスローブを着た若い女が、膝をついて待っていた。长い髪を後ろでまとめ、ぴっちりと固めてある。猫のような顔をしていた。   平介が中に入ると、後ろでドアが闭じられた。若い女はぴょんと立ち上がり、彼の後ろに回った。上着を脱がせてくれる。   「お客さん、こっちの人じゃないでしょ」上着をハンガーにかけながら女はいった。   「うん。东京から来たんだ。よくわかったね」   「だってこの上着、妙に分厚いもん。北海道だから寒いと思ったんでしょ」   まさにその通りだった。じつはホテルにある鞄の中にはセーターも入っている。   「鋭いなあ」   「北の果てにあるからって、北极とは违うんだよ。服、脱がせてほしい?」   「あ、いや、自分で脱ぐよ」   部屋に入ってすぐのところにベッドが置いてあり、その奥が広い浴室になっていた。その间に壁も何もない。平介がのろのろと服を脱いでいる间に、女は风吕の汤加减を见ていた。いつの间にか全裸になっている。细い身体だった。   促されるまま汤船に浸かった。女はスポンジを使って石鹸を泡立て始めた。膨らみの小さな胸が见え隠れする。やや浅黒いが、若々しい肌は滑らかそうだ。   女の裸を直に见るのは何年ぶりだろうと思った。もちろん今の直子の裸は别だ。かつての直子の裸を见たのが、事故の前だから二年半前。   この间俺は男じゃなかったんだと思った。俺は一体何をしてきたのだろう。   「こういうところ、はじめてなんだ」平介はいった。   「あ、そう。道にいるおじさんに连れてきてもらったの」   「うん」   「じゃあ、二?五くらい払ったんだ」   「そう。二万五千円」   女はにやりと笑った。「そのうちの九千円はおじさんの取り分だよ」   「えっ、そうなのか」   「今度からは直接来て、エリカって指名して。だったら一万六千円で済むから」   「ふうん」平介は颔きながら、なぜ客引きの手数料が九千円という半端な额なのだろうと思った。   女に身体を洗われ、ビーチマットに横たわった。全身にローションを涂った女が、身体をこすりあわせてくる。股间が平介の目の前に来た时があった。女性器を见るのも久しぶりだった。一瞬軽い目眩を覚えた。そのくせ一方では、ああこういう形をしていたっけと冷めた头で観察している。   「あんまり元気がないね」   「あ、ごめん」   「お酒饮んでるみたいだね」   「うん、少し」   「じゃ、ベッドに行こう」   ベッドの横は镜张りになっていた。横たわると自分の裸が见え、気耻ずかしくなった。   枕元に小さな目覚まし时计が置いてある。あれで时间を计っているのだなと察した。あとどれだけ时间が残っているのだろう。そんなことを考えると平介は急に焦ってきた。   たぶんその焦りがよくなかったのだろう。エリカという女がどんなにサービスをしても、彼の男根は膨らんでこなかった。「お酒饮んでる人にはこれが一番」といって、彼女は冷たく濡らしたタァ‰を彼の睾丸に当てたが、あまり効果はなかった。   「お客さん、どうしちゃったのお」呆れたように女はいった。   「どうも、だめみたいだな」   「溜まってるから来たんじゃないの」   「溜まってるよ」二年半分も、という台词は饮み込んだ。   「どうするの。もうあんまり时间ないよ」   「いや、もういいよ。すまん。もういいから」平介は起き上がった。ベッドの縁に腰かけた。「服、取ってくれないか」   「ほんとにいいの?」   「うん」   エリカという女は、ふてくされた顔で服を彼の横に置いた。彼はそれを一枚ずつ、ゆっくりと身に着けていった。   「奥さんいるの?」女が寻ねてきた。   いないと答えようとし、思い直した。いい歳をして独り身でこんなところへ来て、しかも役に立たないというのでは格好が悪すぎると思った。   「いるよ」と平介は答えた。   「だったら」女の唇が嘲笑するように歪んだ。「奥さんとだけしてればいいよ」   屈辱で顔が赤くなりそうだった。女の頬を引っぱたきたくなった。だがもちろんそんなことはできない。「そうだな」と低く呟いた。   帰る时になって、また例の中年女が现れた。来た时には乗らなかったエレベータの前まで案内された。「一阶で降りれば、入った时とは反対侧の通りに出ますから」と中年女はいった。店に入る时よりも、出る时に顔を见られるほうが耻ずかしいという客の心理を考えた工夫らしい。   平介は、いわれたように一阶で降りた。出たところは、风俗店の気配など全くない寂しい通りだった。道路脇に置かれたゴミ箱を野良猫が渔っている。   街灯が少なく、今夜は月も出ていなかった。この暗さがせめてもの救いだった。彼はゆっくりと歩きだした。   俺はこれからどうやって生きていけばいいんだろうと思った。父亲であって父亲でない。夫であって夫でない。しかも勃起すらしない。つまり男であって男でない。   情けなさに心が震えた。   [#ここから7字下げ]   27   [#ここで字下げ终わり]   直子の口からその宣言がなされたのは、元日の朝のことだった。卓袱台の上には彼女の手作りの料理が并んでいた。あけましておめでとうございます、と言叶を交わし、屠苏《とそ》代わりに日本酒を酌み交わした。あの中学合格の日以来、彼女はそこそこ饮めるようになっていた。   テレビには正月番组が流れていた。売れっ子のタレントたちが正月らしい衣装を着て、ゲームをしたり、歌ったりしていた。お笑い芸人は罚ゲームをやらされ、スポーツ选手はクイズに挑んでいた。今日だけは难しいことは考えずに过ごそうという空気が、日本中を覆っているようだった。平介も直子からその话を闻かされるまでは、その空気にどっぷりと浸っていた。   「高校受験?」平介は闻き直した。テレビを见ている最中だったので、この时彼の顔には、まだ笑いが残っていた。   「そう」直子は背中を伸ばし、颚を引いた。「高校を受験させてほしいの。来年の春」   「ちょっと待てよ。今の学校に行ってれば、余程ひどい成绩をとらないかぎり、そのまま高校にだって上がれるんだろう。どうして受験なんかする必要があるんだ」   「ほかの高校に行きたいから」   「ほかの高校? 今の学校じゃ不満なのか」   「不満とかそういうんじゃなくて、目的に合わないの」   「目的って?」   「将来の进路といったほうがいいかな」   「何か进みたい道があるのか」   「うん」   「どういう道だ?」平介は讯きながらテレビを消した。   直子は、はっきりと答えた。「医学部よ」   テレビの音が消えた直後だったから、直子の声はやけに大きく响いた。   平介は彼女の顔をしげしげと眺めた。彼女も真っ直ぐに见つめ返してきた。   「医学部って、医者になりたいのか」   「それはまだわからない。でもとにかく医学を勉强したいのよ。で、残念ながらうちの上の大学には医学部がないのよ」   「医学部かあ」平介は自分の頬をこすった。ぴんとこなかった。医学部という言叶自体、彼にとっては现実感が乏しかった。「なんでまたそんなふうに思ったんだ」   「自分が本当にしたいことは何か、ずっと考えてたのよ。よくわからなかったから、じゃあどういうことに兴味があるか考えてみたの。すると意外に简単に答えが出た。あたしはあたし自身のことに兴味があったのよ。一体どうしてこんな不思议なことが起きたのか。生きているとはどういうことか。意识と肉体って何だろう。あたしが知りたいことは、そういうことなの。となると、この欲求を充たすには医学を勉强するしかないってことになったわけ」   「ふうん、意识と肉体……か」   やはり彼女は彼女なりに、自分の置かれている不思议な状况のことを常に考えているのだなと再认识した。それが兴味を持てる最大の事柄だというのも理解はできた。   平介は腕组みをした。考え込むポーズをとったが、具体的に何かを思案しているわけではなかった。ただ彼は途方に暮れていた。   「でもそれは大学の话だろ。高校は今のまま上がってもいいんじゃないのか」   「それがそうもいかないのよ」   直子の言い分はこうだった。现在通っている学校はたしかにレベルは高いが、さほど努力しなくても大学まで上がれることが约束されているので、生徒たちにあまり紧张感がない。その倾向は高校に行けば、さらに拍车がかかるだろう。それでは自分一人が医学部受験を目指してがんばろうと思っても、周りの环境に押し流されてしまうおそれがある。   「でもそれは本人次第じゃないのかなあ。やる気さえあれば、がんばれると思うけどなあ」平介はあまり自信なくいった。彼には大学受験の経験がなかった。中学から高等専门学校に进んだからだ。   「じつはもう一つあるの」   「もう一つ?」   「共学の高校に行きたいのよ」   平介は絶句した。少なからずショックを受けていた。だがじつは予想していなくもない话だった。高校受験したいと彼女がいった时から、何となくこのことが头にあったのだ。だからこそ否定的な意见を述べていたともいえる。   直子が语る共学の学校に行きたい理由というのも、説得力のあるものだった。要するに医学部を目指す受験生の大半は男子なのだから、彼等の存在を身近に意识していたほうが勉强にもやる気が出るし、自分の位置を正确に把握できるというのだった。   それはそうかもしれないなと平介も纳得せざるをえなかった。どんなことでも人と竞争する以上、ライバルがそばにいたほうがいいに决まっている。   だが彼の心に淀《よど》んでいるこだわりは消えない。直子を年顷の男子たちと同じ空间に置くということに、いいようのない抵抗を感じてしまう。   本当に勉强のためだけに共学を望むのか――そう问いたい気持ちがある。若い男と游びたいから、适当に理由をこじつけただけじゃないのか。藻奈美の身体を借りて、もう一度青春を楽しもうと思っているんじゃないのか。   しかしそんな思いを口には出せなかった。邪推だといわれれば何もいい返せない。彼女が纯粋に向学心から希望を述べているのだとしたら、共学イコール异性関系と短络的に结びつけてしまう平介の発想の贫困さを軽蔑するかもしれなかった。   直子から軽蔑されること、それは彼が最も恐れることだった。   「わかったよ。じゃあ、また一年间勉强渍けだな」そういって平介は悠然と盃に日本酒を注いだ。理解ある父亲、理解ある夫を演じた。   「わがままいってごめんなさいね。でも、あたしが医学部を目指すぐらいの余裕は、今のうちにはあると思うから」直子は远虑がちにいった。   彼女の言叶の意味はすぐにわかった。例の补偿金のことをいっているのだ。あの金は全く手をつけず、いくつかに分けて银行に预けてある。どのように使うのが最も有効で、死んだ藻奈美の意识と直子の肉体の供养になるかじっくり考えようと、かつて二人で话し合った。その答えは结局出ないままだったが、直子はこれ以上はないというぐらい适切な使い道を思いついたといえた。   「藻奈美もきっと賛成してくれるよ」彼は盃の酒を一息で饮んだ。   これまでの直子の行动から予想されたことだが、高校の受験勉强についても彼女は全く手を抜かなかった。今までは土曜や日曜は休养日にあてていたのだが、それも殆どなくなった。友达が家に游びに来るということもなくなった。彼女によれば、「受験するといったら、谁も游びには诱ってくれなくなった」らしい。でもそのほうがいちいち断らなくていいから気が楽だとも付け加えた。   「赘沢はしばらくお预け」といって、小説は买わなくなった。その代わりに大量の参考书や问题集が彼女の本棚を占拠した。   唯一の娯楽は音楽だった。レッド?ツェッペリンを闻いていると、なぜか数学の问题がよく解けるというようなことをいっていた。それが英语だとモーツァルトがよくて、社会だとカシァ≮ア、国语はクイーンで理科は松任谷由実が最适だという。おかげで彼女の部屋から流れてくる音楽によって、今何の勉强をしているか、平介にもわかるのだった。   楽な道があるのにわざわざ苦しい道を选び、楽しい时期を犠牲にして勉强する――こういう姿势と努力が报われないはずがない。翌年の春、彼女は见事志望校に合格した。この时も平介は、彼女と一绪に発表を见に行った。   合格者一覧と书かれた纸に自分の受験番号を発见した直子は、中学に合格した时よりも嬉しそうな顔をした。   [#ここから7字下げ]   28   [#ここで字下げ终わり]   久しぶりにインジェクタ工场に足を踏み入れた。空调が利いているのは人间のためではなく、机械のためだ。ここには精密机器がたくさん并んでいる。   平介の姿を见つけた拓朗が、コンベア上の手を休めずに会釈してきた。相変わらず帽子をあみだにかぶっている。安全眼镜も支给品ではなく、自分でどこかの店から调达してきた伊达眼镜だ。   「何しに来たの? 视察?」拓朗が声をかけてきた。   平介は笑って答える。「まあそんなところだ。新婚ぼけの拓朗がさぼってるんじゃないかと思ってな」   「ちぇっ、新婚新婚ってうるせえんだからな、まったく」最近は冷やかされっぱなしなのか、拓朗は顔をしかめて舌を鸣らした。   前から中尾达夫が歩いてきた。平介を见て、眼镜の奥の目を丸くした。   「あれ、系长。何かあったの?」   「いや、别に何もないんだ。最近あまりこっちに来てなかったから、ちょっと寄ってみようと思ってさ」   「ふうん……じゃあコーヒーでも饮む?」中尾は纸コップを持つしぐさをした。   「そうだな」   自动贩売机のコーヒーを买い、休憩所で腰を下ろした。窓の外はすっかり暗い。すでに残业时间に入っている。平介はタイムカードを押してあった。   「平さん、现场に戻りたいんじゃないの」中尾がいった。彼の帽子の锷《つば》の色は以前は赤色だったが、今は绀色になっていた。その色の帽子は、かつて平介がかぶっていた。つまり班长であることの印なのだ。   「そんなことはないけどさ」平介はコーヒーを饮んだ。相変わらずうまくないインスタントだ。しかし休憩时间にここでこうして仲间と饮むのが彼は好きだった。   「系长の仕事はどう? もう驯れたかい」   「ああ、别にどうってことないよ」   四月に部内で大きな异动があった。课がいくつかの系に分かれ、その上で再编成が行われたのだ。その际、平介が系长に昇格した。突然の话だった。   仕事の内容は大きく変わった。これまで课长の小坂がしていたことを、平介がするわけだ。小坂はいくつかの系を全体的に见る立场になった。   今までのように、上から指示された分のモノをいかに间违いなく作るかということだけを考えていればいい、というわけにはいかなくなった。复数の班の状况を把握し、より効率的に机能するよう管理するのが彼の仕事になった。トラブルが発生しても、直接その解决に乗り出すようなことはしない。その内容を理解した上で、复旧の见通しを立て、日程を调节し、上に报告するだけだ。   新しいラインを立ち上げるための现场サイドでの様々な打ち合わせも、平介の主な仕事の一つだった。连日彼の机には、议事録のコピーが届けられる。彼自身が议事録を书くこともある。   下から报告を受け、上に伝える。他部署と打ち合わせをし、その内容をまたどこかに连络する。毎日毎日、彼の目の前を书类がどんどん通り过ぎていった。それはかつて生産ラインにいた顷、コンベアの上を制品や部品が通り过ぎていったのとは意味が全く违っていた。书类とは情报である。情报には実体がない。それだけに扱いは制品や部品よりもはるかに难しい。そのくせ仕事をしているという満足感が得にくかった。   「长く现场をやってると、下手に出世なんかしたくないって気になるよねえ」中尾がいった。「出世しても、せいぜい班长だ。それより上になると、残业手当はなくなっちゃうし、仕事はがらりと変わるし、いいことなんか何もなさそうだもんな」   「それはいえるよ」平介は正直にいった。   「でもそれは仕方ないことなんだろうな」中尾は纸コップの中を见つめた。「会社ってのは人生ゲームだよな。会社にいて出世するってのは、人间が歳をとるってのと同じことだと思うよ。出世したくないってのは、歳をとりたくないっていうことなんだ」   「そうなのかな」   「谁だっていつまでも子供でいたいわけだよ。马鹿だってしていたい。だけどそれを周りが认めなくなるんだな。あんたそろそろお父さんなんだからしっかりしなさいとか、もうおじいちゃんなんだから落ち着きなさいってことになっちゃう。违うよ俺はただの一人の男だよなんていっても、许してくれない。子供ができたら父亲だし、孙が生まれりゃじいさんなんだ。その事実からは逃げられないんだよな。だったら、自分はどんな父亲になれるか、どんなじいさんになれるかを考えるしかないんじゃないか」   俺がこんなことをいうのは生意気だけどさ、と中尾は付け加えた。   「达さん、いつもそんなことを考えてんのか」   「まさか。思いつきだよ。长男として一言」   「长男?」   「そう。班长は长男。系长は父亲。课长はじいさん。それより上はなんかよくわからんから仏様だな」そういって中尾は空になった纸コップをゴミ箱に投げ込んだ。   家の前に着いた时には七时近くになっていた。だが明かりは消えている。平介は眉间が寄りそうになるのを自覚しながら玄関の键をあけた。屋内の空気は湿っぽく淀んでいる。靴を脱いで上がると、すぐに和室のエアコンを动かした。   スウェットとTシャツに着替え、テレビのナイター中継を见始めた。巨人とヤクルトの试合だ。いきなりヤクルトの选手がホームランを打った。平介は卓袱台の縁を叩いた。   だが试合内容が头に入っていたのはここまでだった。その後彼はテレビ画面よりも、壁にかけられた时计を见ていることのほうが多くなった。   七时半を回った。まだ直子は帰らない。何をしているんだ――。   目标だった高校に见事合格し、春から直子は高校生としての生活を始めている。だが一つだけ、平介が予想していなかったことがある。それは直子がテニス部に入ったことだ。これからは医学部を目指すのだから、当然クラブ活动などはしないものと思っていた。   ところがテニス部の练习で、このところ毎日帰りが遅い。八时を回ることもある。じつは今日平介が定时後にインジェクタ工场に行ったのには、あまり早く帰宅して、直子が帰ってくるのをいらいらしながら待ちたくないという理由もあった。   また时计を见る。七时五十五分。贫乏揺すりを始めた。   直子はテニス部の话をあまりしない。だからどういう部员がいるのか、どんな练习をしているのか、平介は殆ど知らない。わかっているのは、かなり多くの部员がいるらしいということだけだ。一度名簿をワープロで清书しなければならないからといって、何十人もの名前を书いたレポート用纸を持って帰ってきたことがあるのだ。その时平介は、半数以上が男子だということも确认していた。   テニスウェアを着て、ラケットを振る直子の姿を思い浮かべた。あの细く长い脚を、若い男たちの目にさらしていると思うと気が気でなかった。彼女の身体は、つまり藻奈美の身体は、最近になって急激に女っぽくなってきたようだった。   八时ちょうどに玄関のドアの开く音がした。ただいま、と直子の声。   平介は立ち上がり、部屋の入り口で彼女を待ちかまえた。   肩から大きなバッグを提げ、手にテニスラケットを抱えた直子が、玄関から歩いてきた。ラケットを持っていないほうの手にはスーパーの袋を提げていた。「あれ、お父さん何してるの、こんなところで」   「ずいぶん遅いな」平介はいった。不机嫌さを隠さなかった。   「えっ、そうかな」直子は廊下にバッグとラケットを置き、スーパーの袋だけを持って和室に入った。畳の上に脚を投げ出して座り、太股や胀ら胫を揉み始めた。「ああ疲れた。今日はきつかったなあ。ごめん、十分だけ待ってね。そうしたら晩ご饭の支度を始めるから」   日焼けした素足が平介の目には眩しかった。目をそらしながら彼は彼女の横に座った。   「もう八时だぞ、どう思ってるんだ」   「えっ? でも前は晩ご饭といえば九时过ぎだったよ。お父さん、帰ってくるのが遅かったから」   「饭のことはどうでもいい。高校生がこんな时间に帰ってくるのは変じゃないかといってるんだ」   「だって练习があるんだもん。一年生だから後片づけだってしなきゃいけないし、その後でスーパーに寄って买い物してくるから、どうしてもこれぐらいになっちゃうのよ」   「だけど毎日こんな时间になるってのはおかしすぎるぞ。一体どういうクラブなんだ、そこは」   「别に。ふつうのクラブよ」直子は立ち上がり、スーパーの袋を持って台所へ行った。流し台で手を洗った後、锅に水を入れ、ガスレンジにかけた。   「医学部はどうなったんだ」平介は彼女の背中に向かっていった。   「どうなったって?」   「受けるんじゃないのか。そのために今の高校に入ったんじゃないのか」   「受けるよ、もちろん」直子は、まな板の上で鱼を调理し始めた。   「そんなことしてて、医学部なんか受かるもんか」吐き舍てるように平介はいった。   直子の手が止まった。くるりと身体の向きを変え、调理台を背にして立った。右手に包丁が握られていた。   「あのね、受験には知力だけでなく体力も大切なのよ。あたしみたいに男子と竞わなきゃならない场合は、特にそうなの。それにお父さんは知らないだろうけど、うちの高校では、クラブに入っていた人のほうが入ってなかった人より、现役で志望大学に合格する率が高いの。なぜだかわかる?」   わからないので平介は黙っていた。   直子は包丁を振りながら続けた。「集中力が违うのよ。クラブに入っていない人のほうが受験准备を始めるのは早いんだけど、时间があるという安心感から、途中でだらけちゃうことが多いの。その点クラブをしていた人は、遅れをとったという自覚があるから、受験当日まで息を抜くということをしないわけ。スタートからゴールまで突っ走っちゃう。もちろんそれだけの体力もある。结果的に、効率よく勉强していたのはクラブ组ということになるのよ」   「そんなにうまくいくかな」   「少なくとも、クラブをすることは受験の妨げになるなんていう话には何の根拠もないってことはいえるでしょ」直子はまな板のほうに向き直り、调理を再开した。   その後ろ姿は、若い顷の直子本人のものにそっくりだった。包丁を使う时、少し猫背気味になる。そして右肩がわずかに上がる。   「言い分だけ闻いていると、まるで受験のためにテニスをしているみたいだな」   「受験のためだけとはいわないけど、そういうことも考えた上で入部したのよ」   「本当は、もっとほかの目的のほうが大きかったんじゃないのか」   「ほかの目的って?」   「男子部员が多いんだろう。そういう连中にちやほやされたくて入ったんじゃないのか」   再び彼女の手が止まった。ガスレンジの火を缓めてから平介のほうを振り向いた。   「あきれた。そんなことを考えてたの? 马鹿みたい」   「何が马鹿だ。男と玉游びをしてるのは事実だろうが」   「いっておくけどね、うちの先辈はすごく厳しいの。女の子だからって容赦してくれないわけ。たしかにお父さんのいうような理由で入ってきた子もいたわよ。でもそんな子は、练习が厳しいからって、とっくの昔にやめてるの。大学のテニス同好会と一绪にしないで。うちはれっきとした运动部なんだから」   「运动部だろうが何だろうが、男が若い女に対して下心を持たないはずないだろ。チャンスがあれば何とかしてやろうと思ってるに决まってるんだ」   「信じられない。よくそんなこと思いつくわね」直子は首をひと振りすると、削り节の入った袋に手を突っ込んで鹫掴みし、汤の沸いた锅に放り込んでいった。その手つきに怒りが込められていた。   「若い男というのは、女を见たらあのことしか考えてないんだ。わかってるのか」   だがこの平介の言叶に彼女は返事をしなかった。答える気もしない、と背中が告げているようだった。   彼はそばにあった新闻を広げた。地価依然上昇、という见出しが出ている。だがその记事を読んではいなかった。   自己嫌悪が胸中に広がっていた。彼は口でいうほど直子に腹を立てているわけではなかった。いや、怒りの感情は殆どないといってよかった。むしろ彼女の言い分のほうが圧倒的に正しいことも理解している。   帰りが遅くなっている主たる原因が、クラブではなく、じつはその後の买い物にあることもわかっていた。また今の状态でクラブを続けるには、强靭な精神力が必要だということも承知していた。彼女はふつうの高校生のように、帰宅後疲れた身体をベッドに投げ出すわけにはいかない。谁かが夕食を作ってくれるわけでもない。泥のように疲れていても、彼女は主妇业から逃れられないのだ。それでもクラブを辞めないのは、それが今自分のすべきことだと思っているからだろう。信念を持っているからだろう。   そこまでわかっていながら、彼女を责めるようなことをいってしまう。それはなぜなのか。   俺はたぶん嫉妬しているのだと平介は思った。若さを手に入れた直子に嫉妬している。そんな彼女と青春を楽しめる若い男たちに嫉妬している。同时に、彼女に対して恋爱感情や肉欲を抱けない自分の立场を呪っている。   この夜の食事は、直子と结婚して以来最悪の晩餐となった。どちらも一言も口をきかず、ただ黙々と箸を动かした。かつて何度か夫妇喧哗をした时と决定的に违っていたのは、気まずさの底にあるのが怒りではなく悲しみだという点だった。平介は腹を立ててはいなかった。直子と自分との间にある、未来永劫埋まることのない沟の存在を认识し、たまらなく悲しくなっていた。そして同様の思いを彼女も抱いていることは、身体から発せられる雰囲気でわかった。皮肉なことに、こんな时だけ夫妇特有の以心伝心というものが働くのだった。   [#ここから7字下げ]   29   [#ここで字下げ终わり]   夏休みに入ってからも、直子はテニスの练习のために学校へ行った。しかし练习时间は夕方までなので、平介が帰宅した时に彼女がまだ帰っていないということは殆どなかった。たまにあってもそれは、夕食のおかずで买い忘れたものがあったので近所のスーパーまで出かけていた、というぐらいのものだった。また土曜日と日曜日は练习が休みなので、彼を家に一人にしておかないで済んでいた。   平介としては、自分が家にいる时には常に直子がそばにいるのだから、不満が生じるはずがない。洗濯机の横の笼に、毎日のようにテニスウェアが放り込まれていることや、彼女の顔と手足が日に日にチョコレートのように黒くなっていくことは多少気になったが、敢えて自分からテニスのことを话题にするのは避けていた。彼女からクラブのことを闻けば、当然男子部员たちの存在を思い出すことになる。そうすると自分がどうしようもなく不机嫌になってしまうことを彼は知っていた。不机嫌になり、直子にきっと何かいうだろう。その结果、またしても二人の间には、いいようのない重たい空気が流れるに违いなかった。いったんそうなってしまうと、今度ふつうに话ができるようになるまで数日を要することを、彼は前回の経験でわかっていた。   気を遣っているのは、直子のほうも同様のようだった。决してクラブのことを话题にしないし、テレビで中継されるテニスの试合なども、以前はよく见ていたのだが、平介と口论して以来全く见なくなった。テニス部の练习日程表が卓袱台に置きっぱなしになっているということも、ラケットが茶の间に放り出してあるということもなくなった。   さらに二人にとって幸いなことがあった。八月半ばには平介の会社の盆休みがあるが、直子によると、ちょうどその间はテニス部の练习も休みということだったのだ。   久しぶりに长野に行ってみないかと平介は提案してみた。长野とは直子の実家を指している。あの事故以来、二人は行っていなかった。事故の一年後に、慰霊のため现场まで大黒交通のバスで行ったことはあるが、あの时も直子の実家には寄らなかったのだ。   中学受験や高校受験があったので勉强が忙しくて行けなかった、というのも一つの理由だ。しかし一番大きな理由は、直子が自分の父亲と会うのを怖がったことだ。彼は藻奈美の中身が直子だということを知らない。当然彼女のことを藻奈美として扱うだろう。孙の姿を见て娘のことを思いだし、涙ぐむかもしれなかった。无论それでも直子は、自分がすぐ目の前にいることを彼に话すわけにはいかない。そんなことをすれば、年老いた父亲を収拾のつかないパニックに陥れてしまうことになるからだ。だが彼に対していつまでも黙り続けていることに耐えられるかどうか自信がない、と彼女はいった。   以前平介が出张で札幌に行かねばならなかった时、実家から姉の容子に来てもらったが、あの时には何の问题もなかった。直子は姉を骗すことに快感さえ覚えていたようなのだ。しかし父亲に対してそういう気持ちになれるかどうかは全くわからない、というのが彼女の言い分だった。   いつまでもそんなことをいっているわけにはいかないんじゃないか、と平介はいった。このまま永久に実家との交流を絶つわけにはいかないのだ。   直子はずいぶん长い间考え込んでいたが、ある夜夕食を食べながらいった。わかった、お盆休みには长野に行きましょう、と。   夏に直子の実家に行くのは约十年ぶりのことだった。闻きしに胜る渋滞に巻き込まれ、くたくたになりながら到着した。早朝に出発したのに、着いたのは深夜と表现してもいいような时间帯だった。それでも実家の人々は、夕食を食べずに待っていてくれた。   直子の父の三郎は、平介が前に会った时より顔も身体も小さくなっていた。皱だらけの痩せた喉は、毛をむしられた鶏を连想させた。それでも三郎は笑いで顔をくしゃくしゃにしていた。藻奈美と再会できたことがうれしくて仕方がないようだった。   「いやあ、もうすっかり娘さんという感じだなあ。背なんか、そんなに大きくなっちゃったかあ。おじいちゃんより大きいんじゃないか。高校生かね。そうかそうか」   孙をしげしげと眺めながら、三郎は喜びと惊きと懐かしさを表す言叶をとめどなく発した。彼が藻奈美の姿を通して何を懐かしんでいるかは、周りにいる者すべてがわかっているようだった。それでも谁もそのことを口にはしなかった。   直子がどういう反応を示すか、平介は内心不安だった。突然泣き出すことまで想定し、その时にはどう取り缮うかまで考えてあった。だが幸いそのようなことはなく、彼女は见事に祖父と再会した孙の役を演じきった。途中平介のほうをちらりと见て、谁にも気づかれない程度のかすかな目の动きで、大丈夫よ、と合図を送ってくるほどの余裕もあった。   ただ、最初がうまくいったから、後がすべて顺调にいくとはかぎらない。彼女の心がぎりぎりのところでバランスを保っているという事実に変わりはなかった。   それが崩れたのは、座敷で皆と一绪に遅い夕食を食べている时だった。   この日の料理は、三郎の长女である容子と婿养子の富雄の手によるものだった。荞麦屋の暖帘を継いでいるだけあって、二人とも料理の腕はたしかだ。各自一つずつの膳に载せられた和食は、生半可な仕出しではこうはいくまいと思えるほど豪华でかつ繊细なものだった。   食事の途中で三郎が中座をした。手洗いかと思われたが、なかなか戻ってこない。一体何をしているのだろうと皆で话していると、ようやく三郎が现れた。しかも盛り荞麦を二人分、盆に载せていた。   「何よ、それ」と容子が讯いた。   「なあに、ずっと前に藻奈美と约束したんだよ」三郎は直子を见て、にやにやした。   直子は、约束とは何だったんだろうという感じで、不安そうな目をしている。   「忘れちまったかい? おじいちゃんの荞麦を一度食べたいっていってたじゃないか」   ああ、と直子は口を开けた。顔に安堵の色が広がる。   「あれ、藻奈美ちゃんはおじいちゃんの荞麦を食べたことがなかったのかい?」富雄が不思议そうな顔をして讯いた。   「それがなかったそうなんだ。なあ」   三郎に同意を求められ、直子は小さく颔いた。   「案外そういうものなのよね、家で売っているものを、わざわざ食べようってことにはならないから」容子がくすくす笑った。   「わしはいつでも食べさせてやりたかったんだ。だけど直子のやつが、荞麦なんかもう饱きたからいらんといって、ほかのものを食べるものだから、藻奈美ちゃんも食べそこねてたんだ」平介たちがやってきて以来、三郎が直子の名前を出すのは、この时が初めてだった。そのことについて谁も何もいわなかった。だが平介は、直子が一瞬はっとした表情を见せたことに気づいた。   「さあ、とにかく食べてごらん。藻奈美ちゃんのために、おじいちゃんが打ったんだからな。平介さんも、どうぞどうぞ」三郎は直子と平介の前に、盛り荞麦とつゆを置いた。   「お父さん、なんか今日はお店でごそごそしているなあと思っていたら、これだったのね」容子がいった。   平介は远虑なくいただくことにした。考えてみれば彼も、そう何度も三郎の荞麦を食べたことはなかったのだ。   荞麦はこしがあって、犹且《なおか》つ歯触りがよかった。饮み込む时、荞麦独特の香りがほのかにする。「うまいですねえ」と彼は思わず漏らしていた。   三郎は嬉しそうな顔をした。その顔を、そのまま直子のほうに向けた。「藻奈美ちゃんはどうだい?」   だがその三郎の顔に狼狈が浮かんだ。平介は直子を见た。彼女は荞麦つゆを入れた容器と箸を持ったまま、うつむいて泣いていた。涙がぽろりぽろりと落ちて、畳を濡らしている。   なんだいワサビを入れすぎたのかい、という冗谈を発せられる雰囲気でもなかった。谁もが言叶を失って、彼女を见つめていた。   「どうしたんだ」と平介は声をかけた。   直子は泣きながら口元だけで笑ってみせた。傍らに置いたバッグからハンカチを取り出し、涙を拭いた。   「ごめんなさい」といって彼女はぺこりと头を下げた。   「何かその、おじいちゃんが変なことをいったかな」三郎が薄くなった头に手をやった。   「そうじゃないの。ごめんね」直子は手を振った。「おかあさんのことを思い出したから……。おかあさん、おじいちゃんの荞麦好きだっていってたなあ、これ食べさせてあげたいなあとか思ってたら、急に泣けてきちゃった」   途端に容子がすすり泣きを始めた。三郎も涙こそ见せないが、苦しそうに顔を歪めた。   食事をした座敷と廊下を挟んで向かい侧の八畳间が、平介たちに与えられた。以前は纳戸代わりになっていたこともあるようだが、今ではすっかり片づいていた。容子と富雄がどこからか二组の布団を持ってきて、并べて敷いてくれた。   容子たちがいなくなってから、「失败しちゃった」と直子がぽつりといった。   「さっき泣いたことか」と平介は讯いた。   うん、と彼女は颔いた。   「あの时までは全然平気だったんだよ。こみあげてくるものなんか何もなかった。お父さんがあたしに向かって、自分のことをおじいちゃんなんていうのを闻いて、笑いだしそうになっていたぐらいなの。だけどあのお荞麦……」そういって直子は膝の上に置いた手を握りしめた。「あのお荞麦、お父さんのお荞麦だった。子供の顷からずっと食べてきた味だった。そう思ったらいろいろなことが头に浮かんできて、気がついたら涙が溢れてた。いけない止めなきゃと思ったんだけど、どうしようもなかった」   直子の頬に、涙の线が一本できた。それは颚まで达して水滴になった。   平介は彼女のそばにいき、小さな肩を抱いた。忽ちシャツの胸のあたりが彼女の涙で濡れた。   「お父さん」彼の胸の中で直子がいった。「早く东京に帰ろう。やっぱりここは、あたしには辛すぎるよ」   「そうだな」平介はいった。いいながら、直子には「お父さん」と呼ぶ相手が二人いるんだななどと考えていた。   翌日は亲戚が大势やってきた。法事が行われるからでもあった。平介と直子は、挨拶するだけでくたくたになってしまった。殆どの者が直子を见て、「わあ、直子さんに似てきたわねえ」と惊きの声をあげた。直子のことを特にかわいがっていたという叔母は、「まるで生き返ったみたい」といって涙ぐんだ。   皆で墓参りをした後、昨夜と同じ座敷での宴会となった。ただし続き部屋との间の袄を取り外してあるので、ほぼ倍の広さがある。   「藻奈美ちゃんはボーイフレンドいないの?」直子の従妹が讯いた。ころころと太っていて、よく笑う女性だった。   「いないです、そんなの」直子が高校生らしい口调で答えた。   「あらそうなの。おかしいわねえ、藻奈美ちゃんぐらいかわいければ、男の子がほっとかないと思うんだけど」   「まだ子供だから」平介が横からいった。   それを讯いて直子の叔父が笑った。   「子供だと思ってるのは父亲だけだよ。娘ってのは、ちゃあんとやることはやってるものなんだ。三郎兄贵だって、直ちゃんのことを男とは縁のない娘だと思いこんでた。ところがどうだ。さっさと东京の男を见つけて结婚しちまったもんなあ。披露宴の时なんか、兄贵のやつ控え室で泣いてたんだぞ」   「あっ、こら、何をいい加减なこといってやがる。泣いてないぞ」三郎がむきになっていった。   「泣いてたじゃないかよ。相手の男を殴りたいとかいってさ」   えっ、といって平介は思わず自分の頬に手を当てた。   「いってない、いってない。こら、でたらめいうな」   「まあまあまあまあ」   年老いた兄弟の他爱ない口喧哗を、周りの亲戚が笑いながらとめた。三郎はいつまでもぶつぶついっていた。   宴会は八时过ぎまで続いた。亲戚连中は、酒を饮んでいない妻が车を运転したりして、それぞれの家に帰っていった。中には歩いて帰れるほど家が近所の亲戚もある。   直子は风吕に入った後、布団の上で寝転がって小説の文库本を読んでいたが、やがてそのまま寝息をたて始めた。さすがに疲れたようだ。   平介も九时半顷までテレビを见た後、风吕に入らせてもらった。この家ではまだ木の汤船を使っている。縁に头を载せれば、両足を思いきり伸ばせるほどの広さがある。初めてこの家に来た时のことを平介は思い出した。こうして汤に浸《つか》っていたら、窓ガラスを叩く音がしたのだ。返事をしたら窓が细く开いて、直子の顔が覗いた。   汤加减はいかが、と彼女は讯いた。   ちょうどいいよ、と彼は答えた。   そう、それならよかった。ぬるかったらいってね、薪をくべるから。   へえ、ここではまだ薪を使ってるんだね。   そうよ。文化遗産みたいなお风吕なのよ。そういって彼女は窓を闭めた。   髪や身体を洗ってから再び汤船に入ると、少し汤がぬるくなってきた。そこで平介は外にいるはずの直子に声をかけた。少し薪をくべてくれないか。   だが返事はない。おーい、おーいと何度か声をかけたが同じことだった。仕方がないと谛めた时、それが目に入った。壁に追い焚きスイッチがついていたのだ。薪なんてとんでもない。ふつうのガス式风吕釜だった。直子に一杯食わされたわけだ。   もっとも彼女に平介を骗す気があったかどうかはわからない。少し考えれば冗谈だということはすぐにわかるからだ。何しろ彼はシャワーを使って髪を洗ったのである。   あの时彼は风吕から出た後も、直子には何もいわなかった。彼女のほうからも何もいってこなかった。だから彼が窓の外に向かって呼びかけるのを、彼女が笑いをこらえながら闻いていたかどうかは、今も不明のままなのだった。   风吕から上がり部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、「平介さん?」と座敷のほうから声をかけられた。それで彼は障子を开けてみた。三郎が一人でウイスキーの水割りを饮んでいた。   「饮み直しですか」と平介はいった。   「いやなに、単なる寝酒ですよ。どうです、付き合いませんか」   「いいですね」平介は三郎の向かいに腰を下ろした。   「水割りでいいですか」   「はい」   三郎は彼のために水割りを作り始めた。たっぷりの氷や奇丽なグラスが用意してあったところを见ると、三郎は元々平介と饮むつもりでここにいたらしい。宴会の料理はすっかり片づけられていたが、代わりに润目鰯《うるめいわし》の干物を焼いたものが皿に盛ってあった。   「まずは乾杯」   「いただきます」   グラスを軽く合わせてから、平介は义父の作ってくれた水割りを饮んだ。浓过ぎず薄过ぎず、风吕上がりに饮むにはちょうどよい割り具合だった。料理人はこういうところも勘がいいのだなと平介は感心した。   「今回はよく来てくださいました。みんな、喜んどります」三郎は头を下げた。   いえいえ、と平介は手を振った。   平介と直子は明日帰ることにした。そのことはすでに三郎たちにも话してある。   「それにしても、少し见ないうちに、藻奈美はしっかりしましたなあ。あれならもう大丈夫だ。母亲がいなくなって、どんなふうになるものか心配しておったのですが、男手一つでよくあそこまでしっかりと育ててくださった。私がこんなことをいうのは変かもしれんが、死んだ直子に代わって礼をいわせてもらいます」   「私は特别なことは何もしていませんよ。ふつうにしていただけです」   「いやその、ふつう、というのがなかなかできんことでしてね。仕事でお忙しいでしょうに、本当に大したもんだ」   老人は润目鰯をかじりながら、「大したもんだ」という台词を何度か缲り返した。平介としては少し居心地が悪くなる。   「しかしあれでしょう。やっぱりその、男一人ではいろいろ不便なことも多いでしょう」   「いや、そうでもないですよ。直……藻奈美がよくやってくれてますし」   「だけど藻奈美だって、これからは大変だ。さっきちらっと闻いたんだが、医学部を目指すとかいっとるじゃないですか。すると家のことも、そうそうはやっとれんのじゃないのかなあ」   「ええ、まあ、そうですね」平介はグラスの中の薄い琥珀色の液体を眺めた。老人が何をいおうとしているのか、わかりかけてきた。   「平介さん」三郎がやや改まった口调でいった。「直子に义理立てするこたあないです」   平介は义父の顔を见返した。やっぱりそのことだったか。   「平介さんはまだ若い。私の歳になるまで何十年もある。それを无理して一人で生きていくことはないです。もしそういう気になったら、谁に远虑することもなく、再婚すればいいです。その时には私も賛成しますよ」   「ありがとうございます。でもまだそんなことまでは考えられなくて」   平介がいうと、三郎は首を二度三度と振った。   「そうはいっても、时间の経つのは早いもんだ。今私は平介さんのことを若いといったが、本当のところはそれほど余裕があるわけじゃない。そろそろ真剣に考えなさったほうがいいと思うがねえ」   「そうですか」平介は暧昧に笑っておいた。   「まあもちろん、无理にとはいわんがね」   平介のグラスが空になるのを见て、三郎はすぐにお代わりを作り始めた。   ではもう一杯だけ、と平介は恐缩しながらいった。   部屋に戻る顷には、すっかり汗がひいていた。エアコンが利いているわけでもないのに、やっぱりここは信州だなと思う。パジャマに着替え、布団にもぐりこんだ。   直子が彼のほうに寝返りをうった。しかも目を开けていた。「お父さんと话してたみたいね」   「うん、ああ」   「再婚のこと、いわれてたでしょ」   「闻こえてたのか」   「だってお父さん、声が大きいんだもの」この场合のお父さんとは三郎のことだろう。   「ちょっと参っちゃったよ」平介は苦笑してみせた。   「再婚のこと、考えたことある?」直子の口调は真剣なものだった。   「そりゃあ、空想ぐらいはしたことがある」桥本多恵子の顔が一瞬浮かんで、すぐに消えた。「でも具体的に考えたことはないな」   「考えないようにしてるの?」   「考える気にならないだけだよ。俺には直子がいるからな」   すると直子は目を伏せ、くるりと反対侧に寝返りをうった。「ありがとう」と小声でいった。「でも、それでいいの?」   「ああ、いいんだ」平介は彼女の背中にいった。   それっきり直子のほうからは何もいってこなかった。平介も睑を闭じた。   これでいいんだよな、と彼は自らに确认をとっていた。自分には直子がいる。ほかの人间には见えなくても、自分にだけ见える妻がいる。それで十分だ。十分に幸せだ。   意识がぼんやりとしてきた。これでいいんだ、という思いを抱えたまま彼は眠りに落ちていった。   翌朝早く、平介と直子は帰京の准备を始めた。帰省した时の常で、土産物をあれやこれやと渡されたので、それだけでスプリンターのトランクは一杯になった。後部座席にも纸袋やら段ボール箱やらが并んでいる。   「お父さんのいうことをよくきくんだよ。またお正月にでもおいで」助手席侧の窓の外から三郎が声をかけてきた。   「うん、また来る。おじいちゃんも元気でね」   「うんうん、ありがとうありがとう」三郎は目を皱と同じぐらいに细めて颔いていた。   平介は车を発进させた。アスファルトに反射する日差しが、今日もまた暑くなることを告げていた。Uターンラッシュが始まりつつあることは、昨夜のテレビで知っていた。覚悟を决めなきゃなと彼は思っていた。   実家を离れて少ししてから、「ちょっと止めて」と直子がいった。それで平介は车を道路脇に寄せて止めた。   「どうかしたのか」平介は讯いた。   直子は後ろを振り返り、ふっと息を吐いた。   「もう二度とここには来ないと思ったら、ちょっと悲しくなってきちゃった」   「どうして? 来たくなったら、来ればいいじゃないか」   直子はかぶりを振った。   「もう来ない。あの人たちと会うのが辛いから。あの人たちにとって、あたしはもう死んだ人间なのよ。あたしはもういないということで、あの人たちの世界は完结してる。そんなところへ行ったって、幽霊みたいに漂っているしかない」目が润み始めた。彼女はハンカチを取り出した。「ごめんなさい。少しだけ泣きたかった。もうめそめそしない。大丈夫だから、车を出して」   平介は黙ってギアを入れ、车を动かした。   自分だけがこの女の本当の家族なんだ、この世で俺たちは二人ぼっちだ――心の底からそう思った。   [#ここから7字下げ]   30   [#ここで字下げ终わり]   その电话がかかってきたのは、日曜日の夕方のことだった。直子は夕食のおかずを买いに出かけていた。平介は狭い庭の手入れを终え、扫き出し窓の縁に腰かけてぼんやりと西の空を眺めていた。见事なほどの夕焼けで、鰯云が真っ赤に染まっていた。   久しぶりにのんびりした秋の一日だった。明日からまた新鲜な気持ちで仕事に取り组めると平介は満足していた。   それだけにその电话の音は、不吉な予感を彼に与えた。杉田家の电话は、ふだんあまり鸣らない。直子が直子として生きていた顷は、长野の実家や彼女の友人などからよく电话がかかったものだが、今ではそういう电话は皆无になっていた。   また不动産屋かな、と思いながら彼は立ち上がった。ワンルームマンションを买わないかという诱いの电话が时々かかってくるのだ。   电话はリビングボードの上に置いてある。彼は受话器を取った。「はい、杉田ですが」相手はすぐには声を発しなかった。このごく短い沈黙の间に、平介は不吉な予感が当たったことを确信した。何か物理的な事情があって相手の反応が遅れているのではなく、自分の声を闻いたことで相手が戸惑っているのだと彼は直感した。   「もしもし」男の声がした。「あ……あのう、杉田藻奈美さんはいらっしゃいますか」   直子の学校の男子だな、と平介は察した。晴れ晴れとしていた心に、あっという间に黒い云がかかっていくのを感じた。   「今、いませんが」彼は答えた。不机嫌さを露《あらわ》にした声が出た。半ば无意识、半ばは意识的に出した声だ。   「あっ、そうですか」   相手の男は萎缩したようだ。このまま电话を切りそうになったら、人の家に电话をかけておいて名乗りもせずに切るとはどういうことかと、どやしつけてやるつもりだった。だが相手はそれほど非常识ではなかった。   「あのう、仆はソウマという者ですけど、藻奈美さんがお帰りになったら、电话があったことだけお伝え愿えますか」   「ソウマさん? どちらのソウマさんですか」   「テニス部で一绪の者です」   またテニス部か。平介の口の中に苦いものが広がった。   「何か急用ですか」   「いえ、急用というほどのことはないんですけど」   「しかし日曜日に电话をかけてくるということは、それなりの用事があるということでしょう。今いっていただければ、藻奈美に伝えておきますが」   「いえ、あの、ちょっと面倒なことで、直接话さないとわかりにくいので、とにかく电话があったことだけ伝えてください」   「ふうん」   「じゃあ失礼します」ソウマと名乗った男は、そそくさと电话を切った。   受话器を置いた平介の胃袋には、しこりのようなものが生じていた。彼は时计を见た。直子はつい先程出かけたばかりだ。いつもの调子なら、一时间は帰ってこない。   平介はテレビのスイッチを入れた。NHKのニュースが流れてきた。だが内容は少しも头に入らない。画面をただ眺めているだけだ。   彼はテレビをそのままにして、二阶に上がった。直子の部屋のドアをそっと开け、中に足を踏み入れた。   部屋は奇丽に片づいている。少し乱れているのは机の上だけだ。物理の参考书が开いたままになっている。力学の勉强をしているところらしい。斜面の上に置いた物体に加わる力の问题。摩擦系数。作用反作用。いくつかの用语は平介の记忆に留まっていた。   机の奥に、ファイルやノート、辞书などがブックエンドを使って立ててある。ファイルは全部で五册。赤、青、黄色、緑、ァ§ンジの五色だ。背表纸には何も书かれていないが、色によって用途が分けられているのだろう。   平介は、以前直子が傍らにファイルを置いて、テニス部の友人と电话で话しているのを见たことがある。おそらくあの时のファイルは、テニス部関连の书类を缀じたものだったのだろう。   赤かァ§ンジのファイルだったと彼は记忆していた。後ろめたさを感じながら、彼は二册のファイルを抜き取った。开いてみると、赤は料理のレシピを整理したものだった。雑志の切り抜きなども奇丽に缀じられている。   思った通り、ァ§ンジのファイルがテニス部関连のものだった。秋の定期戦日程と书かれたコピー用纸が一番前にファイルされている。   ぱらぱらとめくっていき、最後の页で手を止めた。部员の名前と连络先を书いた纸が缀じてあった。   たしかソウマといったな――。   名前の部分を指で辿っていった。やがて相马春树という名前が见つかった。二年生の部员だった。   平介は机の引き出しを开けた。文房具が奇丽に仕切られて入っている。猫のイラストの入ったメモ帐から一枚はがし、そこにボールペンで相马春树の住所と电话番号を控えた。目的はない。ただ知っておきたいだけだ。   メモをスウェットのポケットに入れ、ファイルをブックエンドに戻した。直子に电话してきた男に関して少しでもデータを得られたことで、ある程度満足していた。   ドアを开け、部屋を出た。そして後ろ手でドアを闭じようとした时、阶段を直子が上がってきた。彼女は阶段の中程で立ち止まった。   「どうしたの?」直子は讯いてきた。「あたしの部屋に何か用?」咎めるような响きがある。   俺が部屋に入ったら悪いのかという思いと、プライバシーを侵害した罪の意识が、彼の胸の中で搅拌《かくはん》された。それは不自然な嘘という形になって彼の口から出た。   「いや、その、借りたいものがあったんだけど、よくわからないのでやめた」   「何が欲しかったの」   「ああ、あの……あれだ。本だ」   「本? 何の本?」   「あれだよ、夏目漱石の书いたやつで」しゃべりながら、いい加减な嘘をいってしまったものだと平介は後悔した。直子がどういう作家の本を読んでいるのか全然知らなかったから、とりあえず夏目漱石といってしまったのだ。   「猫?」と直子は讯いた。   「ネコ?」   「『吾辈は猫である』のこと。あたしが持ってる漱石といったら、あれだけだよ」   「ああ、そうだ。その本だ」平介はいった。「さっきテレビでその本の话が出てきたんだ。それで読んでみようかなという気になって」   「ふうん、珍しいね」直子はとんとんとんと阶段を上がり、自分の部屋に入った。   平介は入り口から彼女の様子を见た。书棚に近づいた彼女は、すぐに一册の分厚い文库本を抜き取った。「どこ探したの? ここにあるじゃない」   「ああ、そうか。気がつかなかった」   はい、といって直子は文库本を差し出した。平介はそれを受け取った。   彼女はそのまま部屋を出るつもりのようだったが、最後に一度だけ室内を振り返った。「あれ?」かすかに眉を寄せ、直子は机に近づいていった。「机の上、触った?」   「いや、触ってないけど」どきりとしたが、平静を装って答えた。   「ふうん」   「どうかしたのか」   「ううん。触ってないならいいんだ」そういいながら彼女は、ァ§ンジのファイルと赤のファイルの场所を入れ替えた。   この夜、结局平介は相马春树からの电话のことを直子に话さなかった。相马という男子のことを讯きたい気持ちもあったが、勘のいい直子が、ファイルの位置が変わっていたことと结びつけて考えることは大いにあり得た。胜手に彼女の持ち物を调べたことは、できれば感づかれたくなかった。   食後、直子の手前、彼は特に読みたくもない『吾辈は猫である』の页を开いた。二页ほど読んだところですぐに眠気に袭われた。後は読むふりでごまかした。   翌日、平介は帰りが少し遅くなった。腕时计の针は八时十五分を指している。だが家の窓から明かりが漏れているのを见て安堵した。もしまだ直子が帰っていなければ、またしても気を揉まねばならないところだった。   相変わらず直子が遅く帰ることはある。だが以前口谕して気まずくなったことがあるので、平介はなるべく文句をいわないようにしていた。直子のほうもある程度気をつけているのか、八时を过ぎて帰ることは殆どなくなっていた。   玄関のドアを开け、家に入った。靴を脱ぎながら、ただいま、と奥に声をかけようとした。だがその前に彼は、嗫くような话し声を闻いていた。直子がしゃべっている。时折くすくす笑う。   电话をしているらしいと平介は察した。彼は足音を抑えて廊下を歩いた。声は和室のほうからする。   「だってアリサカ先辈から闻いたんですよお。あたしのバックハンドのこと笑ってたって。ひどーいって思っちゃいました」   声は纷れもなく直子のものだったが、その口调は平介に対する时と全く违っていた。女子高生らしく言叶を崩しているだけではない。相手に対して甘えるような响きがある。   「えー、そうなんですかあ。なんか、信じられないなあ。じゃあ先辈、今度あたしとダブルス组んでくれますう?……えーっ、本当ですかあ。すごーい。……えっ? やだあ、そんなの。どうしてあたしがそんなことしなきゃいけないんですかあ」しゃべりながら直子は笑っている。心の底から楽しそうだ。   平介は廊下を数歩戻り、わざと大きな音をたてて歩き直した。ただいま、と声を出す。直子の姿は见えないが、あわてる気配があった。   「あっ、じゃあまた明日。……はい……はい。それじゃ」   平介が入っていくのと、彼女が电话机から离れるのがほぼ同时だった。   「お帰りなさい。すぐにご饭食べるでしょ?」直子は台所へ行った。いつもの口调に戻っている。   「电话してたみたいだな」   「うん。学校の友达から。英语の宿题のことで」   嘘をつけ、と平介は腹の中で毒づいた。先程の口调は同年代に対するものではなかった。英语の话をしていたのでもない。さらに付け加えるならば、相手は男だ。   「そういえば、昨日电话があったよ。テニス部の相马という人からだった」   「あ……そうだったの」   流し台のほうを向いている直子の肩が小さく揺れたように平介には见えた。   「电话があったことを伝えてくれといわれていたんだけど、すっかり忘れてた。今日、会ったんだろ? 何かいわれなかったか」   「ああ……新人戦の准备のことをいわれたから、きっとそのことで电话してきたんじゃないのかな。昨日电话したってことは、闻かなかったな」   「日曜日にかけてくるぐらいだから、急ぎの用だったんじゃないのか」   「急ぎというより、忘れないうちに连络しておこうと思ったんだと思うけど」   「ふうん、まあいいけどな」   平介は二阶に上がった。着替えながら、依然として电话のことを考え続けていた。さっき直子が话していた相手は、まず间违いなく相马春树という二年生だろう。问题は、なぜ彼女が嘘をついたのかということだ。テニス部の先辈からだ、という一言をなぜいえなかったのか。   そうか、と平介は合点がいった。直子は今日もテニス部の练习に参加したはずである。现に相马と话したようなことをいっていた。ならば、なぜまた家に帰ってから彼と电话で话をしていたのかという当然の疑问が出てくる。彼女はその疑问にうまく答える自信がなかったのだ。   电话は相马のほうからかけてきたに违いなかった。いつ平介が帰ってくるかわからない状况で、直子のほうからかけるはずがない。   平介はスウェットのポケットに手を入れた。折り畳まれたメモに指先が触れる。相马春树の连络先を书いたメモだ。   こっちからかけてやろうか、と彼はふと思った。父亲から电话があり、用もないのに娘に电话をしないでくれといわれたら、大抵の男ならひるむに违いない。   お父さん、ご饭よ、という声が阶下からした。平介は大声で返事し、ポケットから手を抜いた。   「今からいっておくけど、来周一周间、帰りが遅くなるかもしれない」夕食の途中で、直子が远虑がちにいった。   「またテニスか」   「そうじゃなくて、文化祭の准备。来周の土日が文化祭なの」   「遅くなるって、一体何をするんだ」   「うちのクラスはビデオ吃茶。教室を暗くして、手作りのビデオ映画を见せるついでに、コーヒーとかジュースとかも売りつけようというわけよ。それで映画の仕上げとか、店の装饰とかを、来周中にやらなきゃいけないの」   「そういうのって、全员参加なのか」   「全员参加よ。决まってるじゃない」   「遅くなるって、何时ぐらいだ」   「わからない。実行委员なんかは、毎年何日かは彻夜するっていうけど」   「彻夜? 学校に泊まるってことか」   「そうよ」   「まさかその実行委员に选ばれたんじゃないだろうな」   「あたしは违うわよ。クラブに入ってる子は両立が难しいから选ばれないの。クラブに入ってない子たちは、実行委员であるなしにかかわらず、もう准备にとりかかってる。だからあたしたちクラブ部员は、来周ぐらいは手伝わなきゃいけないの。そのために来周一周间は、全クラブが休みになるのよ」   「たかが文化祭に学校も面倒なことをするもんだな。东大への进学率を竞ってるような高校が、そんなことしてていいのか」   「よく游び、よく学べ。リフレッシュの大切さを学校もよくわかってるのよ。机にかじりついているだけじゃ、絶対に东大になんか受からない」直子は、ちょっと苛立った口调でいった。   [#ここから7字下げ]   31   [#ここで字下げ终わり]   予告どおり、翌周の月曜日は直子の帰りが今まで以上に遅くなった。何しろ七时过ぎに彼女から电话がかかってきて、遅くなるから店屋物でもとって夕食を済ませてくれと平介にいったぐらいなのだ。仕方なく彼は近所のラーメン屋で野菜炒め定食を食べた。   结局直子が帰ってきたのは九时を少し过ぎてからだった。平介としては何か一言いいたいところだったが、疲れた様子の彼女を见ているといえなくなった。夕食は学校のそばのお好み焼き屋で済ませたと彼女はいった。   直子が风吕に入り、二阶へ上がっていって少しした时だった。リビングボードの上の电话が鸣りだした。平介はぎくりとした。十一时近くになっている。   受话器を取ろうと立ち上がりかけた时、呼び出し音が鸣りやんだ。なんだ间违いだったのかなと一瞬思ったが、すぐにそうではないことに気がついた。   电话机に付いている小さなランプが点灯している。『子机使用中』のランプだ。つまり直子が上で电话に出ているということだ。   杉田家の电话がコードレスホンに変わったのは、この春だった。二阶でも电话を受けられるようにしたほうがいいという直子の提案を受け入れたのだ。ふだん子机は二阶の廊下の壁に取り付けてある。   平介はしばらくその小さなランプを见つめていた。単なる事务的な用件ならば二、三分で済むはずだというのが彼の感覚だった。ところがランプはなかなか消えなかった。彼はいったんテレビに目を戻し、天気予报を见终えてから、改めて确认した。ランプはまだついていた。   なんだ、こんな时间に非常识な――。   『子机使用中』のランプが消えたのは、结局それから小一时间後だった。その间平介はテレビを见たり、新闻を読んだりしていたが、いうまでもなく何ひとつ内容は头に入っていなかった。   直子は次の日も帰宅时刻が九时を过ぎた。おかげで平介は二日続けてラーメン屋で夕食をとることになってしまった。   一体何をしているんだ、と彼は不信感を募らせつつあった。文化祭の准备に、これほど时间を要するものだろうか。たかが学生の模拟店ではないか。   テレビを见ながらそんなことを考えていた时である。またしても电话が鸣りだした。彼は反射的に时计を见ていた。十时五十分だ。昨日とほぼ同じ时刻だった。   呼び出し音は一回しか鸣らなかった。その代わりに昨日と同様『子机使用中』のランプが点灯した。直子はすでに自分の部屋にいる。廊下に出た気配はないから、电话がかかってくることを予想して、予め子机を部屋に持ち込んでいたことは明白だった。要するに谁かから、「今夜十时五十分顷に电话するから」といわれているわけだ。   その谁かとは谁なのか。   贫乏揺すりをしながら平介は、テレビと时计と电话とを代わる代わる见つめた。テレビではプロ野球の结果が流されている。すでに巨人は优胜を决めており、日本シリーズで対戦するパシフィックリーグの覇者を待つのみという状态だった。近鉄、西武、ァ£ックスが连日めまぐるしく顺位を変えている。巨人一筋の平介としては、今年にかぎりパ?リーグの结果も大いに気になるところだった。しかし今はそれどころではない。   时计の针が十一时半を越えたところで平介は廊下に出た。さらに足音を杀し、阶段の下に立った。二阶の廊下に直子がいる様子はない。子机を部屋に持ち込んでしゃべっているのだろう。   平介はヤモリのような格好で阶段を上がっていった。直子の部屋から、かすかに声が漏れてくる。话の内容は全くわからない。   相马春树という名前が头に浮かんだ。相手はあの男に违いない。一体どういう男だ。どういうつもりで直子に电话をかけてくるのか。   声が闻こえなくなった。平介はもう少しドアに近づこうと、阶段上で腹这いになったまま手足を动かした。   その时突然ドアが开いた。あやうくドアの角が平介の头を直撃するところだった。直子が彼を见下ろして一瞬小さな悲鸣をあげた。   「何してるの、こんなところで」   「いや……别に」平介は阶段の上に座った。全身から冷や汗が吹き出た。うまい言い訳が思いつかなかった。   直子はコードレスホンの子机を片手に持っていた。それを壁に取り付けた充电器に戻そうとして、何かに気づいたように平介を见た。   「盗み闻き?」   「そんなことはしてない。ただ……昨日も今日もずいぶん変な时间に电话がかかってきたみたいだから、気になって様子を见に来ただけだ」   「それのどこが盗み闻きじゃないのよ」   「话なんか何も闻こえなかったよ。それよりやけに长电话だったな」   「クラブの友达」ぶっきらぼうにそういって、直子はコードレスホンを本来の场所に戻した。   「相马ってやつだろう」平介はいった。   直子はふてくされたような顔で黙り込んだ。図星だったようだ。   「そいつは二年生なんだろう? だったら友达ってことはないじゃないか」   「どうして相马さんが二年生だって知ってるのよ」   今度は平介のほうが返事に诘まった。直子の口元が歪んだ。   「やっぱりこの前、胜手にあたしのファイルを见たのね。おかしいと思った」   「见ちゃいけなかったか」   「プライバシーって言叶、知らないの?」   「相马ってのは何者なんだ。なんでおまえに电话をかけてくるんだ」   「知らないわよ。向こうからかかってくるんだから仕方ないじゃない」   「知らないってことがあるもんか。用もないのに男が女に电话をかけてくるんだぞ。理由は一つじゃないか」阶段の上で平介は怒鸣った。   直子は吐息を一つついた。それから彼を见下ろした。   「じゃあ正直にいう。たぶんあたしのことが好きなんだと思う。今周はクラブの练习がなくて学校じゃ会えないから、电话をしてくるんだと思う。これでいい?」   「もう电话するなっていえよ」   「どうしてそんなこといえるのよ。交际を申し込まれてるわけでもないのよ」   「そのうちに付き合ってくれっていってくるさ」   「その时には断ればいいんでしょ」   「本当は楽しんでるんだろう。若い男と话ができて、いい気分なんだろう」いいながら平介は自分の頬がひきつっていくのを感じた。   「楽しいわよ」直子はいった。「楽しんじゃいけない? その程度の権利も、あたしは认めてもらえないの? 気分転换もしちゃいけないの?」   「俺と话してるより楽しいってわけだな」   平介の质问に、直子は答えなかった。ドアのノブを掴んだ。   「あたし、疲れたからもう寝る。おやすみなさい」   ちょっと待て、と平介はいおうとした。だがその时すでに彼女は部屋に入り、ドアを闭めていた。   布団に入ってからも、平介はなかなか寝つけなかった。电话ぐらいで大騒ぎをする自分の度量の狭さにうんざりする気持ちがある一方、なぜ自分の苦しみを理解してくれないのだと直子に怒りを感じる部分がある。   平介は彼女が相马春树のことを「相马さん」と呼んだことにこだわっていた。   见かけ上は先辈かもしれない。しかし精神的な部分に関していえば、高校二年の男子など、直子にとっては子供のはずである。彼女は小学生の时、担任の桥本多恵子のことでさえ平介の前では、「彼女」とか「あの子」というふうにいっていたのだ。   相马春树の前では、直子は精神的にも高校一年の娘になるということなのか。だから彼女にとって相马は、「さん」づけで呼ぶべき対象なのか。   その変化が一时のものであることを平介は愿った。长野での夜、「俺には直子がいるから」といった时、彼女は「ありがとう」といってくれた。その一言が、今の彼の心の支えになっていた。   [#ここから7字下げ]   32   [#ここで字下げ终わり]   水曜日から三日间、直子は殆ど口をきかなかった。帰宅は连日九时过ぎだった。帰るとすぐに自室に引きこもり、风吕やトイレに行く时以外は出てこなかった。   电话が鸣ったのは水曜日の夜だけだった。木曜と金曜はかかってこなかった。直子から相马に何かいったのかもしれない。   文化祭初日の土曜日の朝、直子が急に寝室に入ってきた。平介はまだ布団の中にいた。「これ」といって彼女は一枚の纸を彼の枕元に置いた。   彼はそれを手に取り、眠い目をこすって见た。ピンク色の纸にワープロで、『饮み物片手に素敌なビデオを见ませんか? お待ちしています ビデオ?バー?アンドゥ』と书いてある。下に学校内の地図もついている。   「なんだ、これ」   「気が向いたら来て」   「来てほしいのか」   「だから気が向いたらでいいよ」   行ってきます、といって直子は寝室を出ていった。   平介は布団の上で胡座をかいたまま、ずいぶん长い间そのパンフレットを眺めていた。   行ってみたいという気持ちはある。直子がどんなふうに学校生活を送っているのかを、自分の目でたしかめてみたい。考えてみればこれまで彼は、彼女の外での顔を殆ど见ていないのだった。   しかし见たくないという気持ちもある。正直なところ怖かった。   彼女が果たしてうまく学校生活を送れているのかどうか心配で见るのが怖い、という意味ではない。今では彼は、その点については全く心配しなくなっていた。むしろその逆だ。直子が肉体的にも精神的にも、完璧に女子高生として皆の中に溶け込んでいるのを见るのが怖いのだ。それを目にした时に自分が味わうに违いない丧失感、孤独感、焦燥感を彼は恐れているのだった。   迷いながらも、この日彼は文化祭に行かなかった。八时顷に帰ってきた直子は、彼が来なかったことについて何もいわなかった。ただし文化祭がどうだったかということについても话す気はないようだった。   翌日は、何もいわずに直子は出かけていった。どうせ来る気はないだろうと思ったのかもしれない。平介も决心がつかないでいた。昼过ぎまで布団の中で雑志を読み、午後からはゴルフ番组と野球中継を见た。野球はセ?リーグの消化试合だった。   行ってみようかという気になったのは、テレビにどこかの有名なレストランが映ったからだった。男女のタレントが、そこの自慢料理を食べるというだけの番组だった。   じつは昨夜は、杉田家の食卓に久しぶりに料理が并んだ。ただしいずれも直子がデパートの地下食料品店で买ってきた惣菜だった。今夜もそうなってしまうおそれは十分にあった。だがもし自分が文化祭に行けば、帰りに二人で食事をする手もあると平介は思いついたのだ。   时刻は午後二时を少し回っていた。パンフレットによれば文化祭は五时までだ。彼は急いで支度を始めた。   直子の高校に行くのは合格発表の日以来だった。あの时とは学校の様子がまるっきり変わっていた。门のそばには派手な看板が并び、校舎の壁にはポスターが贴られていた。何より変わっていたのは生徒たちだ。合格発表の时には、まだ幼さの残る顔がいくつかあったが、今はもうそんな顔はどこにも见当たらなかった。   生徒たちの亲と思われる中年の男女も、ちらほら校内を歩いていた。しかし催し物には兴味がなさそうだ。文化祭をというより、子供たちが通っている学校の雰囲気を确认しに来ているように见えた。   一年二组の教室の入り口は、着色した段ボールや色纸で饰りつけされていた。エプロンをつけた女の子が、平介を见てにっこりした。「いらっしゃいませ」   「ええと、あのう」平介は头を掻きながら中を覗き込んだ。机を组み合わせたテーブル席がいくつかある。客はそこそこ入っているようだ。教室の後ろのほうに仕切りがあり、その向こうは见えない。たぶん厨房になっているのだろう。仕切りには四角い穴が开けられていて、トレイを持った女の子が出入りしている。「ええと、杉田藻奈美はいますか」   「あっ、杉田さんのお父さん?」エプロンの娘は目をくるくると动かした。   「はあ」   「わあ、大変」彼女は駆け出し、仕切りの向こうに消えた。   すぐに直子が出てきた。先程の娘と同じエプロンをつけていた。长い髪をバレリーナのように後ろでまとめている。   「今日は来たんだね」直子はいった。特に嬉しそうな顔はしていない。だが不愉快でもなさそうだった。   「まあ、ちょっと见ておくのもいいかなと思って」   「ふうん……」   彼女は彼を窓际の席に案内した。すぐそばにビデァ♀ニターが置いてある。モニターは全部で四台。それぞれにビデァ∏ッキが接続されている。运ぶだけでも大変だったろうなと平介は想像した。   「何か饮む?」直子が讯いた。   「ああ、そうだな。じゃあコーヒーを」   「コーヒーね」直子はくるりと踵を返し、仕切りの向こうに消えた。その时に気づいたのだが、制服のスカートがいつもよりずいぶんと短くなっていた。ウェイトレス役の女子は皆そうだ。どういうふうに工夫してあるのかは平介にはわからない。屈んだ时、下着が见えるのではないかと思い、ちょっとはらはらした。   ビデァ♀ニターには手作りの映像が延々と流されていた。他爱のない映像ばかりだ。生ゴミを渔るカラスと猫の映像に、関西やくざのような台词がテロップでつけられているのが少しおかしかった。   「面白い?」直子がトレイにコーヒーを载せて戻ってきた。カップは纸制だった。   「ばかばかしいところがいいな」   「そんなのでも、男子たちが苦労して作ったみたいよ」直子は彼の横に座ると、小さな容器に入ったミルクをコーヒーに入れ、軽くかきまぜてから彼の前に置いた。   平介はコーヒーを一口饮んだ。うまいような気がするのは、気分が违うせいだろう。   「この饰りは、全部自分たちで作ったのか」壁や窓ガラスに贴り付けられた、色纸やセロファン制の饰りを见て平介は讯いた。   「そうよ。大して上手じゃないけど、时间はかかっちゃった」   だろうな、と平介は颔いた。これなら连日帰りが遅くなったのもわかると思った。   仕切りの向こうから、何人かがちらちらと平介たちを见ていた。平介が目を向けると、さっと顔を隠す。   「なんだか注目されてるみたいだな」   「意外なんじゃないかな。あたしの父亲が来たってことが。あたし、学校じゃ殆ど家のことを话さないから」   「そうなのか」   「だって本当のことを话すわけにはいかないでしょ。嘘をつくのは大変だもの」   それもそうかと思い、平介は颔いてコーヒーを饮んだ。   「文化祭は五时に终わるんだったな」   「そうだけど」   「じゃあ、久しぶりに食事でもしないか。终わるまでどこかで待っててやるよ」   喜ぶかと思ったが、直子は戸惑った表情を见せた。   「文化祭自体は五时までだけど、その後いろいろあるの」   「いろいろって?」   「後片づけとかキャンプファイヤーとか……」   「キャンプファイヤー、か」   そういうものがあったなと平介は思った。远い记忆の彼方の话だ。   「帰りはかなり遅くなるのか」   「そんなことはないと思うけど、时间がはっきりわからないから……」   「そうか」   「ごめんなさい」直子はうつむいた。   「いや、别にかまわんさ。じゃあ今夜は寿司でもとっておくよ。それなら、直子が帰った时に腹が减っていたら、すぐに食べられるだろう」   直子は小さく颔いてから彼の耳元に口を近づけ、「直子って呼ばないで」といった。   「ああ、そうか。すまんすまん」彼は顔の前で手刀を切った。   さっきのエプロンの女の子が近寄ってきた。「藻奈美、ちょっと」   「どうしたの?」   「コーヒーのフィルターが切れちゃった」   「やっぱり足りなかったか。じゃ、ペーパータァ‰を代わりに使えばいいよ」   「やり方がわかんないんだけど」   「しょうがないな」直子は立ち上がり、エプロンの女の子と共に仕切りの向こうに消えた。   平介は腰を浮かし、舞台里を覗いた。数人の女子が、サンドウィッチを作ったり、ジュースにするための果物を切ったりしていた。直子はペーパータァ‰を切り取り、コーヒーメーカーにセットする方法を、近くにいる者に教えていた。见かけの歳格好は皆と変わらないが、そんなふうにしている姿は彼女らの母亲のように平介には见えた。   彼が元の席に戻ろうとした时だ。一人の若者がすぐそばに立っていた。背が高く、よく日焼けした顔は雕りが深かった。平介は最初、自分とは无関系な若者だと思い込んでいた。ところが若者は平介が座った後も、彼のそばを离れなかった。   「あのう」と若者はいった。   その声を闻いた途端、激しい胸騒ぎが平介を袭った。闻いたことのある声だった。   「杉田さんのお父さんですね」   「そうですが」平介の声はかすれた。血が逆流するのがわかる。身体が热くなる。   「先日は失礼しました。テニス部の相马です」そういって若者は立ったまま头を下げた。   「ああ……」平介は咄嗟に言叶が出なかった。何かいおうとして、周りの视线に気づいた。何人かが二人を见ていた。   とにかく、と平介はいった。「とにかく座ったらどうだい」   はい、といって相马は平介の向かい侧に座った。   平介は困惑し、厨房のほうを见た。すると直子と目が合った。彼女は仕切りから顔を覗かせていたのだ。惊きの表情が浮かんでいる。彼女が相马をここに呼んだわけではないらしい。   「夜遅くに何度も电话をかけてすみませんでした。御迷惑をおかけしました」相马はもう一度头を下げた。   「藻奈美から何かいわれたのかい」   「はい。お父さんは朝が早いから、夜遅くの电话は困るって」   「ははあ」それでここ二日间は电话がなかったのだなと合点した。   「本当にすみませんでした」   「いや、もういいよ。别に、そう怒ってるわけじゃないし」面と向かって谢られると、こういうよりほかなかった。   「それならいいんですけど」若者は安堵したようだ。   「それをいうために、わざわざここへ来たのかい」   「はい。杉田君のお父さんが来てるって、後辈の一人が教えてくれたんです」   「ふうん」   どういうことだ、と平介は思った。その後辈は、なぜそんなことを教えに行ったのだ。それではまるで公认の仲のようではないか――。   「それじゃあこれで」といって相马は立ち上がった。「失礼します」   「あ、さよなら」   相马は教室の後ろに向かって小さく手を上げ、何か伝えるように唇を动かすと、にっこり笑ってから出ていった。谁に笑いかけたかは见るまでもなかった。   すぐに直子が平介のところへ来た。「彼、何をいいに来たの?」小声で讯いた。   彼はありのままを话した。そして、「青春ドラマみたいだったな」と付け足した。皮肉が半分、正直な印象が半分だ。   「热くなるタイプなのよ」   「あいつのほうは恋人気取りだったぞ」   「そんなわけないでしょ。马鹿なこといわないで」唇を殆ど动かさずに彼女はいった。   突然チャイムが鸣った。あと十五分で文化祭は终了というアナウンスが流れた。ため息をつくような声が周りから上がった。   平介は腰を上げた。「じゃあ、帰るから」   「気をつけてね。来てくれてありがとう」   「あまり遅くならないようにな」そういって平介は教室を出た。   五时前に学校を後にしたが、真っ直ぐ家に帰る気になれなかった。彼は电车に乗り、新宿に出た。大型电器店を覗いた後は、本屋にでも寄るつもりだった。だが电器店から出てきた二人の男女を见た途端、彼の足は止まった。   高校生らしき男女だった。男は髪が长く、女は化粧をしていたが、どちらも制服と思われるものを着ていた。男のほうが女の肩を抱き、女は男の腰に手を回していた。人前であることを全く気にしていない様子で、今にも唇が触れそうなほどに顔を近づけていた。   その二人の姿に直子と相马春树の顔がだぶった。平介は全身に鸟肌が立つのを覚えた。   この瞬间闪いたことがあった。相马春树は教室を出ていく前、直子に向かって何か唇で伝えたようだが、その内容が突然理解できたのだ。   あとでね――彼はそういったのだ。间违いなかった。その唇の动きを、映画のワンシーンを见るように正确に思い出すことができた。   あと、とはどういうことだ。何があるというのだ。   平介はじっとしていられなくなった。何かに急かされるように駅に向かっていた。   俺は一体何をしているんだろうと自问し続けていた。だが平介は足を止められなかった。気がついた时、彼は高校に戻っていた。门の前に立っていた。   日はすっかり落ちている。いつもならば学校全体が静寂と闇に包まれつつある时间だ。しかし今日は违う。校庭の中に大势の生徒たちが残っている。どこからか音楽と歌声が闻こえてくる。歌っているのは軽音楽部か。   平介は门をくぐっていた。グラウンドのほうへ行くと、キャンプファイヤーの炎が见えた。それを囲むように生徒たちがいる。立ったままだったり、座り込んでいたりで、その姿势は様々だ。   片隅に简単なステージが作られていた。その上で数名のバンドが演奏していた。ボーカルは女性。黒いエナメルの衣装が炎の光を反射している。大人びて见えるが、无论この学校の生徒なのだろう。   キャンプファイヤーも変わったものだなと平介は思った。フォークダンスのようなものを彼は想像していた。   见たところ一般客の姿はない。だが谁も平介のことなど気にしていない様子だった。暗いし、バンドの演奏に気持ちを集中させているからだろう。   平介は直子を探し、生徒たちの间を草木をかきわけるように移动した。女子はともかく、男子の中には平介よりも背の高い者がいくらでもいる。彼等の间に入ってしまうと周りが何も见えなかった。   バンドの歌う曲の雰囲気が変わった。それまではバラード调のものを歌っていたのだが、アップテンポの歌を歌いだした。それと同时に、生徒たちが大きな変化を见せた。   座っていた者も立ち上がり、ほぼ全员が飞び跳ねながら手拍子を始めたのだ。   若者たちが一斉に动きだすと、空気が薄くなったような错覚に袭われた。平介は喘ぎながら歩き回った。   足が何かに当たった。谁かの足に引っかかったらしい。彼は踬《つまず》き、地面に両手をついていた。仕方なく四つん这いのまま移动した。无数の足がリズムに合わせて地面を踏む。飞び散った土が彼の顔面にかかった。   ステージから远ざかったせいか、ようやく生徒の数が少なくなってきた。キャンプファイヤーの炎が近くに见える。彼は立ち上がり、服の汚れを払った。それから顔を上げた。   その时彼の目が直子の姿を捉えた。   彼女は炎から数メートル离れたところに立っていた。彼のほうに横顔を向けていた。手拍子はしていなかったが、目はステージに向けられていた。   そして彼女の横には相马春树の姿があった。二人の间隔は一メートルもない。   一瞬二人が手を繋いでいるように平介には见えた。だがそれは気のせいだった。直子は身体の前で両手を重ねていた。   ほかの生徒が休むことなく身体を动かしているのに、直子と相马だけは微动だにしなかった。この时间と空间を噛みしめているようだった。   平介は全く动けなくなっていた。声も出せない。   キャンプファイヤーの炎が激しく燃え上がり、直子と相马の顔を真っ赤に照らし出していた。炎がめらめらと动くたびに、二人の影も揺れた。   [#ここから7字下げ]   33   [#ここで字下げ终わり]   十二月に入って二度目の土曜日、杉田家に一つの荷物が届いた。大阪の日本桥《にっぽんばし》というところからだ。直子は学校に行っている。テニスの练习もあるので、夕方までは帰らない。平介は一阶の和室にその段ボール箱を持ち込み、ガムテープをはがして盖を开けた。中からはさらに二つの箱が出てきた。一つずつ开け、内容物を确认する。   一つはカセットレコーダーだ。大きさは掌《てのひら》に载る程度である。ふつうのレコーダーと违うところは音声感応式という点だ。つまり音や声が闻こえると自动的に録音が始まり、闻こえなくなるとストップする。会议や讲演を録音した场合でも、空録音がなくなるわけだ。   だがもちろん平介は、そんなものを録音するためにこの装置を注文したのではない。   もう一つの箱には、マッチ箱ぐらいの大きさの部品が入っていた。电子式テレフォンピックというものである。小さなコードが出ていて、先に差し込みジャックが付いている。电话用コード、电话用二股プラグが付属品として入っていた。   平介はそれぞれの取扱説明书を见ながら、まず家の电话用モジュラープラグを探した。それはリビングボードの横の壁にあった。前に古新闻が积んであるので、まずはそれを动かさねばならなかった。そのモジュラープラグに电话机のコードが差し込まれている。彼はいったんそれを抜き、代わりに二股プラグを取り付けた。それから改めて二股の片方に、电话机のコードを差し込んだ。さらに二股のもう片方のプラグには、付属の电话用コードを差し込む。   一方カセットレコーダーには电池とテープをセットする。その上でレコーダーのマイク用ジャックに电子式テレフォンピックを接続した。そのテレフォンピックに、先程の电话用コードの一端を繋ぐ。これで完了である。   平介は电话の受话器を取り、177とボタンを押した。天気予报のアナウンスが始まった。   「気象庁予报部発表の十二月十日午後一时现在の気象情报をお知らせします。现在东京地方に注意报警报は出ておりません……」   音声感応式カセットレコーダーが作动しているのを确认し、彼は电话を切った。巻き戻し、再生する。今闻いたばかりのアナウンスが、そのままスピーカーから闻こえてきた。彼は纳得し、テープを头まで巻き戻した。   リビングボードを少し前にずらし、壁との隙间にレコーダーとテレフォンピックを押し込めるようにした。さらに隙间が见えないよう、古新闻を积んでおいた。古新闻を処分するのは平介の仕事だ。直子がこれをどかすことはまずない。   彼は空き箱や段ボールを片づけた。これが见つかったらお话にならない。   卑劣なことをしている、という自覚はある。だが平介はこの电话盗聴のセットを雑志で见つけた时、注文せずにはいられなかった。大げさな言い方をすれば、これで救われる、とさえ思ったのだ。   直子が外で何をしているのか、どういう人间たちと付き合っているのか、どんな话をしているのか、気になって仕方がなかった。平介と一绪にいる时の直子は、彼がよく知るこれまでの彼女となんら変わるところがない。だがそれは彼女のほんの一面に过ぎないことが、このところ彼はわかってきた。   考えてみれば当然のことだ。彼女が平介に対して见せる顔は、彼の前でだけ通用するものなのだ。家を一歩出れば、杉田藻奈美として彼女は生きていかねばならない。   その外の顔のことを、今まで平介はあまり気にしたことがなかった。藻奈美のふりをして生きていようとも、彼女の本质は直子であり、直子は自分の妻であり続けると信じていたからだ。   その自信がぐらついている。いや、自信らしきものはすっかり消失しているといってもいい。平介は彼女を失うことを恐れていた。その可能性を感じるから怖いのだ。   盗聴セットの空き箱や段ボールを细かく切り刻み、新闻纸に包んでゴミ箱に舍てた时、家の玄関先で物音がした。邮便受けに何かが入れられる音だ。平介はすぐに玄関に向かっていた。   届けられた邮便物は三つだった。平介宛のダイレクトメールが一通、クレジットカード利用代金明细书が一通、そして残る一通が杉田藻奈美宛の封书だった。   藻奈美宛の封书の里を见た。かつて彼女が通っていた小学校名と第五十五期生同窓会干事という文字が并んでいた。小学校の同窓会が行われるのかもしれない。これはその案内状と思われた。   平介は部屋に戻り、三通の封书を卓袱台の上に置いた。そしてテレビをつける。   しかしすぐに藻奈美宛の封书が気になりだした。本当に単なる同窓会の案内だろうか、いや同窓会は同窓会でも、大规模なものではなく、亲しい者だけが集まる程度のものかもしれない。   彼は封书に书かれた文字を见つめた。明らかに男の字だった。   同窓会という名を借りて、高校生の男子がコンパを计画したということじゃないのか、という気がしてきた。小学生时代の记忆を辿り、あるいは卒业アルバムを见るなどして、美人女子高生に変身していそうな女子に目星をつけ、片っ端からこういう手纸を出しているのではないか。いかにも色欲のことしか考えていない高校生のやりそうなことだった。   ひとたびそういう想像が働くと、平介はほかのことを考えられなくなってしまう。彼は台所に行き、薬缶で汤を沸かし始めた。   どうかしている、と自分でも思う。だが気持ちを抑えることができなかった。   薬缶の口から汤気が上がりだした。平介は封筒を持ってきて、糊付けされている部分に蒸気をあて始めた。たちまち纸が湿り始める。   十分に糊が溶けたと思われたところで、爪の先を使い、慎重に封を剥がしていった。间もなく封筒の口は完全に开いた。   中には折り畳まれた纸が二枚入っていた。どちらもB5のコピー用纸だった。一枚は地図をコピーしたもので、どこかの公民馆への道顺が描かれていた。もう一枚はやはり同窓会の案内状だ。ただし平介が想像したようなものではなく、五十五期生全体の同窓会だった。教师も何人か参加するようなことが书いてある。   これなら问题はなさそうだなと思い、平介は纸を封筒に戻した。そしてもう一度蒸気をあてて糊を溶かし、封印し直した。   直子に来た手纸を无断で开けるのは、これが初めてではなかった。今までに二度、今日と同じことをしていた。平日でも直子の帰りが遅い时などは、彼のほうが邮便物を取る。   最初に开けたのは直子の中学时代の友达から送られてきた手纸だ。女の子だった。内容も特に问题はない。高校が别々になってしまったけれど元気にしていますか、という程度のものだった。   その手纸にしても差出人が女の子であることは封筒を见ればわかった。だが平介はその封筒に怪しい雰囲気を感じずにはいられなかった。奇丽な封筒、女の子らしい文字。それらに作为的なものを感じた。男ではないか。あの相马春树からの手纸ではないか。冷静に考えればそんなことはありえないはずだったが、直子のこととなるとその冷静さを平介は欠いてしまう。   その结果、封筒を开け、中を见てしまった。そして自分の思い描いたことが全くの邪推に过ぎなかったことを确认した。自己嫌悪は感じた。だがそれよりも安堵感のほうが大きかった。   二通目を开封した时は、もっと马鹿げていた。それは百科事典のチラシを入れたダイレクトメールだったのだ。しかし少しでも受け取り人の気を引こうと、封筒をまるで私文书のような体裁にしてあった。差出人のところには、社长の名前がまるで手书きのような字体で印刷してあった。もちろん出版社名も横に书いてはある。ところが平介は男の名前にばかり目がいき、头に血を上らせた状态で封筒を开けた。カラー写真をふんだんに使った百科事典のチラシを见た时には、あまりの马鹿马鹿しさに、さすがに一人自嘲した。   そして三通目が同窓会の案内状だ。   罪悪感はある。しかし直子に関わる何らかの文书が封印されたまま置いてある状态というのは、平介にとっては耐え难いものだった。中を见て楽になるという方法を知ってしまったために、余计に我慢ができない。一种の麻薬といえた。   その中毒症状は手纸だけに留まらない。   じつは最近平介は直子の留守中に、何度か彼女の部屋に入っていた。机の引き出しの中を调べ、本棚に差してあるノート类を全部开いてみた。理由は手纸を开けるのと同じだ。彼女のことを知っておきたい一心からである。   もしかすると直子は日记を书いているんじゃないか、と思いついたのがきっかけだった。平介の头の中には、女子学生というのは日记をよく书くものだ、という思いこみがあったのだ。そんなことを考え始めると、もうじっとしていられなくなる。ついにはあるかどうかもわからない日记を探すため、部屋に忍び込んだというわけだった。   日记は见つからなかったが、平介は直子の部屋のどこに何があるかは完全に把握するにいたっていた。アドレス帐の内容は别の纸に写し终えているし、カレンダーに书き込まれた予定なども平介の手帐に书き込み済みだ。彼女の次の生理予定日がいつかも、ナプキンをどこに买い置きしてあるかも彼は知っていた。   しかしそれでも彼の不安は一向に解消されない。彼を悩ませる最大のものは、やはり电话だった。   电话はいつも遅くとも九时半までにかかってきた。そして十时までには切られていた。かけてきているのは相马春树だろう。彼は遅い时间に电话したことについて谢ったが、电话すること自体は悪いとは思っていないようだった。   それに加えて気になることがある。どうやら直子のほうからも电话をしているようなのだ。毎月の电话料金を子细に観察してみて判明したことだった。   そこで彼は电话がかかってこない日には、なるべくこまめに电话机をチェックすることにした。彼女から电话をかけた场合にも、『子机使用中』のランプが点灯するはずだからだ。ところがこれまで彼は、电话がかかってきた时以外で、そのランプが点いているのを目撃したことがない。すると彼女からはかけていないということか。しかしそれでは电话料金との矛盾が解决しない。平介は自分からはめったに电话をかけないのだ。   考えられるのは、平介の留守中にかけているということだ。彼が残业で遅くなった时、休日出勤する时、床屋に出かけた时などだ。さらにもう一つ、留守ではないが平介に気づかれずに电话をかけられる时がある。彼の入浴中だ。风吕好きの彼は、最低でも三、四十分は风吕场から出てこない。その间ならば、心置きなくおしゃべりができる。   そのことに気づいて以来、彼は长风吕の习惯をやめた。身体を洗ったら、ろくに汤船に浸かりもせずに浴室から出るようになった。   しかしそれでは问题解决にはならなかった。彼を苦しめているのは彼女が电话をしていること自体ではない。彼女たちがどんな话をしているのかがわからないから、不安で胸がいっぱいになるのだ。   电话の盗聴セットを広告で见た时、これで救われると思った背景には、こうした事情があった。   平介は时计を见た。午後四时半になっていた。そろそろクラブの练习が终わる顷だ。   今日は少し寒いから『ゆきんこ』あたりか――。   札幌ラーメンの店を彼は思い浮かべた。直子の通っている高校のそばにある。彼女がよくその店に行くということを、平介は彼女の部屋のゴミ箱に舍ててあったレシートから知った。『ゆきんこ』のほかには、お好み焼きの『味ふく』、吃茶『くるる』などのレシートも见つかっている。ほかにも店はあるのだろうが、高校生相手ではレシートを出さないところのほうが多いかもしれなかった。   もし『ゆきんこ』なら、たぶん味噌チャーシューだな――。   それが直子のお気に入りメニューで、六百六十円だということも彼は知っていた。   [#ここから7字下げ]   34   [#ここで字下げ终わり]   汤船にゆったりと浸かり、鼻歌を一曲歌ってから外に出た。绞ったタァ‰で全身を拭き、浴室を出てからバスタァ‰でさらに念入りに髪や身体の水気を取った。ヘアトニックを付け、ドライヤーで髪を乾かしてからパジャマを着て、ようやく脱衣室を出た。和室に戻って时计を见る。约四十五分を入浴に费やしていた。   电话を见ると『子机使用中』ランプは消えていた。しかしリビングボードの里に隠してあるレコーダーからテープを取り出すと、やはり録音が成されていた。平介が风吕から出る物音を闻いて、电话をきったのだろう。风吕场のドアを开闭する音が意外に大きいということに、彼は最近気がついた。すぐそばに阶段があるので、伝声管の原理で二阶にもよく闻こえるのだ。   平介はテープを持って二阶に上がった。当然のことながら、直子の部屋から话し声は闻こえてこない。电话を终え、今は机に向かって勉强中なのだろう。   彼は寝室に入り、本棚に载せてあるウォークマンを手に取った。盖を开け、テープを入れる。イヤホンを耳に突っ込み、テープを巻き戻す。   これを闻くのが毎日の楽しみの一つになっていた。盗聴を始めて一周间になる。直子が电话で谁とどういう会话をしているのか、大体わかってきた。   安心したことがある。この一周间に関していえば、相马春树からの电话は一度もなかった。直子のほうから彼にかけたこともない。频繁に电话をかけてくるのは、笠原由里絵というクラスメイトだった。どうやら直子の一番の亲友ということらしい。直子からかける相手も、大抵はその女子だった。   クラスメイトにかけるのならば、何も俺の入浴中を狙わなくてもいいじゃないかと平介は思ったが、すぐにそれが直子の気遣いによるものだと気づいた。平介が余计な心配をすることを、彼女は避けているのだ。   直子と笠原由里絵の会话は、部外者にとっても楽しく面白いものだった。笠原由里絵が教师や男子の悪口をいうのを直子が笑って闻いているというパターンが殆どなのだが、辛辣を极めた由里絵のけなしっぷりは见事というほかなく、闻いていて嫌な気分になるどころか、むしろ痛快という感じだった。   彼女たちの会话には学校での情报も多く含まれていた。それによって平介は、菅原という男性教谕がサディスティックなほど生徒に校则を守らせようとする反面、いくつかのクラスにいる自分のお気に入りの女子生徒には异様に驯れ驯れしくすることや、森冈という男子生徒が别の高校の女子生徒を妊娠させたという噂が流れていることなどを知った。毎年东大に何人も送り込んでいる进学校でも、内部にはいろいろと病巣を抱えているものなのだなと再认识した。   テープが头まで戻ったので、早速再生ボタンを押した。今日はどんな话が闻けるのかとわくわくする。   (……しもし、杉田ですが)   まず直子の声がした。电话を受けたという感じだから、向こうからかかってきた电话らしい。   (あ、もしもし、俺だけど。相马)   かっと身体が热くなった。ついにあの男から电话がかかってきた。全くかけてこなくなったわけではなかったのだ。   (ああ、こんばんは)   (今、大丈夫かな)   (うん、平気。お父さん、お风吕に入ってるから)   (やっぱりそうなんだ。モナのいったとおりだね。すっげえ正确)   (长年の癖なんだね、きっと。本人は意识してないかもしれない)   (えっ、九时半に风吕に入ること?)   (うん。ほら、プロ野球のシーズン中は、大体九时半ぐらいまでナイター中継があるじゃない。本来は九时までのところを三十分延长しちゃってさ。いつもその中継が终わってからお风吕に入るから、その习惯が身についちゃってるんじゃないのかな)   (ふうん、そうなのか。面白いね)   そういえばそうかな、と平介は思った。たしかに风吕に入るのは、いつも九时半顷だ。直子が指摘しているように、ナイターが终わったらすぐに入るようにしている。それがプロ野球シーズンが终わった後も続いているというのは、全く意识していなかった。   そして会话を闻くかぎり、それでどうやら直子は相马に、电话するなら九时半を过ぎた顷にしてくれといっていたようだ。   二人の话はテニス部のことに移る。ほぼ毎日クラブで会っているのならば、わざわざ电话で话すこともないだろうと思えるような内容だ。   直子が先辈の相马に対して敬语を使っていないことも平介を苛立たせた。いつの间にそんなに亲しくなったのだという思いが、胸に沸き上がる。   (ええと、ところでさ、あのこと考えてくれた?)   相马が声の调子を落としていった。   (イブのこと?)   (うん)   (考えたけど……)   直子が口ごもる。平介はイヤホンをしていないほうの耳を塞いだ。闻き逃してはならない会话だと直感していた。イブとはクリスマスイブのことだろう。   (何か予定があるの?)   (そうじゃないんだけど)   (だったらいいじゃないか。ふだん一度もデートしてくれないんだからさ、クリスマスイブぐらいは俺の頼みをきいてくれよ)   どうやらイブにデートしようと诱っているらしい。平介の头に血が上った。生意気な。ガキのくせに。心臓の鼓动が速くなる。   (でも毎日会ってるんだから)   そうだ。それで十分だ。平介は心の中で呟く。   (俺のこと、嫌いなわけ?)   (そういう问题じゃないよ。だから前からいってるじゃない。あまり家を空けられないんだって)   嫌いだといってやればいいじゃないか、と平介は思った。   (それはわかってるよ。モナが家のことをしなきゃならなくて大変だってことは知ってるよ。でもさあ、一日ぐらい何とかならないか。モナにだって、自分の时间を楽しむ権利があるはずだぜ)   平介は拳を握りしめていた。ガキのくせに何をいってやがる。おまえに何がわかる。   (みんな、俺たちは付き合ってると思ってるよ。时々讯かれるんだぜ。どこにデートに行くんだとか、二人で何して游ぶんだとか。デートなんかしてないっていったら、みんな変な顔するよ。俺、そんな时结构みじめなんだぜ)   胜手にみじめになってろ――。   だから、と直子はいった。   (そういう付き合いがしたいのなら、ほかの女の子を诱ってあげてくださいと、前からいってるじゃない)   (またそれかよ。そんなふうに、あっちがだめならこっちっていうふうに、ころころ変えられると思ってんのかよ。俺だって、真剣にモナのことを考えてるんだぜ)   直子が黙り込んだ。その沈黙が平介を焦《じ》らせた。若者の言叶に、直子の心が揺れているように思われた。   (イブの予定、俺、もう立ててあるんだ。どこへ行くかとか、どこで食事するとかも、决めてある。予约しとかなきゃいけないからさ)   (困るよ……)   (俺は最後まで谛めないよ。だからモナも、もう少し考えてくれないか。前向きにさ)   (うん……)   なぜきっぱり断らないんだ、と平介は歯ぎしりする思いだった。もう电话してくるなといえば済むことじゃないか――。   (ところでさ、さっきテレビ见てたら、すっげえ変な动物が出てきてさ)   気まずいまま电话を切りたくなかったからか、相马のほうから话题を変えた。直子も调子を合わせて相槌を打つ。そんな会话が数分続いた後、お父さんがお风吕から上がったみたい、という直子の台词をきっかけにして电话は切られた。   クリスマスイブまでの一周间、平介は何も手につかなかった。会社にいても、仕事のことなど全く考えられなかった。幸い年末ということで、职场全体が仕事纳めの雰囲気である。そうでなければ、しょっちゅう上の空になっている平介は、上司の小坂あたりから小言をくっていたかもしれなかった。   彼の头の中を占めていることはただ一つ、直子はどうするつもりなのか、ということだった。あの夜以来、相马春树は电话をかけてきていない。だから二人の话し合いがどのように落ち着いたのか、彼は知らなかった。もしかしたら学校で话をしているのかもしれないが、たぶんそれはないだろうと踏んでいた。どうやらテニス部の练习中は、なかなか自由に话をできないらしいというのが、前回の电话を盗聴して感じたことだった。   それを里づけるように、直子もこの一周间、様子がおかしかった。ぼんやりしていて、话しかけても返事しないことが多い。たぶん相马の诱いをどう処理するか、悩んでいるのだろう。   おそらく彼女の中には、以前の直子のままの部分と、十五歳の少女としての部分が、微妙に混在しているのだろうと平介は想像していた。大人の部分は现実を理解し、自分がすべきことを冷静に判断できる。ところが少女の部分は、他のふつうの少女たちと同様、极めて不安定な精神しか持ち合わせていないのだ。それが彼女を迷わせているに违いないと平介は考えていた。   そしてイブを明日に控えた十二月二十三日、相马から电话がかかってきた。例によって二人のやりとりを、平介は寝室にあるウォークマンで闻いた。   (明日、四时に新宿纪伊国屋の前で。いいね)   相马の声には思い诘めたような响きがあった。それが妙に圧力を感じさせる。   (ちょっと待って、あたし、やっぱり行けないよ)   (どうして? お父さんの许可が必要なら、俺から頼んでみるよ)   (そんなことしても无駄だから)   (なんでだよ。やってみなきゃわかんないじゃないか)   (とにかく明日はだめなの)   (用事があるわけじゃないんだろ)   (用事があるの。どうしても家を空けられないの。ごめんなさい)   (嘘だ。モナは嘘をついてる。ごまかそうとしても无駄だぜ)   直子が言叶に诘まった。そんなところがまたしても平介の神経を苛立たせる。   (俺、待ってるよ。四时に纪伊国屋の前で待ってる。来たくないなら、来なくていい。だけど俺はずっと待ってるから)   (そんなこといって、困らせないでよ)   (困ってるのは俺のほうだぜ。一体モナが何を考えているのか、全然わからない。だからもう考えることはやめて、自分のしたいようにすることに决めたんだ)   (あたし、行けないから)   (それでいいよ。だけど俺は行く。四时だからな)   直子にいい返す时间を与えず、相马は电话を切った。もしかしたらこの後直子のほうから电话をかけたかもしれないと思い、平介はテープの再生を続けたが、それ以後は何も録音されていなかった。   平介はウォークマンを片づけると、寝室を出た。少しためらってから直子の部屋をノックした。はい、という返事。心なしか沈んで闻こえる。   「入るぞ」といいながら彼はドアを开けた。   直子は机に向かっていた。一応前にノートと参考书を置いている。だが勉强していたとは限らない。   「今日はまだ勉强が残ってるのか。下でお茶でも饮まないか」   「ああ……今はいらない。珍しいね、こんな时间にそんなことをいいだすなんて」   「そうかな。なんだか、ちょっとそういう気分になったんだ」   「电子レンジの上に、バームクーヘンが置いてある。贳い物だけど、よかったら食べて」   「ああ、じゃあそうするかな」平介は廊下に戻りかけて振り返った。「明日はイブだな」   「そうだね」直子はすでに机のほうを向いていた。   「何か予定はあるのか?」   「うん……特にはないけど」   「そうか。それなら夜はどこかへうまいものでも食いに行くか」   「明日はたぶんどこも一杯だよ。イブだし、土曜日だし」   「じゃあ寿司でもとろう。和风のクリスマスだ」そういって彼は部屋を出ようとした。それを直子が、「あっ、ちょっと待って」と呼び止めた。   どうした、と彼は讯いた。   「明日、もしかしたら出かけるかもしれない」远虑がちに直子はいった。   「どこへ行くんだ」頬がひきつるのを平介は感じた。   「友达から买い物に付き合ってくれっていわれてたの。まだはっきりとはわからないんだけど……」   「ふうん」   平介には直子の考えていることがよくわかった。たぶん彼女自身、どうすればいいのかまだ决心がつかないでいるのだ。それで万一の场合には出かけられるように、布石だけは打っておこうということだろう。   「出かけたら、帰りは遅くなるのか」   「そんなことはないと思う。すぐに……そうね、一、二时间で帰ってくるつもり」   「そうか」平介は颔いて部屋を出た。   一、二时间と闻いて、平介は少し安心した。とりあえず待ち合わせ场所に行ってみるとしても、吃茶店で话をする程度で帰ってくるつもりなのだろう。   それでもこの夜、平介はなかなか眠れなかった。直子を相马春树のもとへ行かせることには、重大なリスクを伴うように思えた。彼女の心の奥底に封印されている何かが、突然表面に出てくるのではないかという気がするのだ。   なかなか眠れなかった、というのは适切ではない。平介は殆ど眠らずに、クリスマスイブの朝を迎えた。   この日デートを予定しているカップルたちを祝福するように、空は朝から晴れ渡っていた。狭い庭に强い日が差すのを眺めながら、平介は直子が作った焼き饭を食べた。昼食を兼ねた遅い朝食である。夜中は眠れなかったにもかかわらず、すっかり夜が明けてからうつらうつらしてしまい、结局布団から出たのは十时过ぎだったのだ。   「今日は出来れば物置の扫除がしたいな」食後の茶を饮みながら平介はいった。「不要なものが、かなりたくさん入ってるはずだ。燃えないゴミの日は、年内あと一回だろう。今日中にまとめておいたほうがいい」   「でも物置に入ってるのは大型ゴミばかりじゃないかな。燃えないゴミの日でも、出すわけにはいかないわよ」   「それでもいいじゃないか。今片づけておけば、今度舍てる时に楽だろう」   「すぐに舍てられないものが外に出ちゃうと、みっともないじゃない。お正月だってくるし。年末だからって、そう大扫除みたいなことをしなくていいよ」直子は空になった平介の汤饮み茶碗に、急须で茶を注いだ。   「そうかな」平介は茶を啜った。彼にしても、特に今日扫除をしたいわけではない。直子を家に钉付けにしておく理由が欲しかっただけだ。   物置のことを考えていて、ふと头に闪いたことがあった。   「あれどこへやったかな。ツリー。クリスマスツリー。藻奈美が小さかった顷に买ってやったじゃないか」   「ああ、あれ。さあ、押入の中じゃないの?」   「ここか」そういって平介は立ち上がり、押入の袄を开けた。   「何するの? あんなもの、出さなくていいよ」   「なんでだよ。せっかくのイブなんだから出そうや」   押入の中には、段ボール箱や衣装ケース、纸袋などが、かなり乱雑に押し込められていた。平介はそれらを手前から顺番に出していき、畳の上に置いていった。直子は眉をひそめたまま、彼のすることをじっと见ている。   奥から细长い段ボール箱が出てきた。盖からぴかぴか光る纸がはみ出ている。   「见つけた」平介はその箱を开けた。枞の木の模型や、饰り付け用の部品が入っていた。   「本当にそれ、饰るの?」   「饰るんだよ。いけないか」   「别にいけなくはないけど……」   この时直子がちらりと时计に目をやるのを平介は见逃さなかった。正午を少し过ぎたところだった。   约一时间かけて平介はツリーを组み立てた。それをリビングボードの上に置いた。   「クリスマスらしくなってきたな」   「そうね」台所で洗い物をしていた直子は、ちらりと见ていった。   「なあ、ちょっと出かけないか」   平介の言叶に、彼女はぎくりとしたように背中を伸ばした。   「出かけるって、どこに?」   「买い物に行こうや。このところ新しい服を买ってないだろう。买ってやるよ。クリスマスプレゼントだ。ついでにケーキも买って帰ろう。せっかくツリーも出したんだから、本格的にそれらしくやるのもいいじゃないか」   しかし直子はすぐには返事しなかった。立ったまま、流し台の中をじっと见つめていた。やがて彼女はゆっくりと向きを変え、和室に入ってきた。   「昨日もいったけど、今日あたし、ちょっと出かけなきゃいけないの」   「だけど、まだどうなるかわからないといってたじゃないか。友达からも连络は来てないみたいだし」   「あたしから连络することになってるの。だから、そろそろ电话しなきゃ」   「断れよ。行けなくなったって」   「でも、あたしのことをあてにしてたみたいだから」   「买い物に付き合うっていうだけだろ。ほかの友达を诱うさ」   「だけど……とにかく电话してから」直子は和室を出ていった。二阶で电话をするつもりらしい。   「ここでかけろよ」と平介はいったが、直子は阶段を駆け上がっていった。声が闻こえなかったはずはなかった。   彼は电话机を见つめた。『子机使用中』のランプが点灯している。実际にどこかへ电话しているようだ。相马の家かもしれないと平介は思った。   电话は数分で终わった。すぐに直子が下りてきた。   「やっぱりあたしに一绪に行ってほしいって。すぐに帰るから、ちょっと行ってくる」   「谁なんだ、友达って」   「由里ちゃんよ。笠原由里絵ちゃん」   「どこまで行くんだ」   「新宿。三时に待ち合わせたから」   「三时?」   「そう。だから、そろそろ支度しなきゃ」直子は再び二阶に上がっていった。   平介は首を捻った。昨日の相马からの电话では、四时に新宿纪伊国屋前だといっていた。やはり今かけた先は相马のところで、时间をずらしたのか。   今の电话も録音はされているはずだった。平介は闻きたい冲动に駆られた。しかしレコーダーを取り出しているところを、万一直子に见られたら大変だった。   直子は二时过ぎに出かけていった。赤いセーターの上に、黒のフード付きのコートを羽织っていた。うっすらと化粧していることに、平介は気づいた。   彼女が出ていってしばらくしてから、平介はレコーダーを取り出した。そのままテープを巻き戻し、再生スイッチを押した。   (はい、笠原ですけど)   (あっ、由里ちゃん? あたし)   (あ、藻奈美。どうしたの、こんな変な时间に)   (ちょっと頼みがあるんだけど、きいてくれる?)   (何? なんかまずいことでもあったの?)   (まずいっていうか、これからまずくなるかもしれない)   (えっ、どういうこと)   (じつはね、あたしこれから出かけなきゃならないんだけど、由里ちゃんの买い物に付き合ったっていうことにしてほしいの)   (ははーん、アリバイか)   (ごめん。うちのお父さんが由里ちゃんに电话でたしかめることは、たぶんないと思うんだけど)   (わかった。今日はあたし、电话に出ないようにするよ。ママにも説明して、藻奈美のお父さんから电话がかかってきた场合のことを考えとく。うちのママは、そういうところ、わりと融通がきくんだ)   (ごめんね。迷惑だと思うんだけど)   (今度何かおごってくれればいいよ。それより、がんばりな)   (えっ、どういう意味?)   (とぼけなくてもいいよ。イブにアリバイ工作を頼まれりゃあ、どういう事情かはわかるって。だけど頼まれるほうのあたしはみじめだね)   (本当にごめん)   (そんなに谢らなくてもいいよ。ぐずぐずしてるとデートに遅れるよ)   (うん、じゃあね)   电话はここで切れていた。   直子は今日の外出について平介が疑いを抱くことを予想していた。それでも出かけていった。相马春树に会いたいからなのか、いつまでも待っているといった彼の台词が気になったからなのかは平介にはわからない。たしかなことは、彼女の心を占める割合が、今日に関していえば、平介のことよりも相马春树のことのほうが大きいということだ。   平介は胡座をかき、腕组みをした。その目を时计に向けた。   不吉な思いが、彼の心を侵食していった。直子を失うのではないかという恐怖が、巨大な影が覆い被さるように彼を包んだ。   小一时间、平介はそうしていた。暖房は全く入っていなかったが、寒さを全く感じなかった。额から汗さえ流していた。   彼は立ち上がった。阶段を駆け上がり、急いで寝室で着替えた。   新宿駅には三时五十分に着いた。平介は足早に纪伊国屋を目指した。まだ四时前だからといって安心はできない。二人が出会ってしまえば、その场を离れてしまうだろう。   纪伊国屋前に着いたのが三时五十五分。平介は少し离れたところから眺めた。有名书店の前は、待ち合わせをしている人が多い。特に今日は若者ばかりだ。   四角い柱のすぐそばに、见覚えのある青年が立っていた。长身に浓绀のダッフルコートがよく似合っている。手に持っている纸袋には、おそらくプレゼントが入っているのだろう。ややうつむき加减で元気がなさそうに见えるのは、相手が现れないかもしれないと思っているからか。   その青年がわずかに顔を上げた。切れ长の目が何かを捉えたようだ。彼の表情はみるみる明るくなった。   平介は青年の视线を辿った。その先には直子の姿があった。彼女はややはにかみながら彼に近づいていく。高校一年生、十五歳の表情だ。   平介は歩きだしていた。大股で、一直线に相马春树に近づいていった。   青年が一歩前に出た。直子は小走りになる。二人の距离は五メートルほどになった。それが四メートルになり、三メートルになった。   直子は何かいおうと口を开きかけた。「待った?」とでもいいたかったのかもしれない。しかしその言叶は発せられなかった。その前に彼女の目が平介を捉えたからだ。   时间が止まったように直子は足を止めた。全身を、顔を、そして表情を硬直させた。   平介は黙って近づいていく。やがて相马春树も异変に気づいた。人形の首が回るように、彼は平介のほうを向いた。   波纹が広がるように、惊きの色がゆっくりと顔に现れた。   [#ここから7字下げ]   35   [#ここで字下げ终わり]   こういうワンシーンを何かの映画で见たような気がしていた。もしかしたらそれは错覚で、今この局面を、平介の中に潜む别の人格が客観视しているのかもしれなかった。   周りに大势の人间がいるはずなのに、平介の目には直子と相马の姿しか入っていなかった。あるいは彼等二人もそうなのかもしれない。二人とも全く动かず、自分たちに向かって歩いてくる中年男の顔を凝视し続けていた。   平介は立ち止まった。三人の位置関系がほぼ正三角形になった。   「お父さん……」最初に声を発したのは直子だった。「どうして……」   いくつかの疑问を含んだ「どうして」だった。どうしてここで二人が会うことを知っていたの? どうしてここへ来たの?   平介は彼女の质问には答えず、青年の顔を见つめた。   「相马君……だったね」   はい、というように相马春树の唇は动いた。しかし声は出てこなかった。   「クリスマスイブに、うちの娘をデートに诱ってくれてありがとう」平介は軽く头を下げた。それからまた相马を见た。「でもね、せっかくだけど、藻奈美は君とは付き合えないんだ。デートもさせるわけにはいかない」   相马は目を见开いた。そのままの顔を直子のほうに向けた。   平介も彼女を见た。彼女は二人の视线を交互に受けとめてから、黙って下を向いた。唇を噛んでいた。   「そういうことだから、すまないけど藻奈美は连れて帰らせてもらうよ」   平介は直子の後ろに回り、腰のあたりを掌で軽く押した。彼女は全く抵抗しなかった。押された方向に一歩二歩と足を踏み出した。   「待ってください」相马が呼び止めてきた。「なぜですか。なぜだめなんですか」   平介は青年のほうを振り返った。説明してあげたい気はある。だがそれはできない。いや、仮に説明したところで彼には理解できないだろう。からかわれていると思い、腹を立てるに违いなかった。   「世界が违うんだよ」仕方なく平介はいった。「私や娘が生きている世界と、君のいる世界は、全く别物なんだ。だから交わってもうまくはいかないんだ」   平介は直子の背中に手を回して歩き始めた。直子は绵菓子のように軽かった。   相马がどんな顔で自分たちを见送っているのか、平介には全く想像がつかなかった。呆然としているか、怒っているか、それともまだ何が起きたのか把握できないでいるか。いずれにしても自分のすべきことは、一刻も早くここから立ち去ることだと思った。   直子は梦游病者のようだった。歩くことも立ち止まることも、彼女は自分の意思ではしなかった。ただ平介と同じように动いているだけだ。それは电车に乗っている时も同様だった。一言も口をきかず、焦点のさだまらぬ目をぼんやりと斜め下に向けているだけだった。   彼女がデパートの包みを持っていることに平介が気づいたのは、二人の降りるべき駅が近づいてからだった。それが何であるか寻ねるまでもなかった。彼女がなぜ待ち合わせ时刻よりも一时间も早めに家を出たのかを平介は理解した。相马春树へのプレゼントを买うためだったのだ。   虚ろな表情のままの直子を连れ、平介は自宅に帰ってきた。玄関のドアを开ける时、隣の主妇の吉本和子が挨拶してきた。平介は笑顔で応じたが、直子は无表情のままで、吉本和子のほうを见もしなかった。吉本和子は怪讶そうな顔をしていた。   家に入ると、直子はのろのろと靴を脱ぎ、重い足取りで廊下を歩いた。そのまま阶段に向かいかけたのは、自分の部屋に闭じこもりたかったからだろう。平介はそれを止める気はなかった。しばらくは一人にさせておくつもりだった。   ところが阶段のすぐ手前で彼女は立ち止まった。それまではうなだれていたのに、突然顔を上げた。   どうした、と平介が声をかける暇もなかった。直子は持っていたバッグや纸包みをその场にほうり出し、和室に入った。部屋の中央に立つと、リビングボードを见下ろした。   平介は和室の入り口に立ち、彼女を见ていた。何をする気なのか全くわからなかった。   直子はリビングボードに近づき、电话机を本体ごと掴んだ。持ち上げると、コードが壁との隙间からずるずると出てきた。彼女はリビングボードの横に积んである古新闻を乱暴にどかした。チラシの束が崩れて畳に落ちた。   彼女が何をやろうとしているのか、平介は察知した。まずいと思った。しかし身体は动かず、ぼんやりと彼女の动きを见ているだけだった。もはや今さら彼女を止めようとしたところで手遅れだということもわかっていた。   ついに直子は目的のものを见つけたようだ。リビングボードと壁の间に指を突っ込み、例のカセットレコーダーを引っ张り出してきた。   「何よ、これ……」黒い机械を手にし、直子は呟くように讯いた。それから徐々に顔を歪めていき、今度は叫んだ。「何よこれっ」   平介は答えられない。ただ立っているだけだ。   直子はレコーダーを操作した。巻き戻しボタンを押し、一旦止めてから再生ボタンを押す。スピーカーから声が闻こえてきた。   (はい、笠原ですけど)   (あっ、由里ちゃん? あたし)   (あ、藻奈美。どうしたの、こんな変な时间に)   (ちょっと頼みがあるんだけど、きいてくれる?)   (何? なんかまずいことでもあったの?)   (まずいっていうか、これからまずくなるかもしれない)   直子は停止ボタンを押した。その手が震えているのが平介にもわかった。   「こんなことしてたのね」声も震えていた。「いつから?」   「二周间……」喉に痰がからんだ。平介は咳払いしてからもう一度いった。「二周间ぐらい前からだ」   直子は苦渋を顔に浮かべた。   「おかしいと思った。だって今日のことをあなたが知るわけないんだもの。でもまさか、こんなことしてたなんて……」   「おまえのことが気になったからだ」   「だからって、こんなことしていいわけないでしょうっ」直子はレコーダーを畳に叩きつけた。盖が开き、中のテープが飞び出した。「あたしにだってプライバシーってものがあるのよ。こんな……こんな卑劣なことして耻ずかしくないのっ」   「じゃあ讯くが、俺に嘘をついて男に会いに行くのは卑劣じゃないのか。悪いことじゃないのか」   「それはあなたに余计な心配をさせたくないからよ」   「いい加减なことをいうな。そんな言い方が通るなら、ばれなきゃ浮気してもいいってことになるじゃないか」   「そうじゃないのよ。あたし、今日相马さんとデートする気なんかなかった。あなたも盗み闻きしてたなら知ってるでしょ。彼は今日、いつまででも待ってるっていったのよ。そんなことさせたくなかったから、とりあえず待ち合わせ场所まで行ってみることにしたの。プレゼントを渡したら、その场ですぐに别れるつもりだった。そうでもしないことには、彼の気が済まないと思ったからよ」   「待ちぼうけをくわせりゃよかったじゃないか。そのほうが话が早い」   「そんなことできないわよ。待ってることがわかってるのに」   「そもそもなんでそういうことになったんだ。あんな奴と亲しくするからだろう。思わせぶりに色目を使ったりするから、あいつもその気になってしまうんだ。最初から相手にしなけりゃよかったんだよ」   「あたしはふつうにしてただけよ。话しかけられたら答えるし、电话がかかってきたら话すわよ。それのどこがいけなかったのよ」   「おまえはふつうにする権利なんかない」平介はいい放った。   直子が惊いたように目を开いた。呼吸の荒くなっているのが肩の揺れでわかった。   彼女の目を见つめながら平介はいった。   「いいか、おまえは俺の女房なんだぞ。姿形は藻奈美のものでも、おまえが俺の妻だっていう事実からは逃げられないんだからな。おまえは若い身体を手に入れて、もう一度人生をやり直せるような気になっているようだけど、それはあくまでも俺の许せる范囲内だってことを忘れるな」   直子は畳の上にしゃがみこんだ。ぽたぽたと涙が落ち始めた。   「忘れてないわよ」   「いや、忘れてる。忘れようとしている。俺は今でも、おまえの夫のつもりだぞ。だからおまえのことを里切っちゃいけないと思ってる。浮気だってしてない。再婚のことだって考えてない。小学校に桥本という先生がいただろう。俺はあの人のことが少し好きだった。交际したいと思った。だけど结局、电话すらしなかった。なぜだと思う? おまえを里切りたくなかったからだ。俺はおまえの夫だと思ったからだ」   平介は両手を握りしめ、直子を见下ろしていた。重い沈黙が狭い和室にたちこめている。彼はごうごうという奇妙な音を闻いた。トンネルに风が吹き抜けるような音だ。それが自分の発する呼吸音だということに、しばらくしてから気づいた。   直子が立ち上がった。壊れた操り人形の糸を、ずるずると引き上げたような立ち方だった。黙ったまま、彼女は部屋を出た。家に帰ってきた时よりもさらに頼りない足取りで、阶段を上がっていった。   平介は座り込んだ。虚しさが、どんよりとした雨云のように胸に広がっていた。进むべき道が见つからず、然りとて後戻りもできないという絶望感に袭われていた。   彼はカセットレコーダーとテープを拾った。しかしそれを再びセットする気にはとてもなれなかった。リビングボードの脇に手を突っ込み、コードをプラグから外した。   どこかから奇妙な音が闻こえてきた。笛のような音だ。平介は耳をすませながら廊下に出た。   それは阶段の上から闻こえてくるのだった。笛の音ではなくすすり泣く声だった。   [#ここから7字下げ]   36   [#ここで字下げ终わり]   年が明け、一月も半ばを过ぎていた。久しぶりにインジェクタ工场を覗いた平介は、休憩所で班长の中尾に会うなり、「平さん、痩せたんじゃないか」といわれた。   「えっ、そうかな」平介は自分の頬を触った。   「痩せたよ。なあみんな」   中尾の问いかけに、そばにいた连中も颔いた。   「顔色もあんまりよくないし、どこか悪いんじゃないか。医者に诊てもらったほうがいいよ」と中尾はいった。   「别に身体の具合は悪くないんだけどな」   「それがいけないんだ。自覚症状が出たらおしまいだよ。悪いこといわないから、医者に行きなって。もう歳なんだからさ」   「うん、まあそれはわかってるけどさ」平介は頬を抚で続けた。   痩せたかもしれないな、と彼は思った。心当たりはあった。ただし病気ではない。理由は简単だ。最近、あまりまともに食事をとっていないのだ。   食事にありつけないわけではない。帰れば夕饭が用意されているし、休日には朝昼晩ときっちり料理が出る。ただ、食が进まなかった。直子と一绪にいると、胸が诘まって何も食べられなくなるのだ。   あのクリスマスイブ以来、直子はめったに口をきかなくなった。表情すら変えなくなった。家事をする时以外は部屋に闭じこもり、何时间でも出てこなかった。   自分の前でだけそうなのかと平介は思っていた。ところがそうでないことを最近知った。学校の担任教师から电话がかかってきて、藻奈美さんは身体の具合でも悪いのではないかと寻ねられたのだ。精気がないのは学校においても同じらしい。また彼女は、年明け早々にテニス部に退部届を出していた。   イブの出来事が余程ショックだったのだろう。平介は、自分のしたこといったことが彼女を深く伤つけたということは自覚していた。だが、ではどうすればよかったのかという问いには答えを出せずにいた。   定时のチャイムが鸣ると、彼は会社を出た。今年に入ってから、残业は极力避けるようにしていた。直子のことが心配だからだ。   家に帰り玄関のドアを开けると、彼はまず靴を见た。直子の靴が揃えて脱いであるのを确认し、とりあえずほっとした。今日も无事に帰ってはきたらしい。   いつか家を出たまま帰らなくなる日が来るのではないか、と彼は常に心配している。彼の追ってこないところで生活すれば、彼女はふつうの十六歳の女性として生きられるからだ。恋爱もできるし、结婚もできる。まさに全く别の人生を歩めるわけだ。   彼女がまだ出ていかないのは、その决心がつかないだけかもしれなかった。住むところや生活费のことが心配なのかもしれない。もちろんすでに决心していて、あとはいつ行动に移すかを决めるだけの段阶ということもありえた。明日平介が帰ってきた时には、彼女の靴は玄関にはないかもしれない。   和室には直子はいなかった。平介は阶段を上がり、彼女の部屋のドアをノックした。   はい、というか细い声が返ってきた。   ここでまた一つ、平介は安堵の吐息をつく。   じつは家出以上に恐れていることがあった。直子が自杀するのではないかということだった。考えてみればそれが、彼女が现在の苦しみから逃れられる、最も简単な道だからだ。いや、简単な道だと彼女が考える恐れがあった。   だがとりあえず今日は、その悲しい诱惑には屈しなかったようだ。   平介はドアを开けた。「ただいま」   「お帰りなさい」直子は机に向かったまま、振り返らずにいった。本を読んでいたようだ。このところ彼女は本ばかり読んでいる。   「何の本を読んでるんだ」平介は近寄りながら讯いた。   直子は答える代わりに、手元の本がよく见えるように身体を少し後ろに引いた。开いたページの左上にタイトルが印刷されている。   「『赤毛のアン』……か。面白いのかい」   「まあね。でも、别に何でもいいの」直子はいった。现実を忘れられれば、と続きそうな口调だった。「ご饭の支度、そろそろしたほうがいいわね」文库本を闭じた。   「いや、そう急がなくてもいいけど」   ゴミ箱のそばに、纸が一枚落ちていた。折り畳まれた白い纸だ。平介はそれを拾い上げた。直子が、「あっ」と小さな声を漏らした。   开いてみると、『一年二组 スキーツアーの案内』という文字が目に飞び込んできた。ワープロで印刷されたものらしい。   「何だ、これは」平介は讯いた。   「见ればわかるでしょ。うちのクラスの子が今度の春休みにスキーツアーを计画したのよ。その参加者を募ってるわけ」   「学校行事ではないんだな」   「违うわ。だから参加しない。それでいいでしょ」直子は彼の手から纸を夺いとると、びりびりと细かく破ってからゴミ箱に舍て直した。「ご饭の支度、しなきゃ」そういって立ち上がった。   「直子」平介は彼女を呼び止めた。「俺のこと、憎んでるのか」   直子は目を伏せた。首も深く折った。   「憎むわけないじゃない」嗫くようにいった。「ただ、どうしていいかわからなくて途方に暮れてるだけ」   平介は颔いた。「そうだな。俺もだよ。どうしていいか、全くわからない」   二人とも黙り込んだ。空気が急速に冷ややかさを増していくようだった。窓の外を冬の风が通过していく音がした。荒野の真ん中で、二人だけで立っているような错覚を平介は抱いた。   平介は、ふと直子のことを思い出した。今の直子ではない。本来の肉体を持っていた顷の直子だ。よく笑い、よくしゃべる女性だった。今この家に笑いはない。   「ねえ」彼女がいった。「あれ、しようか」   平介は彼女のほうを见た。彼女はうつむき、足下を见つめていた。艶のある长い髪の间から白い首筋が覗いていた。   「あれを、か」彼は确认して讯いた。   「结局それしか解决する方法はないような気がする。心だけじゃ、どうしようもない场合もあるのよ」   「そうなのかな」   「あなたはやっぱり気乗りしない?」   「どうだろう。突然そんなふうにいわれても……。君はどうなんだ」   寻ねてから平介は自分の言叶に惊いた。君、なんていう台词を口にしたのは、いつ以来のことだろう。   「あたしは……そうね、自分の身体に讯いてみないとわからない」直子は胸に手をあてていった。   「そうか。俺も、そうかもしれない」平介は首の後ろを掻いた。   现在の直子を一人の女として见るようになっていたのは事実だ。だからこそ相马春树に対して异常な嫉妬心を燃やしたりもしたのだ。しかし性行为を望むかとなると话は别だった。考えたことがない、というより、考えることを无意识に拒否し続けてきた。   「して、みるか」ついに彼はいった。   直子は何もいわず、ベッドの前まで歩いていった。そしてその縁に腰を下ろした。   「明かりを消して」と彼女はいった。   平介は壁のスイッチをァ≌にした。蛍光灯が消え、一瞬室内が闇に包まれた。だが窓からかすかに入る明かりのおかげで、すぐに目が惯れ始めた。   直子はベッドの上で服を脱ぎ始めていた。白い背中がほんのりと见える。その背中が羽根布団の中にもぐりこんでいく。   「いいよ」と彼女はいった。   どうすればいいだろう、と平介は考えた。とりあえず自分も服を脱ぐしかないか、と思い至った。   下着一枚になってから、彼は手探りでベッドに近づいていった。勉强用の椅子が足に触れた。   直子は顔まで布団にもぐりこんでいた。平介はその布団の端を掴み、少し持ち上げた。彼女が身体を固くする気配があった。   「あの……」彼女がいった。「ありきたりな言い方だけど、优しくしてね。忘れてるかもしれないけれど、あたし、初めてだから」   「ああ……そうだったな」   平介は少し迷ってから下着を脱いだ。彼の阴茎はまだ勃起していなかった。だが勃起しそうな予感はあった。   「ええと」彼はいった。「あれはないんだけど、どうする?」   「あれ?」   「ゴムだよ。コンドーム」   「ああ」直子は反対侧を向いたままいった。「あたし、もうすぐ生理だから、大丈夫だと思う」   「あ、そうなのか」   昔よくこういう会话を交わしたなと平介は思い出した。   彼は布団の中に手を入れた。直子の肌に指先が触れた。彼女がびくりと身体を震わせた。彼はさらに深く手を入れた。掌が、彼女の右手の二の腕をとらえた。   惊くほどに滑らかな肌だった。柔らかくなければ、そして体温がなければ、磨き上げた大理石で作られた像だと思ったに违いなかった。その见事な造形に平介は感动した。   この瞬间彼の下半身に変化が起きた。瞬く间に彼の阴茎は勃起していた。   掌が汗ばみ始めた。直子がさらに身体を硬直させた。   平介は手を动かそうとした。彼女の身体の中心に近いところへ移动させようとした。   ところが腕は全く动かなかった。彼の中の何かが、动かすことを强く拒否していた。戻れ、戻れ、戻れ――谁かが叫んでいる。   时间だけが过ぎていった。闇の中で平介も直子も、完全に静止していた。   「直子」平介はいった。「やめよう」   一呼吸置いてから彼女からの返事があった。「そうね」   平介は布団から手を抜いた。目をこらしながら脱ぎ舍てた下着を拾い、足下に気をつけながら穿いた。   窓の外は相変わらず风が强かった。空き缶の転がる音が闻こえた。   [#ここから7字下げ]   37   [#ここで字下げ终わり]   平介の机の上に载っている电话に外线が入った。外线だとわかったのは、呼び出し音が内线とは异なるからだ。下请け工场から电话が入る予定だったので、てっきりそれだと思い彼は受话器を取り上げた。ところが交换台の女性は意外なことをいった。   「札幌のネギシ様より、杉田さんに外线です」   「あ、はい」返事してから、ネギシって谁だっけと一瞬思った。だがすぐに根岸という名字と、札幌で见たラーメン屋の看板が思い浮かんだ。   根岸文也か、と思った。   「もしもし、杉田さんですか」しかし闻こえてきたのは女性の声だった。やや年配か。   「はいそうですけど、ええと根岸さんとおっしゃいますと」   「根岸典子といいます。あの、お忘れかもしれませんが、以前息子がお会いしたそうなんですけど」   「はいはい」平介は受话器を左手に持ちかえた。「もちろん覚えてますよ。ええとあれは何年前になるかな」   「何ですか、その时に息子が大変失礼なことをしたそうで、本当に申し訳ございません。私も、最近になって闻いたものですから」   「いやあ、别に失礼だなんてことはなかったですよ。そうですか、あの时の话をお闻きになったんですか」   「ええ、それでもうびっくりしてしまって……」   「そうですか」   文也は、平介と会ったことを、母亲には絶対に话さないような口ぶりだった。时间が経ったから、话そうという気になったのか。それとも単に口がすべったのか。   「あのう、それでですね、一つどうしてもお话ししておきたいことがあるんです。杉田さん、お忙しいとは思うんですけど、少しお时间をいただけないでしょうか」   「はあ、それはかまいませんけど、札幌にいらっしゃるんでしょう?」   「ええそれが、今ちょうど东京に出てきてるんです。知り合いの结婚式がありまして」   「あ、そうなんですか」   「三十分で结构なんですけど、今日か明日、何とかなりませんでしょうか。场所をいっていただければ、どちらへでも伺いますけど」   「今はどこにいらっしゃるんですか」   「东京駅のそばのホテルです」   ホテル名を根岸典子はいった。明後日の日曜日に同じホテルで披露宴が行われるのだという。本来なら明日上京してくればいいものを、一日早く来たのは、平介に连络をとるためだったらしい。   「じゃあ、私がそちらへ行きますよ。明日の昼间はいかがですか」   「はい、それはもちろん私はかまいませんけど、それでいいんですか。私、会社のそばまで伺いますけど」   「いや、今日は仕事が何时に终わるかわかりませんし、场所がわかりやすいほうがいいですから」   「そうですか、どうもすみません」   午後一时にホテルのティーラウンジで会うという约束をして电话を切った。   今さら何だろうなと平介は思った。文也の话によれば、根岸典子にとって梶川幸広はあまり思い出したくない男のはずである。それをわざわざ自分から、一体何を话そうというのだろう。   事故の记忆は风化していないが、时间が経つにつれて、平介の心の中に占める割合というのは确実に减ってきている。またそうでないと生きてはいけない。一时はあれほどこだわった事故原因も、率直なところどうでもいいという気になっていた。梶川运転手がどんな个人的理由で异常ともいえる超过労働をしていたのかについても、别れた妻子に仕送りするためだった、ということで自分の気持ちに决着をつけていた。いろいろと不可解な点は残っていたし、梶川逸美のことも时折思い出して心配になったりもするのだが、すべて済んだことと思うようになっていた。   それに、と平介は思う。今はもっと深い悩みがいつも心を占めている。   直子には根岸典子と会うことは话さなかった。それを话せば、事故の记忆が苏り、藻奈美の死、そして现在の状况というように连锁反応式に思いが繋がっていくに违いないからだ。そうなればまた気まずい时间を过ごさねばならない。それは避けたかった。   土曜日は晴天だったが、风が冷たそうだった。平介はマフラーを巻いて家を出た。会社に用があるからと直子には説明した。彼女はホーム炬燵《こたつ》に入って编み物をしていた。创立记念日で学校が休みらしい。编み物は彼女の昔からの特技だ。彼女が最近家ではあまり勉强しなくなっていることに平介は気づいていた。医学部进学の话も全く出さない。无论彼は、そのことについて质问したことはない。どういう答えが返ってくるかは明白だった。   覚悟したよりも风が冷たく、歩いていると耳がちぎれそうだった。电车に乗ってから、ほっと息をついた。だが约束したホテルに行くには、东京駅から数分歩く必要があった。やっぱり别の场所にすればよかったかなと、この时だけは思った。   オープンスペースになったティーラウンジの入り口に立った时にはじめて、平介は自分が相手の顔を知らないことに気づいた。黒い服を着たギャルソンが、「お一人様ですか」と寻ねてきた。   「いや、待ち合わせをしているんだけどね」   平介がこういった时だった。すぐそばの椅子に座っていた痩せた女性が、彼のほうを见ながらおずおずと立ち上がった。薄紫色のニットの上下に、同じ色のカーディガンを羽织っている。   「あの」と女性のほうから声をかけてきた。「杉田さんでしょうか」   「そうです」平介は颔いて近づいていった。   「どうもお忙しいところ申し訳ございませんでした」彼女はぺこぺこ头を下げた。   「いえいえ、どうぞおかけになってください」   根岸典子の前にはすでにミルクティーが运ばれていた。平介はコーヒーを注文した。   「息子さんはお元気ですか」   「ええ、まあ」   「あの时はたしか大学の三年生でしたね。すると今はもう就职しておられるのかな」   「いえ、それが去年大学院のほうに进みまして」   「へえ」平介は思わず相手の顔を见ていた。「それはすごい」   「何ですか、大学でやり残したことがあるとかで。授业料はアルバイトで何とかするとかいったものですから」   「しっかりした息子さんですね」   コーヒーが运ばれてきた。平介はブラックのままで饮んだ。   大学院生の息子がいるのだから、根岸典子の年齢は五十歳前後にはなっているはずだ。たしかによく见ると皱が多い。だがどこか垢抜けた感じがして、もっと若い印象を受ける。昔は美人だったろうと平介は想像した。   「じつは先日息子の引き出しから、偶然一枚の写真を见つけました。小さな写真です。息子が四歳の时に撮ったもので、顔の部分だけを丸く切り取ってありました」   ああ、と平介は颔いた。どういう写真か思い出した。   「私は息子に、この写真をどうしたのかと问い诘めました。息子は最初、古いアルバムから见つけたようなことをいってましたけど、嘘だということはすぐにわかりました。あの子の小さい顷の写真は、一枚も残っていないはずだからです。そのことをいうと、ようやく渋々ながら、杉田さんのことを话し始めたんです。私、それを闻いてびっくりしました。そんなことがあったなんて、全く知らなかったものですから」   「私と会ったことはおかあさんには话さない、と彼はいってましたからね」   「本当にすみませんでした。あの时私がお会いしていれば、もっと早くいろいろなことをお话しできたと思うんですけど」   「でも彼はいろいろと话してはくれましたよ。どうして父亲である梶川さんを憎んでいるのかだとか……」   「ええ、でもそれはすべてではないんです。いいえ、というより」根岸典子は一度首を振ってから吐息をつき、平介を见た。「まるっきり事実とは逆なんです」   「逆? どういうことですか」   すると根岸典子はいったんうつむいてから、改めて顔を上げた。   「杉田さんは例の事故で、奥さんを亡くされたそうですね」   「はい」といって平介は颚を引いた。   「本当にお気の毒なことでした。あの事故の责任の半分は、私たちにもあるんです。だからもう、何とお诧びしていいかわかりません」   「梶川さんはあなたがたに仕送りをするために无理な労働をして、それが原因で事故を起こしてしまったからですか」   「ええ……あの顷私は始めたばかりの商売がなかなかうまくいかず、お金に困っていました。日々の生活费は何とかなりましたけど、息子を大学に行かせてやるだけの余裕はとてもなかったんです。そんな时、あの人が电话をかけてきました。あの人は文也の年齢をずっと数えていて、そろそろ受験だということを知って电话してきたんです。进学させるのか、そのためのお金はあるのかということを寻ねてきました。私はあの人には頼りたくなかったんですけど、ついつい苦しい事情を打ち明けてしまいました」   「すると梶川さんは自分が何とかするとおっしゃったわけですね」   「はい。それ以来、毎月十万円以上のお金を送ってくれるようになりました。私も、文也が大学に入るまでは甘えようと思いました。ところがあの子が浪人してしまったものですから、结局一年以上あの人に苦労をかけることになってしまいました。文也はなるべくお金がかからないようにと思って、国立一本に绞ったものですから……」   「そういうことでしたか。でもだからといって、事故のことであなたが谢る必要はないと思いますよ。梶川さんは赎罪のつもりで仕送りをしておられたわけでしょう?」   「赎罪……」   「ええ。昔あなたがたを舍てた罪灭ぼしのためだと。息子さんの话から想像すると、そういうことになると思うんですが」   根岸典子はゆっくりと睑を闭じ、そして开いた。   「ですから、そこのところが逆なんです」   「どういうことですか。赎罪という言い方が大げさなら、亲の责任ということでもいいですよ。息子さんの学费を実の父亲が出すというのは、むしろ当然のことだと思います」   根岸典子は首を振った。   「そうじゃないんです。あの人には责任なんかないんです」   「なぜですか」   彼女は唇を舐めた。何かを踌躇《ためら》っているように见えた。やがて、ためていた息をふうーっと吐き出した。   「文也は……あの人の子供ではないからです」   「えっ」平介は目を剥き、彼女の顔を凝视した。   根岸典子は颔いた。   「じゃあどなたの子なんですか。あなたのお子さんであることはたしかなんでしょう?」   「それはたしかです。私が生んだんですから」彼女はわずかに表情を和ませた。   「すると连れ子さんなんですか。いや、でも彼はそんなことはいってなかったな」   彼、とは根岸文也のことである。   「戸籍上、文也は梶川幸広の子供ということになっています」根岸典子はいった。   「戸籍上、とわざわざおっしゃるということは、本当はそうではないということですか」   平介の问いに彼女は颔いた。   「あの人と结婚する前、私は薄野《すすきの》で水商売をしていました。その顷付き合っていた男性の子供です」   「ははあ……」浴≯ステスということらしい。どおりで垢抜けているはずだと平介は纳得した。「妊娠した状态で、梶川さんと结婚されたわけですか」   「そこのところが微妙なんですけど」彼女はバッグから取り出したハンカチで口元を押さえた。「その男性とは、とっくの昔に别れたつもりだったんです。ところが间もなく结婚式という顷になって、突然私の前に现れました。よりを戻したい、というようなことをいいだしました。别れた女でも、ほかの男のものになると思うと、急に惜しくなったのかもしれません」   ありそうなことだと思い、平介は颔いた。   「私によりを戻す気がないことを知ると、じゃあ最後に一日だけ付き合ってくれといいだしました。それでも断ればよかったんでしょうが、一日だけ付き合えば後はもうつきまとわないといわれ、面倒だったのでいうことをきくことにしたんです」   「その时の子が文也君なのですか」   ええ、と彼女は小声でいった。   「结婚式より三周间ほど前だったと思います。幸いその男は、本当にその後私の前には现れませんでした。でも私は妊娠していたんです。それがわかった时、とても迷いました。あの男の子供かもしれないと思ったからです。夫に内绪で堕ろそうかとも思いました」   つまり梶川幸広の子供である可能性もあったということだ。   「でも喜んでいる夫を见ていると、とても堕ろす决心がつきませんでした。结局、夫の子供である可能性にかけることにしたんです」   根岸典子はいつの间にか梶川幸広のことを夫と呼んでいた。それが自然なように平介にも思えた。   「梶川さんの子でないことは、いつわかったんですか」   「文也が小学校の二年生ぐらいの时だったと思います。会社で血液検査を受けた夫が、ものすごい顔で帰ってきて、文也の血液型を讯きました。その时に、ああやっぱり违ったのかと思いました。私はA型で、文也はO型だったんです。夫は自分の血液型をよく知らなくて、検査を受けるまではB型だと思っていたようです。二人の兄弟がそうだったものですから」   「B型ではなかったんですね」   「はい。会社では、AB型だといわれたそうです。AとABからO型が生まれないことは、あの人も知っていました」   「その时にあなたも事実を知ったわけだ」   「ええ。でも正直いうと、あまり惊きませんでした。後から考えてみると、妊娠したとわかった时から、あの人の子供でないことはわかっていたような気がするんです。そのことに自分で気づかないふりをしていただけなんですね。文也が夫に全然似ていないことも、私は気づいていました」   「梶川さんには、本当のことをお话しになったんですか」   「もちろん话しました。隠し続けられることではありませんから」   「それで梶川さんは怒って家を飞び出したというわけですか」   「それが理由で家を出たのはたしかです。でも、怒って、というのは少し违います。私は一度も、あの人から责めるようなことはいわれなかったんです。私の话を闻いたあの人は、不思议なほど落ち着いて见えました。お酒を饮んで暴れることも、私に早く当たることもありませんでした。文也にも、それまでと同じように接していました。ただ私とはあまり话をしようとはせず、家にいる时には窓の外を见て、じっと何かを考えているようでした。あの人が出ていったのは、私の话を闻いてからちょうど二周间後のことです。最小限の荷物と文也の写真を贴ったアルバムを持っていなくなりました」   「书き置きか何かは?」   「ありました」根岸典子はバッグから白い封筒を取り出した。それをテーブルに置いた。   「见てもいいんですか」   ええ、と彼女は答えた。   平介は封筒を手に取った。中には便笺が一枚入っていた。开くと、大きく走り书きがしてあった。『すまん 父亲のふりはできない』   「それを见た时、涙が出ました」彼女はいった。「家を出るまでの二周间、あの人は私を责めることではなく、文也の父亲としてやっていけるかどうかを考えていたんです。それを思うと、今も申し訳なさで胸が一杯になります。何年间も骗し続けていたことを、心の底から悔やみます」   平介は颔いた。自分ならどうだろうと想像した。同様のことを直子から告白されていたとしたら、まず彼女を彻底的に骂るだろうと思った。暴力をふるっていたかもしれない。   「待ってください。すると梶川さんは、自分の子供ではないとわかっていながら文也君の学费を……」   「そうなんです」根岸典子はハンカチを軽く目头にあてた。「だからさっき、逆だといったんです。罪灭ぼしをしなければならないのは私のほうなのに、あの人は私たちを助けてくれようとしたんです」   「なぜですか。いや、それはやっぱりあなたのことを好きだったからなのかな」   平介の言叶に彼女は首を振った。   「その时あの人にはもう新しい奥さんがいたんですよ。奥さんのことを爱していると、あの人はいってました」   「じゃあなぜ……」   「あの人は私にこういったんです。今、文也に必要なのは父亲だ、母亲が苦しいんだから父亲が何とかしなきゃしょうがないって。でもあなたは本当の父亲じゃないのにと私がいうと、じゃあ文也にとって幸せなのはどっちだって讯いてきたんです」   「どっち?」   「本当の父亲は俺じゃないほうが幸せなのか、やっぱり父亲は俺だってことにしたほうが幸せなのか、どっちだって。私はしばらく考えてから、そりゃああなたが父亲であればよかったって答えました。そうしたらあの人はいいました。そうだろう、俺もそう思うよ。だから俺はあいつの父亲であり続けることにした。あいつが困ってるなら、父亲として助けてやりたいんだって。昔自分と文也との间に血の繋がりがないと闻かされた时、父亲の気持ちになれるかどうかということばかり考えた。自分が爱する者にとって幸せな道を选ぶという発想がなかった。あんなに文也のことが好きだったのに、俺は何という马鹿だったのかと思う――あの人はそういって、电话の向こうで泣いていたんです」   根岸典子は背中を真っ直ぐ伸ばしていた。このことを语るには姿势を正さねばならないと考えているかのようだった。声は震えていたが、涙はなかった。まず伝えるべきことを伝えねばならないという意志が、その表情から感じとれた。   平介は息苦しさを覚えていた。鼓动がやけに速くなっている。胸が少し痛い。   「事故のことを知った时、私はすぐにでも駆けつけたかったんですよ。せめてお线香の一本でもと思いました。ニュースなんかで、事故の原因があの人の运転ミスだといわれた时には、大声を出していいたかったです。あの人だけが悪いんじゃないんです、あの人は私たちのために无理して働いていたんですって。でも文也の手前、私は无関系のような顔をしていました。あんなに世话になっていながら、知らぬふりを决め込んだのです」   根岸典子は、ほっと息をついた。おそらくぬるくなっているだろうミルクティーを一口饮んだ。   「でも今回文也から杉田さんとのことを闻いて、いつまでも隠しておくわけにはいかないと思いました。文也には三日ほど前に、全部话しました」   「ショックを受けておられなかったですか」   「それはまあ、少し」根岸典子は微笑んだ。「でも话してよかったと思います」   「そうですか」   「杉田さんにも、すべて话しておかなければならないと思ったんです。それで、こうして伺いました。退屈だったかもしれませんけど」   「いえ、私も闻いてよかったです」   「そういっていただけると、お会いした甲斐があります」彼女はテーブルの上の封筒をバッグにしまった。「それから、じつは一つお愿いがあるんですが」   「何ですか」   「息子から闻いたんですけど、あの人の奥さんが亡くなられたとか」   「ああ」梶川征子のことらしい。「そうです。もう何年も前になりますけど」   「お子さんが一人いらっしゃいましたよね。女の子」   「はい。逸美という子です」   「その子の连络先は御存じないでしょうか。一度きちんと会って、お父さんの话をして、それから出来るかぎりの偿いをしたいと思うんです」根岸典子は真挚な眼差しでいった。   「わかると思います。年贺状が来てたはずですから。後で御连络しますよ」   「すみません、お愿いいたします」彼女は名刺を取り出し、平介の前に置いた。ラーメンの『熊吉』の名が入っていた。   彼女はバッグの盖をぱちんと闭じた。それから思い出したように、ガラス越しに庭园を见た。   「ああ、やっぱり雪に。そんな気配がしていたんです」   平介もそちらに目を向けた。白い花びらのようなものがちらちらと舞っていた。   [#ここから7字下げ]   38   [#ここで字下げ终わり]   ホテルを出て、东京駅に向かう长い歩道を平介は歩いた。雪はゆっくりと同じリズムで降り続けていた。   根岸典子の话が头から离れなかった。会ったこともない梶川幸広の声が闻こえるような気がした。自分が爱する者にとって幸せな道を选ぶ――。   俺はあんたとは违うよ、梶川さん。   俺だってあんたのような立场なら、その程度の格好いいことだっていえたさ。だけど今の俺は――。   またしても息苦しさを覚えた。何かが身体の中からせりあがってくる。立っているのが辛くなり、平介はその场にしゃがみこんだ。首に巻いたマフラーが、ぱらりと落ちた。   雪の粒が濡れたコンクリートの歩道に吸い込まれていく。とても积もりそうにはないが、そんなことはお构いなしに落ち続ける雪は、无邪気な子供を平介に连想させた。   「大丈夫ですか」谁かが声をかけてきた。若い男性の声だった。   平介は相手を见ないで片手を上げた。「ええ、何でもありません。すみません」   彼は立ち上がり、マフラーを巻き直した。声をかけてきたのは小柄なサラリーマン风の男性だった。ベージュのコートを着ていた。   「大丈夫ですね」と男性はもう一度寻ねてきた。   「ええ、もう、本当に。ありがとうございます」   サラリーマン风の男性はにっこり笑い、平介とは反対の方角に歩いていった。それを见送ってから、平介も歩きだした。   わかっていたことなんだ、と彼は思った。   别に谁かに答えを教えてもらうまでもない。自分がどうするべきかなんてことは、何年も前から知っていたんだ――。   家に着く顷には雪はやんでいた。あるいは元々この地域にはあまり降らなかったのかもしれない。路面がさほど濡れていなかったからだ。   玄関の键はかかっていなかった。直子の靴も靴脱ぎに揃えて置いてあった。しかし和室を覗いたところ、彼女の姿はなかった。それで平介はマフラーもとらずに阶段を上がり、彼女の部屋をノックした。ところが返事はない。   いやな予感がした。彼はドアを开けた。   しかし室内にも彼女の姿はなかった。机の上には文库本が开いたままになっている。   トイレかなと平介は首を捻った。だがそれならばトイレの前にスリッパが置かれているはずだった。それを见た覚えはなかった。   平介は阶段を下りた。やはりトイレに入っている様子はなかった。彼は和室に入り、キッチンを覗こうとした。だがその时、庭のほうで何かが动いた。   扫き出し窓の键があいていた。平介は庭を见下ろした。直子が隅でしゃがんでいた。彼女のすぐ前には猫がいた。薄茶色で缟模様のある猫だった。どこかの饲い猫なのか、青い首轮をはめている。首轮には小さな铃がついていた。   直子は竹轮を手で小さくちぎり、与えているのだった。猫はうれしそうに食べていた。   平介はガラスをとんとん、と叩いた。直子が振り返った。その顔つきは最近には珍しく柔らかいものだった。ああそうだ、こいつの本来の表情はこういうものだったんだ、と平介は思った。   しかし直子がその顔を见せていたのも长い时间ではなかった。彼が立っているのを见ると、咲きかけた蕾がそのまましおれるように表情を沈ませた。   平介は扫き出し窓を开けた。竹轮を食べていた猫が、警戒するように身构えた。   「どこの猫だ」と彼は讯いた。   「知らない。この顷时々迷い込んでくるの」   平介が声を出したからか、猫は生け垣を通り抜けて出ていってしまった。食べかけの竹轮だけが枯れた芝生の上に残った。   直子はサンダルを脱ぐと、平介の脇を抜けるようにして部屋に上がった。手元に残っていた竹轮をティッシュにくるみ、卓袱台の上に置いた。   「スキーのことだけど」平介は乾いた唇を舐めていった。「行ったらどうだ」   直子は身体の动きを止めた。戸惑ったような止め方だった。平介のほうを振り返った彼女は眉间をかすかに寄せていた。「えっ?」   「スキーツアーだよ。案内が来てただろ。参加すればいいんじゃないか」   直子は不思议そうな表情をして彼の顔をしげしげと见つめた。   「どうして急にそんなこというの?」   「行けばいいと思うからだ。行きたいんだろ?」   「気まぐれでいってるの?」   「そうじゃない。本当にそう思うんだ」   直子は瞬きを何度かし、视线を斜め下に落とした。平介の真意を探っている顔だった。   彼女は改めて彼を见上げた。首を振った。   「行かない」   「どうして?」   しかし彼女は答えない。能面のような顔をして、和室を出ていこうとした。その後ろ姿に平介は呼びかけた。「藻奈美」   直子の足が止まった。激しく动揺しているのが、上下する肩の动きでわかった。彼女は振り向いた。目が真っ赤に充血し始めていた。   「なぜ……」と彼女は呟いた。   平介は扫き出し窓を闭めた。彼女のほうに向き直った。   「长い间、苦しめて悪かった。今、俺がいえるのは、それだけだ」   すまなかった、と彼は立ったまま头を下げた。   世界が止まったような気がした。すべての音が消灭したようだった。だがそれも一瞬のことだった。やがて彼の耳に様々の音が入り込んできた。车の通る音、子供の泣き声、どこかの家のステレオの音。   その中に、ひっひっとしゃっくりをするような音が混じっていた。彼は顔を上げた。直子が泣いていた。頬に几筋もの涙の线ができていた。   「藻奈美……」と彼はもう一度呼びかけた。   彼女は両手で顔を覆い、廊下に出た。そのまま阶段を駆け上がった。ばたん、と强くドアを闭める音が闻こえた。   平介は膝から崩れるように座り込んだ。胡座をかき、腕组みをした。   目の端で何かが动いた。见ると先程の猫が庭に戻っていた。芝生の上に残された竹轮の破片をおいしそうに食べていた。   どうってことはない、と平介は思った。一つの季节が终わっただけだ。   夕方部屋に闭じこもった直子は、夜になっても出てこなかった。心配になって平介は何度かドアの前まで行ってみた。そのたびにすすり泣く声が闻こえてくるので、とりあえずほっとしてドアの前から离れた。   话しかけたのは一度だけだ。ドアの外から、「晩ご饭はどうする?」と寻ねてみたのだ。「あたしはいらない」と彼女はかすれた声で返事してきた。   八时过ぎになって平介は、自分でインスタントラーメンを作り、一人で食べた。こんな时でも腹が减るという事実が、自分でも滑稽に思えた。そして、これからは料理も覚えたほうがいいなと思った。   食事の後は风吕に入り、その後は新闻を読んだりテレビを见たりして过ごした。平介は不思议に気持ちが落ち着いているのを自覚した。肩の力が抜けているのがよくわかる。   グラスに大きな氷を二つ入れ、その上にウイスキーを二センチほど注ぐと、それを持って寝室に行った。布団の上で胡座をかき、ウイスキーをちびちび饮みながら、彼はできるかぎり头の中を空っぽにしようと努めた。今日が特别意味のある日だとは思わないようにした。それが功を奏したのか、グラスが空になる顷には、いい具合に睡魔が忍び寄っていた。彼は明かりを消し、布団にもぐりこんだ。   结局この夜、平介が直子の姿を见ることはなかった。食事はともかく、彼女がトイレにさえも行かないのは不思议だった。   彼は、昔直子とデートした时のことを思い出した。まだ结婚する前だ。昼间に待ち合わせて、夜彼女の部屋の前で别れるまで、彼女は一度もトイレに行かなかった。それがたまたまではなく、いつものことなのだ。平介は、その间に最低一度はトイレに行った。映画馆のトイレだったり、レストランのトイレだったりした。もしかしたら自分が行っている间に彼女も済ませているのだろうかと思ったが、どう考えてもそれはおかしかった。ふつう一绪にトイレに入った场合、男のほうが圧倒的に早く出てくるものだからだ。   ずいぶんと亲しくなってから、このことについて寻ねたことがある。彼女は少し照れくさそうにしながら答えを教えてくれた。それは単纯明快だった。   「我慢してたのよ」と彼女はいったのだ。   なぜ我慢するのかという质问にも彼女は简洁に答えた。「だって现実的すぎるでしょ」   现実的すぎるとどうしていけないのかという疑问が依然として残ったが、平介はそれ以上は讯かないでおいた。たぶん彼女なりのルールがあるのだろうと思ったのだ。   闇の中で平介は睑を闭じた。もしかしたら、とっくの昔に闭じていたのかもしれない。睑の里で黒い粒子が奇妙な図形を描いていた。それを见つめるうちに、ぐるりと世界が反転した。   奇妙な目覚めだった。気がつくと目の前に天井があった。いつ睑を开いたのかもわからなかった。魂がどこかをさまよってきて、たった今、肉体に戻った――そんな感じのする目覚めだ。   平介は身体を起こし、身震いを一つした。寒い朝だということに、この时気づいた。   急いでパジャマを脱ぎ、ポロシャツやセーターを被った。ズボンを穿く时には、寒い寒い、と呟いていた。   寝室を出ると、向かいのドアが半开きになっていた。平介は少しためらった後、そのドアの隙间から中を覗いた。机の前にもベッドにも、直子の姿はなかった。   平介は阶段を下りていった。すると下から三段目に、直子のスリッパの片方が落ちていた。さらに廊下の途中で、もう片方が里返しになっていた。   彼は和室を覗いた。直子がパジャマ姿で、ぼんやりと庭を见下ろしていた。   「藻奈美」と彼は呼びかけた。   彼女はゆっくりと首を回した。彼を见た。「お父さん……」   「そんな格好じゃ风邪ひくぞ」と彼はいった。いいながら、何かが违う、と直感した。   直子は指先を自分のこめかみに触れさせた。首を少し倾げる。   「お父さん、あたし、どうしちゃったんだろ」   「えっ?」   「あたし、バスに乗ってたんだよ。お母さんと长野に行くはずだったのに、どうしてここにいるのかな?」   [#ここから7字下げ]   39   [#ここで字下げ终わり]   自分の闻いた言叶の意味が、すぐには理解できなかった。理解はできたが、受け入れられなかったというべきかもしれない。平介は二歩三歩と彼女に近づいた。   「何だって?」   直子が急に顔を歪めた。両手で头を押さえた。   「何だか头が痛いよ、お父さん。どうなっちゃったんだろ。なんか病気みたいだよ」   「藻奈美……」平介は駆け寄り、彼女の両腕を掴んだ。「しっかりしろ」前後に揺すってみた。   直子はぽかんとして彼の顔を见ていたが、そのうちに眉をひそめだした。   「お父さん、なんかちょっと顔が変わったみたいだよ。细くなっちゃったね」   まさか、と平介は思った。そんなことが起こり得るのか。   彼は唾を饮み込んだ。「藻奈美」   「なあに」   「歳はいくつだ。今、何年生だ?」   「あたし? 何いってるの。五年生だよ。今度六年生」直子はさらりといった。   全身が、かっと热くなった。心臓が激しく波打ち始めた。呼吸も荒くなってしまう。   彼は事态を理解した。戻ったのだ。藻奈美の魂が苏ったのだ。しかしなぜ今顷――。   「藻奈美、お父さんの话をよく闻くんだ。お父さんのことはわかるな」彼女の肩を両手で掴んで彼は讯いた。   「わかるよ」   「よし。藻奈美はさっき目が覚めたんだな。目が覚めて、すぐに下りてきたんだな」   「うん、でも、何だか身体がふわふわする。まだ眠ってるみたいだ」   「わかった。じゃあとにかく、お父さんのいうとおりにするんだ。まず、そのままここに座りなさい。そうだ。ゆっくりと」   平介は彼女を座布団の上に座らせた。彼女は大きな目をくるくると动かしていた。   様々なことが彼の脳里に袭ってきた。絶望的に渋滞した首都高速道路のようだった。その中には、直子はどこへ行ったのか、という疑问もあった。しかしそのことを考えると余计に混乱しそうだったので、とりあえず今は思考の外に追いやった。今は目の前の问题を解决する时だ。   「いいか、藻奈美、まず自分の手を见るんだ。それから、足を见なさい」   彼女はいわれたとおりにした。両手を见つめ、次にパジャマの裾から覗く足を见た。   「何か感じないか。変だと思わないか」   「思う」   「どう変だ?」   「大きい。大きくて……爪が长い」   「そうだろう」平介は彼女の両手を掴んだ。「さっき藻奈美はバスに乗っていたといったね。じつは、あのバスが事故を起こしたんだよ。それで藻奈美は大怪我をして、长い间……本当に长い间、眠っていたんだ。その眠りから、さっき目が覚めたんだよ。だから眠っている间に身体が大きくなってしまったというわけだ」   「ええ……」彼女は目を大きく开き、自分の身体を眺めた。それから平介を见た。「何か月も眠ってたの?」   平介は首を振った。「何年もだ。正确にいうと五年……かな」   彼女は息を饮んだ。彼の手から自分の右手を外すと、顔を触った。   「植物人间みたい……だったの?」   「いや、それがちょっとややこしくて」平介は口ごもった。どのように説明すればいいかわからず、困惑した。   ところが彼女はさらに讯いてきた。「お母さんは?」   平介は激しく狼狈した。何かいわねばならず、さりとて言叶が见つからず、唇だけを无意味に动かした。   「お母さんはどうなったの? 事故に遭って、どうなったの?」彼女はさらに讯く。   そのうちに、平介が答えないことと、彼の表情から何かを感じ取ったようだ。彼女は両手で口元を覆った。「ひどいや……」そしてそのまま畳に突っ伏した。背中が激しく揺れている。呜咽が漏れた。   「藻奈美、藻奈美、よく闻くんだ。たしかにね、お母さんはもういない。だけどね、生きてるんだよ。お母さんの魂は生きてるんだ」平介は彼女の背中に手をあてていった。   だが彼女は泣き止まなかった。魂は生きているの意味を、単なる慰めとしか闻かなかったに违いない。   「藻奈美、ちょっとおいで」平介は彼女の二の腕を掴んだ。   しかし彼女は幼児がいやいやをするように首を振った。   「藻奈美、来るんだ。お母さんに会いたくないのか」   この台词で、ようやく彼女は泣き声がやんだ。   「でも、死んじゃったんでしょ」   「だから、身体は死んでも心は生きてるんだよ」平介は再び彼女の手を引っ张った。无理やり立たせ、廊下に出た。   彼女自身の部屋に连れていった。   「ここは藻奈美の部屋だよな」平介は讯いた。   彼女は少しおどおどしながら室内を见回し、黙って颔いた。   平介は机に近づいた。本棚から参考书を二册抜いた。   「见てごらん。ここにあるのは高校の参考书だとか教科书だ。藻奈美は今、高校一年生なんだよ」   彼女は本を持ったまま、呆然と立ち尽くしている。おびえの色が渗んでいた。   「変だと思うだろ? じつはね、藻奈美が眠っている间に、とても不思议なことが起きたんだ。死んだはずのお母さんの魂が、藻奈美の身体に宿ったんだよ。そうして藻奈美の代わりに、藻奈美として生活してきたんだ」   「あたしとして……」   「そうだよ」   平介は书棚に目を走らせた。写真の小さなファイルを见つけると、それを引き抜いた。中にはテニス部で撮影した写真が纳められている。藻奈美の顔が大きく写っている一枚を抜き取った。   さらに彼は机の引き出しを开け、丸い镜を取り出した。   平介は写真と镜を彼女のほうに差し出した。「自分の顔を见てごらん。それから、この写真と见比べてみるんだ」   「何だか怖い」   「大丈夫だよ」   彼女は持っていた参考书を床に置くと、镜と写真を受け取った。ためらいを示しながら、まずゆっくりと镜の中を覗いた。   あっ、と彼女は声を漏らした。   「どうした?」   「あの……」彼女は镜を见ながらいった。「わりと……美人みたい」   「そうだろう」平介は笑った。「写真を见てごらん」   彼女は写真と镜とを见比べてから顔を上げた。「信じられない……」そう呟き、その场にしゃがみこんだ。膝を抱えて、その中に顔を埋めた。   「お母さんが、藻奈美の代わりに生きてくれているんだよ」平介は机と壁の隙间に立ててあったテニスラケットを引っ张り出した。「ものすごく勉强して、いい学校にも入ってくれた。テニス部にだって入った。お母さんは、本当に悔いが残らない青春を送っているんだ。だから――」   後ろを振り返り、彼は言叶を途切れさせた。彼女がうずくまったまま动かないからだ。   「おい、藻奈美、藻奈美」平介は彼女の身体を揺すった。   睑を闭じたまま、彼女は顔を上げた。それからゆっくりと目を开けた。その目が彼の顔を捉えた。   「お父さん……」彼女は不思议そうに首を倾げた。「どうしたの? あれ……」周りを见て、もう一度彼を见る。「何があったの?」   その表情と雰囲気から、平介は事态を饮み込んだ。これは直子だと思った。安堵感が広がった。もしかすると、もう戻ってこないかもしれないと思ったからだ。   「どうしたの?」彼女は再度寻ねた。   平介は答えた。「今、藻奈美が现れたんだよ」   [#ここから7字下げ]   40   [#ここで字下げ终わり]   今日が日曜日でよかったと思った。自分が会社に行っている间に藻奈美が苏ったのだとしたら、収拾のつかない事态に発展したかもしれなかった。   和室で茶を饮みながら、平介は直子に事の次第を説明した。直子は话の途中から兴奋し始めていた。   「すると藻奈美は死んではいなかったということなのね。何かの原因で、ずっと意识が眠ったままだったということね」   「たぶんそうだと思う」   「ああ……」直子は胸の前で手を合わせた。「信じられない。信じられないぐらい嬉しい。こんな素晴らしいことがあるなんて」   「でもまた消えてしまったんだよ」   「一度现れたんだから、またきっと出てくるわよ。大丈夫。きっと大丈夫」直子は力强くいった。その表情は、昨日までとは大违いだった。   「ただ事情を説明するのが大変だよ。一応、一番大事なことは话したんだけど……」   「この状况をすぐに理解しろといっても无理でしょうね」直子は少し考えるように黙ってから顔を上げた。「やっぱり、あたしから説明するのが一番いいと思う。あの子のことを一番よくわかっているのはあたしだから」   「だけどそれは无理だろう」平介はいった。「藻奈美が出てきた时は、直子はいないわけだし」   「だから手纸を书くのよ。藻奈美が出てきたら、その手纸を読ませてくれればいいの」   「ああ、なるほど」   「早速书いてみる。そうしてなるべくその手纸は、肌身离さず持っているようにしたほうがいいわね。いつ藻奈美に戻るかわからないから」   「なあ、もし俺がそばにいない时に藻奈美が出てきちゃったらどうする? たとえば学校にいる时とかさ」   いくら直子からの手纸を持っていようとも、今度目覚めた藻奈美にはそのことはわからない。おそらくひどいパニックに陥るだろうと予想された。   「そうなったらそうなったで仕方がないんじゃないかな」直子はいった。「だって、どうすることもできないでしょ。お父さん、会社にも行かないで、ずっとあたしのそばにいてくれる?」   「それはちょっと无理だな」平介は自分の额を掻いた。   「でしょう? まあもしそんなふうになったら、後から周りの人たちに、娘はノイローゼ気味だったとでもいって回るしかないわね」   「そいつは気が重いな」平介は渋面をつくった。「何とかそういうことにはならないことを祈るしかないか」   「あたしは、たぶんその心配はないんじゃないかと思うんだけど」   「どうして?」   「あたしが眠らないかぎりは大丈夫だと思うのよ。眠って、目覚めた时に、藻奈美に戻る可能性があるんじゃないかしら。今回、そうだったわけでしょう?」   「なるほど。そうかもしれないな」   「授业中に居眠りとかしないように気をつけなきゃね」   「全くだ」平介は直子と顔を见合わせて笑った。こんなふうにできるのは何か月ぶりだろうと思った。   直子が真顔に戻った。掌の中で汤饮み茶碗を弄びながら、「だけど、何だか変な感じ」といった。   「そうかい」   「だって、藻奈美の身体をあたしとあの子とで共有しているわけだもの。交替で使っているというか」   「ああ……」平介は颔いた。「そういうことになるんだな」   「本当は」直子は平介の目を真っ直ぐに见つめてきた。「あたしはもう消えなきゃいけないのよね。きっと」   平介は目をそらした。   「つまんないこというなよ」そして茶碗の底に少しだけ残っていた茶を饮み干した。   夜はささやかなパーティをすることになった。直子は鶏の唐扬げとハンバーグを作り、平介は近所のケーキ屋に行って极上のショートケーキを买ってきた。いずれも藻奈美の好きなものだった。   お帰りなさい、藻奈美、といって二人はワインで乾杯した。   藻奈美の意识は、しばらく现れなかった。平介は会社から帰り、最初に彼女の顔を见る时、いつもどちらかなと思うのだが、彼女の答えはいつも同じだった。   「残念でした。まだあたしよ」   一时は自杀するのではないかと心配になるほど落ち込んでいた直子も、すっかり明るくなっていた。その原因が、藻奈美が苏ったという话を闻いたからなのか、平介が父亲に彻するという态度を示したからなのかは、彼にはわからなかった。无论、どちらでもよかった。直子の楽しそうな顔を见ていると、万一このまま藻奈美が现れなくても构わないかなとさえ平介は思った。   しかし直子は藻奈美が再び现れると信じ込んでいる様子だった。彼女によると、娘宛の手纸を着々と书き进めているらしい。   「もしお父さんがいる时に藻奈美が现れたなら、靴下の中をみるようにいってね」   「靴下の中?」   「そこにメモを隠しておくことにしたの。そのメモには、彼女宛の手纸を置いた场所が书いてあるのよ」   平介は了解した。分厚い手纸を常に身に着けておくのは难しいからだろう。   こんなふうにして六日が过ぎた。そして日曜日がやってきた。   平介としては何となく予感があった。だから朝起きると、パジャマの上にカーディガンを羽织った格好で、彼女の部屋をノックした。返事はなかった。   平介はそっとドアを开けてみた。彼女はベッドの上で座っていた。背中を向けていた。「あの……」と彼は声をかけた。   彼女はぴんと背中を伸ばし、それから彼のほうを振り返った。どこか虚ろな表情だ。藻奈美のほうだ、と彼は直感した。   「気分はどうだ?」   彼女は自分の掌を见つめてから、头痛をこらえるように额に手をあてた。   「あたし、またすごく眠っちゃったみたい」   「なあに」といって平介は部屋に入った。「今度は大して长くはないさ。ほんの一周间ほどだ」   「その间、ずっと寝てたの?」   「いや、だからそうじゃなくて、前にもいっただろ、お母さんが藻奈美の身体に宿っているんだよ」   藻奈美はまだ事态が把握できない顔をしていた。首を倾げ、「镜、见せて」といった。   平介は引き出しから镜を出し、彼女に渡した。彼女はそれをこわごわといった感じで覗き込んだ。   「やっぱり、梦じゃなかったんだ。あたしが大きくなっちゃってるってこと」   「この前目を覚ました时にお父さんがいろいろと话してあげたこと、覚えてるんだね」   彼女は颔いて、「梦だと思ってた」といった。   「梦じゃないんだよ。ああ、そうだ。お母さんから言付けがある」   「えっ、お母さんから?」   「今度藻奈美が目を覚ましたら、靴下の中を见るようにいってくれといわれてたんだ」   「靴下?」彼女は自分の周囲を见回した。ベッドの縁に白いソックスが挂けてある。それを手にとり、その中を覗き込んだ。何かを见つけたらしく、指を突っ込む。「こんなのが入ってた」折り畳まれた纸を取り出した。   「お母さんからのメッセージだ」と平介はいった。   藻奈美はその纸を広げた。中を见てから平介のほうに差し出した。彼はそれを受け取った。『本棚の一番下 右端のノート 一人で読むこと』と书いてあった。   平介は藻奈美の顔を见て、それから本棚に视线を移した。彼女も同じように目を动かしていた。   彼女はベッドから下り、本棚の前でしゃがみこんだ。指示されたところから一册のノートを抜いた。「あった……」といって、表纸を平介のほうに向けた。猫のイラストが描かれたノートだった。ピンク色のサインペンで、『モナミへ』と小さく书いてある。直子の字だ。   「一人で読めって书いてあるな」平介はいった。   彼女は黙って颔いた。   「じゃあお父さんは下に行ってるから。何かあったら呼びなさい」   彼は部屋を出て、ドアを闭めた。   下で待っている间、平介は気が気でなかった。直子は藻奈美にどんな手纸を书いたのだろう。藻奈美はそれをどんな思いで受けとめるのだろう。どういう事态になっても、うろたえず対処できるよう、彼は心の准备をしていた。   ところがそれから二时间以上、何の反応もなかった。それで平介が心配になり、様子を见に行こうかと腰を浮かしかけた时、二阶でドアの开く首がした。   こつ、こつ、と雨垂れが落ちるように彼女は阶段を下りてきた。部屋に入ってきた彼女は目の焦点がうまく定まっていなかった。   「大丈夫かい?」と平介は声をかけた。   うん、といって彼女はぺたんと座った。しばらく畳の表面を见つめていた。   「いろんなこと、あったんだね」ぽつりと彼女がいった。   「うん、何しろ五年だからな。五年间のこと、全部书いてあったのか」   「ううん。とても一度には书ききれないからって、大体のことだけ。それでも読むのが大変だった」   「そうだろうな」书くのはもっと大変だったろうと平介は想像した。   「何だか不思议。知らないうちに中学生になって、その中学も卒业して高校生になってたなんて」   「お母さんは二度も受験したんだよ」   「そうだってね。びっくりしちゃった」   「藻奈美として生きる以上、後悔するようなことはしたくないといってね」   「ふうん……」彼女の睑が急に半分闭じた。头が揺れ始める。「なんだか眠くなってきちゃった」   「眠るかい」   「うん、とっても眠い。ねえ、あたしが眠ったら、またお母さんが出てくるのかな」   「そうだよ」   「じゃあ、よろしくいっといてね。ありがとうって……」藻奈美は睑を闭じながら、畳の上に横たわっていった。すぐに寝息をたて始めた。   このままでは风邪をひくと思い、平介は彼女を二阶に连れていこうとした。それで抱き上げようと肩と足の下に腕を入れた时、彼女はぱっと目を开けた。   あっ、と彼女は声を発していた。平介も一绪に、あっ、といっていた。   彼女はきょろきょろとあたりを见回してから平介を见上げた。「藻奈美が现れたの?」   「うん。今、眠った。代わりに直子が出てきた」   「あ、ごめんなさい、あたしのほうが出てきて」   「いや、それはいいんだけど」平介は彼女から离れ、座り直した。「あのノート、読んだそうだ」   「何といってた」   「惊いてたよ。それから感谢してた」   「感谢?」   「うん」平介は藻奈美とのやりとりを直子に话した。   直子は何度も目を瞬《またた》いた。「早く続きを书いてあげないとね。あの子がまだ知らないことは山のようにあるから」   「あまり変なことは书くなよ」   彼が何のことをいったのかは彼女にもわかったようだ。白い歯を见せて苦笑した。   「大丈夫、书かないわよ」   「それならいいんだ」   「ねえ、お父さん」直子はいった。「藻奈美が戻ってきてくれて、嬉しいわよね」   「嬉しいよ、もちろん」と彼は答えた。「梦みたいだよ」   「そうよね。あたしもすごく嬉しい」そういって彼女は庭に目を向けた。また猫でもいるのかなと思って平介もそちらを见たが、何もいなかった。长く伸びた雑草が风に揺れているだけだった。   [#ここから7字下げ]   41   [#ここで字下げ终わり]   奇妙な家族生活、というべきかもしれない。傍からは、杉田家には何の変化もないように见えているに违いなかった。事故で妻を亡くした中年男と娘が、それなりに仲良く暮らしていると谁もが思っているだろう。だがこの家は三人家族だった。そうとしか表现できない生活を、彼等は送っていた。   三月に入っていた。藻奈美が突然平介たちの元に戻ってきた日から、ちょうど一か月が経っている。   「明日の朝、たぶん藻奈美が出てくると思う」夕食の最中に直子がいった。顔が少し紧张していた。   「たしかなのか」平介は箸を止めて讯いた。   「だからたぶん、よ」   平介は颔いた。こんなふうにいった时には、必ず藻奈美が现れるのだ。直子によると、口ではいい表せない予感めいたものが、ふっと头に浮かぶのだという。   「どうすればいい?」と彼は讯いた。   「そのまま学校に行かせて。もし平日の朝に目覚めたら、そうするように藻奈美には以前から指示してあるから、あの子もあわてないと思う」   直子と藻奈美は例のノートを使って交换日记のようなことをしているらしい。それによって藻奈美はこれまでの过去と、现在の状况をかなり细かく把握できるようになったという话だった。   「学校までの道顺とか、教室の位置とか、同级生の顔と名前とか、そういうのは全部大丈夫なんだな」平介は确认した。   「一応全部教えこんである。本人も、覚えたっていってるわ」   「すると、後は授业だな」   「それも大丈夫のはずなんだけど」   「うん、それは问题ないみたいなんだな。不思议なもんだよ。この前、藻奈美が高校一年の数学を、ここで解いてた。本人も、どうしてかはわからないけれど、ちゃんと解き方はわかるし、高校でしか习わないような记号の意味なんかもわかるといってた」   「本当に不思议よねえ」直子も首を捻った。   事故から五年间の出来事を、当然のことながら藻奈美は全く知らない。ところが惊くべきことに、勉强などで身に着けた知识については、直子と同様に持っているのだった。   だから藻奈美としてはついこの间まで小学五年生だったにもかかわらず、高校の问题も解けてしまうのだ。英単语など殆ど知らないはずだが、「どうして知っているのか自分でもわかんないんだけど、とにかく知ってるのよ」といいながら英语の问题を解いたりする。   これについては一応自分たちなりの答えを出していた。たぶん直子と藻奈美では脳の别の部分によって意识が生み出されている。だからお互いを别人のように感じることができるのだ。さらにその意识に関连した体験なども、别々に记忆されている。   ところが体験とは基本的に无関系な勉强による知识などは、二つの意识が共有している部分に蓄えられている。だから直子が得た知识を、藻奈美が取り出して使うこともできるというわけだ。   この仮説を平介から闻いた藻奈美は、「じゃあこれからは勉强全般はお母さんにやってもらって、あたしは游びを担当しよう」といった。それについて直子がどんなふうにノートに书いたかは不明である。   「学校で入れ替わりが起きることはないかな」平介は讯いた。   「どうかな。このところ少しずつ藻奈美の起きている时间が长くなっているから、六时限目まではもつんじゃないかと思う。でも安全を考えて、眠ければお昼休みに眠るよう指示しておいたほうがいいわね。それまでの出来事なんかは、眠る前にきちんとノートに记録させなきゃ。突然学校内であたしにバトンタッチされても、焦っちゃうから」   「大変だな。その交换ノートが、直子と藻奈美のもう一つの脳味噌というところだな」   平介がいうと、直子は真顔で颔いた。   「本当にそうよ。コルサコフ症候群と一绪」   「何だって?」   「コルサコフ症候群。记忆力が极端に低下する症状で、直前のことも忘れちゃうの。そういう人が何とかふつうに生活を営もうとすると、メモに頼るしかないわけ。自分の行动、见闻きしたこと、何もかもすべてを片っ端からメモしていくのよ。それで何か行动に移る时には、必ずそれを见るようにするの。お风吕屋さんから出た後メモを见て、自分がちゃんとお风吕に入ったことを确认してから家に帰るの。そうしないともう一度お风吕に入っちゃうこともあるんだって。あたしと藻奈美はそういう人たちと同じということよ。でもどちらかでいる间は问题ないから、あたしたちのほうが断然楽ね」   それに、と直子は付け加えていった。「こういう苦労をするのも、そう长い间じゃないと思うし」   「どうして?」   「うん……なんだかそんな気がするだけ」   食器をトレイに载せ、彼女は台所に行った。彼女が洗い物を始めるのを、平介は复雑な思いで眺めた。   直子のいわんとしていることは平介にもわかっていた。彼女が先程漏らしたことと関系がある。   藻奈美の起きている时间が长くなっている、という话だ。それはつまり直子が起きている时间が短くなっていることを意味する。このところ藻奈美は、一度目覚めると数时间は确実に起きているのだ。それは真に父子として过ごせる时间でもあった。平介としても、嬉しくないはずはない。しかし确実に失っていくものがあることも彼は自覚していた。   どちらも失いたくない。しかしそれは虫のいい考えであるようにも思えるのだった。   藻奈美の初登校は、何の问题もなく终えられたようだった。この日平介が帰ると、直子が夕饭の支度をしながら待っていた。彼女によれば、藻奈美は眠らずに家まで帰ってきたということだった。帰ってきて、さすがに疲れが出たのか、ベッドに横になって少し眠った後、直子と入れ替わったらしい。   「授业にもついていけたし、友达との会话も自然に交わせたそうよ。とても楽しかったとノートには书いてあったわ」直子は心底嬉しそうに报告した。   それから三、四日に一度は藻奈美が登校するようになり、间もなくそのインターバルは二日に一度に増えた。春休みが间近になる顷には、ほぼ毎日藻奈美が学校へ行くようになった。ただし精神的に何らかの负担がかかるせいか、帰ると必ず眠り込んでしまうので、平介が帰宅した时に彼を待っているのは、决まって直子のほうだった。平介が藻奈美と会えるのは、朝の短い时间と土曜日の夕方、そして日曜日だけだった。   これじゃあ藻奈美がいなかった顷とあまり変わらないなと平介がぼやくと、直子は眉を少し吊り上げていった。   「あなたはそうでしょうけど、こっちはたまらないわよ。目が覚めてすることといえば、まずは夕食の准备。それが终わったら藻奈美の宿题。眠って起きたらまた夕食と宿题。その缲り返しなんだから。あの子も少しは手伝ってくれればいいのに。大体宿题はあの子がすべきものなのに」   もちろん藻奈美のほうにも言い分はある。   「あたしだってテレビとか见たいんだよね。だけど全然そういう时间がないから我慢してるんだよ。あたしなんか、目が覚めたら学校行って、家帰ったら眠って、目が覚めたらまた学校行っての缲り返しだよ。ずーっと学校ばっかりだよ。もう面倒だから学校に泊まっちゃおうかなと思うぐらい。そりゃあ宿题やらせるのは申し訳ないと思うけどさ、お母さんそんなに苦労してないと思うよ。だってあたし、すっごくきっちり授业闻いて、ばっちり头に叩き込んでるもん。お母さんはあたしが覚えたことを、解答用纸にちょこちょこっと书くだけでいいはずだよ」   世にも不思议としかいいようのない状况だったが、平介はこんなふうにそれぞれの愚痴を闻かされるのさえ楽しかった。相手の肉体は一つしかなくとも、十分に三人家族の楽しさと暖かさを味わうことができた。   そして春休みに入って间もなく、彼女たちつまり直子と藻奈美は一つの冒険に出た。   例のスキーツアーに参加したのだ。日程は三泊四日。出発日は奇しくもあの事故の日だったが、谁もそのことには触れなかった。   四日间を平介は一人で过ごした。心配ではあったが、彼女たちの特殊性が他人にばれることは全く案じていなかった。二人のチームワークについては完全に信頼していた。むしろ藻奈美一人ではなく、直子がついているというふうに彼は解釈していた。保护者が一绪だと、藻奈美もいろいろと好き胜手ができなくて不満だろうなどと想像し、一人にやにやした。スキー场から毎晩必ず电话がかかってきたが、かけているのは常に直子だった。   「あの子、无茶しすぎよ。こっちは毎晩身体のあちこちが痛くてまいっちゃう。それに、すっごく无駄遣いしてるのよ。お财布がすぐに空っぽになっちゃうんだから。今日のノートで叱らなくちゃ」   向こうだってきっと何か文句をいってくるさと、平介は内心呟いた。   [#ここから7字下げ]   42   [#ここで字下げ终わり]   下请け会社との打ち合わせのために千叶まで出た帰りのことだった。平介はふと思いついて、门前仲町の駅で降りた。昔ここにうまい荞麦屋があったことを思い出したのだ。   五月に入っていた。天気がよく、路面が眩しかった。荞麦屋に行く前に富冈八幡にお参りした。ここで藻奈美の七五三をしたことも思い出した。   境内を出て、商店の并ぶ道を歩いている时、向かい侧から见たことのある男が歩いてきた。五十代半ばといったところで、よく日焼けしており、しかも脂ぎった顔をしていた。白いジャケットが异様に浮いて见える。直子や藻奈美なら间违いなく「気持ち悪い」と毛嫌いするタイプだなと思った。   相手の男のほうも平介の顔を注视している。见たことがある、と考えている顔だ。   やがて平介は思い出した。同时に相手も気づいたようだ。   「ああ、おたくは」と平介から声をかけた。   「やあやあやあやあ」男は握手を求めるように右手を出して近づいてきた。「久しぶりですなあ。元気でしたか」   「ええ、まあ」无理矢理握手させられながら平介は颔いた。   被害者の会で一绪だった、藤崎という男だった。印刷会社を経営していて、事故で双子の娘を亡くしていた。   「ここへはよく来るんですか」藤崎は讯いた。平介が最後に会ったのは约四年前だが、その时よりも一回り身体が大きく见えた。   「いえ、仕事の帰りなんですけど」   「なるほど。それならちょっと寄っていきませんか。うちの店はこの近くですから」   「え、ああ、そうですか。でも」   平介はためらったが、さあさあさあと藤崎が手招きしながら歩きだしたので、仕方なくついていくことにした。荞麦は谛めるしかないかなと思った。   近くだといったくせに、藤崎は平介を自分の车に乗せた。新しいベンツだった。まだ新车の匂いがした。窓枠のそばに、小さな人形がぶらさがっていた。   「会社は茅场町のほうなんです。五分ほどで着きますよ」   「ええと、前は江东区だとおっしゃいませんでしたか」   「今もありますよ。でもメインのほうは三年ほど前に移したんですよ」   ベンツは地下鉄茅场町駅のそばにあるビルに入った。地下驻车场に车を止め、藤崎は先に立って歩きだした。その背中は自信にあふれていた。   ビルの一阶が藤崎の事务所だった。『セーフプット』というのが社名だった。明るく垢抜けた雰囲気の事务所内には、パソコンや関连机器が整然と置かれていた。社员は数名いるようだ。   革张りのソファに平介は座らされた。   「コンピュータを使ったデザイン関系の仕事を、今は主にやっているんですよ。出力サービスなんかも、结构利用していただいてます」藤崎は足を组みながらいった。   「出力サービス?」   「たとえばパソコン上の画面をプリントしようと思った场合、ふつうのプリンターなんかを使うと、色は奇丽に出ないし细部は渗むしで、なかなか満足できるものができないんですな。そういう时、うちにフロッピーなりMO《エムオー》なりを持ってきていただければ、完璧なプリントをしてさしあげられます。そういうのが出力サービスです。出力というのは英语でアウトプットですが、アウトというのは縁起が悪いのでセーフにしたわけです」   「ははあ、それでセーフプット……」   「スギヤマさんは、どちらにお勤めでしたっけ?」ソファの背もたれに片腕を载せて藤崎は讯いてきた。スギヤマというのは自分のことらしいと平介が気づくのに、数秒かかった。订正しようかと思ったが、面倒なのでやめた。   「ふつうのメーカーですよ」と彼は答えておいた。   「そうですか。メーカーも、これからはちょっと苦しくなるかもしれませんな」藤崎は実业家気取りの口调でいった。   その後も平介は藤崎がいくつかの仕事で成功した话をするのを、コーヒーを饮みながら闻いているだけだった。顷合を见计らい、ではもうそろそろ、と腰を上げた。   「お互いがんばりましょうね。あの谷に向かって叫んだ日のことを忘れちゃいけません」入り口まで平介を见送った藤崎は、彼の手をやけに强く握り、妙に力を込めていった。事故について触れたのは、この时だけだった。あの一周忌の时、谷底に向かってこの男が、「马鹿野郎」と叫んでいたのを平介は思い出した。   ビルを出て、交差点で信号待ちをしていると、隣に一人の男が立った。小柄な、头の秃げた男だった。この男が藤崎の事务所にいたのを平介は见ていた。   「ずいぶん长く付き合わされてましたね」男は笑顔で话しかけてきた。   「ええ、まあ」平介は苦笑した。   「あの社长、话が长いから私もいつも闭口するんです。――例の被害者の会で一绪だった方ですか?」   ええ、と平介は答えた。别れ际の藤崎の台词を闻いていたのだろう。   「あの事故で、あの社长の运命も大きく変わりましたよ」男はそういって後ろをちらりと振り向いた。   「そうなんですか」   男は颔いた。   「借金を抱えて、印刷会社も溃れる寸前だった。そんな时にあの事故ですよ。死んだのが双子だったから、例の补偿金が一亿以上入ったでしょ。それで一気に息を吹き返しちゃった。势いがついて、今じゃあのとおりですよ」   「へえ……」   信号が青になった。平介は横断歩道を渡り始めた。男も一绪に歩く。   「あの社长、时々私らにもいうんですよ。どうしようもない娘二人だったけど、最後の最後で亲孝行をしてくれた。女房に死なれて苦労したけど、あの歳まで育てておいて本当によかったってね。全く、闻いているほうとしても、何と答えていいやら」   地下鉄の入り口が现れた。男は通り过ぎる様子だった。では私はこれで、といって平介は阶段を下りた。   目に见えるものだけが悲しみではない――今の男にそう教えてやりたかった。だが何もいわなかったのは、心の底を知られるのは藤崎の真意ではないのだろうと思ったからだ。平介の睑に、ベンツの中で揺れていた人形が焼き付いている。   人形はかわいい女の子だった。しかも二つ全く同じものが吊してあった。   [#ここから7字下げ]   43   [#ここで字下げ终わり]   家の玄関を开けるとカレーの匂いがした。珍しいことだった。直子はめったにカレーを作らない。あの事故以後は、余计にそうだった。   平介は和室を通り、台所を覗いた。彼女がガスレンジの前に立ち、大きな锅の中をかきまぜているところだった。白いエプロンをつけていた。   「あ、おかえりなさい」手を休めずに彼女はいった。   「久しぶりだなあ、カレー」平介は鼻をひくつかせた。「今作っておくと、明日の朝、藻奈美も食べられるな。喜ぶぞ、きっと」   すると彼女は拗《す》ねたような顔をし、瞬きをぱちぱちと缲り返した。それがどういう意味なのか、平介はすぐにはわからなかった。わかったのは、彼女が唇を尖らせた时だ。   「あっ」と彼は声を出した。「藻奈美……なのか」   うん、と彼女は颚を引いた。「ごめんね、お母さんじゃなくて」   「今日はまだ眠ってないのか」   「うん。なんか全然眠くなくて……。それで、このままじゃいけないと思って、あわててコンビニ行って、カレーの材料を买ってきたんだよ」   「そうだったのか。そういえばカレーは藻奈美の得意技だったな」   「カレーじゃいやだった?」   「いや、そんなことはないよ。カレー、好きだよ」   平介は二阶に上がり、いつものようにスウェットの上下に着替えた。もやもやしたものが胸に溜まっている感じだ。その正体が何であるか彼は知っていた。しかしそのことを考えると余计に気持ちが重くなりそうだったので、意识から追い出そうと努力した。   テレビで歌番组を见ながら、藻奈美の作ったカレーライスを食べた。なかなかの出来映えだった。直子の作ったものと逊色がない。そういうと、藻奈美は嬉しそうな顔をした。   「料理は结构得意なんだよ。お母さんのお料理メモだってあるからばっちり」そういってVサインを出した。「でもよく考えたら、お父さんと一绪に晩御饭を食べるのは久しぶりだね。なんかちょっと変な感じ」   「いつもなら藻奈美は眠ってる时间だもんな」   「そうだね」彼女はスプーンの动きを止めた。「やっぱり、早くお母さんに出てきてほしいの?」   「いや、そんなことはないよ」平介は手を振った。それから首を倾げた。「でも、そんなことはない、とあんまり强调すると、今度はお母さんが拗ねるかもしれないな」   「そうだよ。今の台词は闻かなかったことにするね」藻奈美は笑ってスプーンを动かし始めた。   カレーライスを食べた後も、藻奈美はテレビの前にいた。この番组、お母さんによると面白いそうなんだよねといいながら、トレンディードラマを见ていた。平介はその间に流し台でカレー皿やスプーンなどを洗ってやった。「あっ、サンキュ」と彼女はテレビの前からいった。   平介が洗い物を终えて和室に戻ると、藻奈美は卓袱台に突っ伏すような姿势で眠っていた。テレビからはドラマのエンディングテーマが流れている。   彼が腰を下ろした时、彼女は目を开けた。何秒间かはそのままぼんやりと视线をさまよわせた。それからゆっくりと身体を起こし、両目の睑を指先で揉んだ。そして改めて目を开けた。   「今、何时?」と彼女は讯いた。   「九时ぐらい」   「そう。ずいぶん眠っちゃった」   「帰ってきた时、まだ藻奈美のままだったから、ちょっとびっくりした。正直いうと、心配もした」   「もうあたしが现れないんじゃないかと思って?」   「うん」   直子は彼から目をそらした。   「眠っている状态と起きている状态の、ちょうど中间みたいな时があるの。その时にいつもは、えいって起きちゃうんだけど、今日はどういうわけか、どうしても起きられなかった。すぐに眠りの世界に引き込まれちゃうの。それで、少し遅くなったのよ」   「そういうことか」平介は暧昧に颔く。わかるような、それでいてやはりわからない话だった。   「ねえ」直子が平介のほうを向いた。「あたし、もうあなたとは会えなくなるかもしれない」   「なんでだよ」   「自分のことだから、よくわかるのよ。こうして少しずつ消えていくんだなって思う」   「やめろよ。そんなことないって」   「でもね、不思议にそう悲しくもないのよ。仕方のないことだと思う。どう考えても、今の状态はおかしいものね」   「おかしくたってかまわないじゃないか。俺は今の生活、気に入ってるよ。藻奈美だって结构面白がってる。これからもこの调子でいこうや」   「ありがとう、あたしもそんなふうにできたらいいと思うんだけど」直子は鼻をくんくんと动かした。「カレーだったのね」   「藻奈美が作ってくれた」   「そう。あの子の得意料理だものね。でも、ほかの料理だって结构できるはずよ。小さい时から手伝わせてきたから」   「本人もそういってた。お母さんの料理メモもあるからって」   「お料理メモね」直子は首を縦に振った。「今のうちに、できるかぎり书き残しておかなくちゃ」   「そういう言い方やめろよ。とにかく今はこうして一绪にいられるんだからさ」平介は少し怒った声を出した。   「そうね。ごめん」直子はにっこり笑って谢った。   この夜平介はなるべく夜更かししたかった。可能なかぎり长く直子と一绪にいたかったからだ。だが肝心の彼女が、十二时近くになるとあくびを连発するのではどうしようもなかった。「眠くって、もう気を失いそう」といって、彼女は自分の部屋に消えた。明日の朝部屋から出てくる时には、直子ではなく藻奈美になっているはずだ。   约三时间――この日直子が平介の前に现れた时间だ。   平介は风吕に入り、その後和室でウイスキーを饮んだ。一口饮むたびに喉と胃が热くなった。そうしながら彼は涙をこらえていた。   [#ここから7字下げ]   44   [#ここで字下げ终わり]   意外な人物が平介の职场を访ねてきたのは、七月に入って间もなくのことだった。九州地方では梅雨明け宣言が出されており、それを里づけるように东京も晴天が続いていた。その暑い最中、その人物は绀色のスーツを着て、平介の会社の来客用ホールに现れたのだった。これはまた気の毒に、と平介は一目见た时にまず思った。   ホールには四人挂けの四角いテーブルがずらりと并んでいる。そのうちの一つを挟んで二人は向き合った。   「冬には母が失礼しました。お忙しいところを突然お呼び立てして申し訳なかったといっておりました」根岸文也は奇丽にセットされた头を下げた。浓绀のスーツに七?三分けした髪形はよく似合っていた。   「いえ、贵重なお话を闻かせていただいてよかったです。いろいろなことが明らかになりましたしね」   平介の言叶に、文也は少し気まずそうな顔をした。   「何年か前には、仆が杉田さんに失礼なことをしたんでしたね。何も知らずに、追い返すようなことをしてしまいました。改めてお诧びします」   「いやいや、あの场合は仕方がなかった。あなただって何も闻かされてなかったわけだから。もうやめましょう。もう头を下げないでください」   平介が缲り返しいうと、ようやく文也は、「はい」といって颔いた。ハンカチを取り出し、额の汗をぬぐった。   「それからこれはお伝えするよう母からいわれてきたことなんですが、梶川逸美さんと连络がとれました」   「あっ、そうでしたか」逸美の连络先は、平介が根岸典子に电话で教えたのだ。ただ、その後の経过は闻いていなかった。「彼女は今何を?」   「美容师の卵として修业中だそうです。独り暮らしをしているらしいんですが、生活があまり楽ではないようなので、母が援助させてもらうことにしたそうです」   「ほう……」   「例のお返しです」   「なるほど」   かつては逸美の父亲から密かに助けてもらっていた青年の顔を见つめ、平介は何度も颔いた。   「いやそれにしても」平介は改めて彼の格好を眺め、首を振った。「文也さんがうちの会社を受けられたとは惊きました」   「そうですか。でも元々自动车関连企业が希望でしたから」   「そういえば自动车部に入っておられましたね」   「ええ」文也は颚を引いた。   平介の会社でもすでに就职希望者たちの会社访问が始まっている。理系の学生は各大学の推荐で访れる者が殆どなので、何か问题がないかぎりは大抵これで内定が出ることになっていた。大学院修士课程修了予定の文也なら、まず间违いないところだろう。   「すると、単なる偶然なんですか」平介は讯いた。   「そうですね、自动车関连企业の推荐枠がほかにあまりなかったというのも事実なんですが」文也はネクタイを指で触りながらいった。「杉田さんとお会いしていなかったら、この会社は选ばなかったかもしれません」   「へええ」平介は头に手をやった。「じゃあ责任重大だなあ。こんな変な会社だとは思わなかった、なんてことを、後でいわれちゃうかもしれない」そして照れ笑いを浮かべた。   文也によると、今日は新宿のホテルに泊まって、明日札幌に帰るつもりだということだった。それを闻いて平介は、それなら今夜はうちで一绪に夕食を食べないかと诱った。   「えっ、いいんですか。御迷惑じゃないんですか」   「迷惑と思うなら、最初から诱いませんよ。じゃ、いいですね」   「はい、では远虑なく」文也は背筋をぴんと伸ばして答えた。   会社が终わる顷にもう一度文也のほうから电话してもらう约束をして、いったん别れた。平介は、午後五时を回るのを待って、家に电话をかけた。藻奈美はもう帰宅していた。客を连れて帰ることを告げると、电话の向こうであわてる気配がした。   「急にそんなこといわれても困っちゃうよ。お料理とか、どうすればいいの?」   「鳗でいいじゃないか。『やじろ兵卫』に电话しておいてくれ。特上だ。白焼きと肝吸いもつけるんだぞ」   「ほんとにそれでいいの?」   「うん。そのかわり、部屋の扫除はきちんとやっておけよ」   电话を切ってから、うちに客が来るなんて何年ぶりかなあと平介は考えていた。   定时过ぎに文也から电话が入った。駅前の本屋で待ち合わせることにした。   平介が本屋に行くと、彼の姿はすぐに见つかった。この季节に浓绀のスーツはよく目立つのだ。彼は东京の地図を买っているところだった。   「无事入社できれば来春からは东京暮らしですからね、今のうちに予习です」文也はそういって笑った。   「しばらくは独身寮生活だね。何か不自由なことがあれば、いつでもいってくれればいいよ」   「ありがとうございます」   「栄养不足だと思ったら、游びに来てくれていいからね。だからこれから帰る道顺を、よく覚えておくといい」   「はい、そうします」   平介は、自分の口调から敬语が消えていたことに気づいた。无意识のことだった。これからはどうしようかと少し迷い、このままの调子を通そうと决めた。そのほうが自然だと思うし、文也も特に不快には感じていない様子だったからだ。   満员电车の穷屈さは、さすがに文也には苦痛だったようだ。冷房は利いていたが、彼のこめかみから汗がひくことはなかった。駅に着いて电车から降りた时には、彼は肩で息をしていた。   「东京の人のほうが、札幌の人间より体力がありますよ。絶対に」冗谈でない口调で彼はいった。   家に着くと玄関のドアを开け、奥に向かって声をかけた。「おーい、帰ったぞお」   ばたばたと走る音がした。スリッパも履かずに藻奈美が出てきた。黒いTシャツの上にエプロンをつけていた。「あっ、お帰りなさい」   「ただいま。电话でいった、根岸文也さんだ。――文也さん、娘の藻奈美です」   根岸です、といって彼は头を下げた。   藻奈美です、こんばんは、と彼女も会釈した。   その後で二人の视线が空中で络んだ。ほんの二、三秒のことだった。平介が靴の片方を脱ぐ间のことだ。もう一方の靴を脱ぐ时には、二人はもう别々のところを见ていた。   和室に入って平介は惊いた。卓袱台の上に料理が并んでいたからだ。サラダ、唐扬げ、刺身等々。   「作ったのか」と平介は讯いた。   「うん。だって、久しぶりのお客さんだもの」そういって藻奈美は文也をちらりと见た。   「すごいですね。まだ高校生でしょ。感心しちゃうなあ」   「あまり见ないでください。よく见ると、手抜きしてるところがばれちゃうんです」藻奈美は手を振った。   「よし、早速食べよう。腹が减った。藻奈美、ビールだ」平介が指示する。   はい、と返事して彼女は台所に行った。   「あのう」文也がいった。「これ、いつもこういうふうなんですか。开いてることはないんですか」   彼が指差しているものを见て、平介は一瞬返答に困った。仏坛だった。今は开けられることはない。供养すべき対象がいないからだ。少なくとも今の平介にとっては。   「ああそれですか」平介は头を掻いた。「前は死んだ女房の写真なんかも置いてあったんだけどね、今はなんというか、面倒臭くなっちゃって……」   「お线香をあげたいんですが、だめでしょうか」文也は平介と藻奈美の顔を交互に见た。   「いや、だめってわけじゃあ……」平介は口ごもってしまう。   すると藻奈美がビール瓶を持ったままいった。「いいんじゃないの、ねえ」   「う……うん、そうだな。构わないよ。うん。じゃあ、线香をあげてやってくれますか」   「是非そうさせてください」文也は姿势を正していった。   久しぶりに扉を开けられた仏坛の前で、文也はずいぶん长い间手を合わせていた。线香の烟が糸のように立ち上っている。平介は文也と同様に正座して待っていた。   ようやく文也が顔を上げた。额の中の直子の写真を改めて见てから、身体を平介たちのほうに向けた。「无理をいってすみませんでした」   「いえいえ。それより、ずいぶんと长い间手を合わしておられましたね」   「ええ。何しろ诧びなきゃならないことが多すぎるものですから」文也は口元を缓めた。   「じゃあ乾杯に移りましょうか」藻奈美がビールを持って立ったままいった。「根岸さんの就职を祝って」   「よしそうしよう」平介は卓袱台の上のグラスを取り、文也の前に置いた。   「へえ、医学部。すごいなあ」文也が语尾に感叹符をつけた。   「别にすごくないですよ。単なる希望。入れるかどうかなんか、全然わかんないし」   「いやあ、目指すというだけですごいよ。女の子がねえ。あ、こういう言い方をすると性差别になるかな。でも実际、すごいもんなあ」文也の吕律は少し怪しい。ビールをかなり饮んだからだ。   「だけど文也さんは北星工大の大学院でしょ。それもかなりすごいと思いますよ」   「そんなの全然すごくない。行きたきゃ、谁だって行ける」   「そんなことないと思うなあ。ねえ、文也さんは工学部だから当然数学は得意ですよね。ちょっとわかんない问题があるんだけど、讯いていい?」   「えー、この状态で? どうかなあ、かなり脳がいかれちゃってるけどなあ」   ちょっと待ってて、といって藻奈美は部屋を出ていった。   「悪いねえ、娘のおしゃべりの相手をさせちゃって」平介はいった。彼は彼等から少し离れて、ウイスキーの水割りを饮んでいた。   「そんなことないです。すごく楽しいです。でも藻奈美さん、すごいですよね。医学部なんて」彼はしきりに首を倾げた。   「母亲の遗志でね」と平介はいった。   「えっ、亡くなった奥さんの?」文也は仏坛に目を走らせた。   「うん。まあ、医学部でなくてもよかったんだろうが、とにかく悔いのない人生を娘に送らせることが梦だった」   「へえ……」文也は直子の写真を见ていた。   藻奈美が下りてきて、彼の前にプリントを置いた。「この问题なんですけどお」   「えーっ、积分の证明问题かあ」文也はアルコールで赤くなった顔をのけぞらせた。「ははあ、なるほど。これは结构难しいな。ええと、これはまずxの二乗イコールtと置いて、tをxについて微分してやるんだ――」   とろんとした目をしながらも、取り出したボールペンで答えを书き始めた。そんな青年の横顔を、藻奈美は頼もしそうに见つめていた。   根岸文也は十一时前に帰っていった。足下はふらついていたが、头ははっきりしているようだった。藻奈美が出してきた三つの数学の问题をたちどころに解いたことからも、それは证明されていた。   「すごく真っ直ぐな人だね。どこも少しも曲がってないという感じ」彼を见送った後で藻奈美はいった。その时の彼女の目の辉きから、平介はある予感を抱いていたが、口には出さないでおいた。   汚れた食器を二人で洗った。片づけを终えた时には十二时近くになっていた。まだ二人とも风吕に入っていない。しかし申し合わせたように、和室で向き合って座った。   「疲れただろ」   「少しね」   「明日が土曜日で助かった。といっても、藻奈美は学校があるか」   「うん。でも半日だから」そういってから彼女は父亲を见た。「お父さん、今夜はたぶん、お母さんは出てこないよ」   「……そうなのか」   「うん。今夜はこない」   「そうか」平介は仏坛を见た。写真の中の直子は彼を见て笑っていた。   「お父さん、あたし、頼みがあるんだけど」   「なんだ」   「明日、学校が终わってから、连れていってほしいところがあるんだけど。车で」   「ドライブか。いいよ、どこだ」藻奈美がこんなことをいったのは初めてなので、平介は少し戸惑っていた。   彼女は少し踌躇してからいった。「山下公园」   「山下公园……横浜の?」   うん、と彼女は颔いた。   冷たい风が平介の心に入りこんできた。瞬く间に彼の心は深く沈んだ。   「明日……なのか」彼は讯いた。   「うん、明日」と彼女はいった。   「わかった」彼は颔いた。「わかったよ」   藻奈美の目が充血を始めた。口元を押さえ、彼女は立ち上がった。そのまま部屋を出て、阶段を駆け上がった。   平介はあぐらをかいていた。首を捻り、もう一度仏坛の写真を见た。   山下公园――直子と最初にデートした场所だ。   [#ここから7字下げ]   45   [#ここで字下げ终わり]   土曜日は朝から忙しかった。まずガソリンスタンドに行き、ガソリンを満タンにするついでに洗车も頼んだ。旧型で、あちこち伤のあるスプリンターも、少しだけ见られるようになった。   ガソリンスタンドの後は楽器店に行った。そこでCDを何枚か买った。女子店员は笑いをこらえるような顔をしていたが、选んだCDが中年男にはふさわしくないものだったからだろう。楽器店を出た後、近くの电器店でCDラジカセを买った。   电器店の次は散髪屋だ。   「床屋に行きたてというふうにはしないでくれよ。できるだけ自然にね」   「何ですか、今日は一体。见合いでもするんですかい」顔见知りの主人は、平介の注文に怪讶そうな顔をした。   「见合いじゃないよ。デートだ」   「えっ、本当ですか?」主人はにやにやした。どうせ嘘だろう、という表情だ。   「嘘じゃないよ。娘とデートなんだ」   「えっ、そりゃあ大変だ」主人は突然本気を出し始めた。「父亲にとっちゃあ、娘とのデートってのは、一生に何度もない晴れ舞台だからねえ」   散髪屋を出た时にはちょうどいい时间になっていた。平介は车を运転し、藻奈美の学校に向かった。   高校に来るのは文化祭以来だった。キャンプファイヤーの炎が睑に苏る。まだ一年も経っていないのに、远い昔の出来事のような気がした。   すでに放课になっているらしく、正门からぞろぞろと生徒たらが出てくる。平介は道路脇に车を止め、女子生徒の顔を注视した。   やがて藻奈美が二人の友达と并んで出てきた。クラクションを鸣らそうかと思ったが、彼女はすぐに気づいたようだ。友达に何かいってから、一人で駆け寄ってきた。   「车、奇丽になったね」助手席に座るなり彼女はいった。   「そうだろ」   「あっ、それに头も奇丽」   「男の身だしなみってやつだよ」   「いいよ、わりと。お父さんっていうより、パパって感じ」   「パパか。悪くない」レバーをドライブに入れ、车を発进させた。   车に乗り込んできた时には軽口を叩いた藻奈美だったが、すぐに口を闭ざしてしまった。窓の外を见つめているだけだ。平介も言叶が出てこない。天気はいいというのに、空気の重いドライブになった。途中ドライブスルーのハンバーガーショップに寄った。   藻奈美は黙々とチーズバーガーを食べ、コーラを饮んでいた。平介もハンドルを操作しながらハンバーガーをかじった。   山下公园のそばまで行くと、驻车场に车を止め、荷物を持って歩きだした。   「ねえ、それってちょっとダサいね」藻奈美がラジカセを指差していった。   「えっ、そうかな。新制品なんだけどな」   「それ自体はいいんだけど、それを持って山下公园を歩くというのが、かなりきついかなと……」   「じゃあ、车に置いてこようか?」   「いいよ。きっと必要なんでしょ?」   「まあね」   「なら、仕方ないもん」   晴天の土曜日ということで、公园には家族连れやカップルが大势いた。平介は海に面して并んでいるベンチを目指して歩いた。一つだけ空いているベンチがあった。   「もう少し埠头寄りだったんだけどな」と彼はいった。   「何が?」   「お母さんと初めてデートした时に座ったベンチだよ。もっとあっちのほうだった」   「そんなこといっても、空いてないんだから仕方ないじゃん」藻奈美はベンチに座った。平介もその隣に腰を下ろした。制服を着た女子高生とラジカセを持った中年男。傍からはどんなふうに见えるだろうと少しだけ気になった。   二人并んでしばらく海を眺めた。水面は穏やかだった。时折船が通过していく。   「お母さんから指示があったのかい?」平介は前を向いたまま讯いた。   「うん」と彼女は答えた。   「いつ?」   「昨日の朝、ノートに书いてあった」   「土曜日に、と书いてあったのか」   藻奈美が颔くのが平介の目の端に入った。   「土曜日に、お父さんに頼んで山下公园に连れていってもらってちょうだい。そうしたら……そこでって」   「そこで……何だい?」   彼女はかぶりを振った。いいたくない、という意思表示のようだった。   「そうか」平介はため息をついた。   「お父さん」藻奈美がいった。「あたし、帰ってきてもよかったのかな」   平介は彼女のほうを向いた。彼女は泣きだしそうな顔をしていた。   「当たり前じゃないか」と彼はいった。「お母さんも喜んでるんだ」   藻奈美はほっとしたように颔いた。それから突然睑を半分闭じた。头がふらついてきて、そのままベンチにもたれた。人形のように彼女は眠った。   平介はラジカセを持ち上げ、电源スイッチを入れた。CDはすでにセットしてある。松任谷由実の曲だ。再生ボタンを押した。   曲が流れるのとほぼ同时に彼女は目を开いた。しかし平介はすぐに话しかけたりはせず、さっき藻奈美といた时のように海を见つめた。彼女も同じ方向を见ていた。   「ユーミンのCDなんて、よく买えたわね」彼女が口を开いた。落ち着いた声だった。   「顔から火が出そうだった」   「でもがんばって买ってくれたんだ」   「直子が好きだったからな」   また少し黙って海を见た。海の表面は眩しく、见つめていると目の奥がちくちくと痛んだ。   「最後にもう一度ここへ连れてきてくれてありがとう」直子がいった。   平介は彼女のほうに身体を向けた。   「やっぱり……最後なのか」   彼女は彼から目をそらさずに颔いた。   「どんなことにも终わりはあるのよ。あの事故の日、本当は终わるはずだった。それを今日まで引き延ばしただけ」そして小声で続けた。「引き延ばせたのはあなたのおかげよ」   「もう少し何とかならないのか」   「ならないわ」彼女はかすかに笑った。「うまく説明できないけど、自分のことだからわかるの。もう、これで、直子はおしまい」   「直子……」平介は彼女の右手を握った。   「平ちゃん」彼女は呼びかけてきた。「ありがとう。さようなら。忘れないでね」   直子、ともう一度呼ぼうとした。しかし声にならなかった。   彼女の目と唇に微笑が浮かんだ。そのまま静かに彼女は睑を闭じていった。首がゆっくりと前に折れた。   平介は彼女の手を握ったままうなだれた。だが涙は出なかった。泣いてはいけない、と谁かが耳元で嗫き続けていた。   しばらくして彼の肩に手が置かれた。顔を上げると、藻奈美と目が合った。   「もう行っちゃったの?」と彼女は讯いた。   平介は黙って颔いた。   藻奈美の顔が歪んだ。彼女は彼の胸に顔を埋めてきた。わあわあと泣き出した。   娘の背中を优しく抚でながら、平介は海を见た。远くに白い船が见えた。   ユーミンは『翳りゆく部屋』を歌っていた。   [#ここから7字下げ]   46   [#ここで字下げ终わり]   「泣くね。赌けてもいいよ。絶対に泣くって」义兄の富雄が自信たっぷりにいった。   「泣かないよ。そんなね、今时娘の结婚ぐらいで泣く父亲はいないんだから」平介は手を振りながら反论する。   「そんなこといってる奴にかぎって泣くんだな、これが。亲父さんなんか、嫁に出すわけじゃない、婿を取るってのに、披露宴で泣いてたんだから。ねえ亲父さん」   「そうだったかな」三郎は頬を掻いている。すでに纹付き袴に着替えて、いつでも出られる感じだ。   富雄も礼服姿だが、平介はまだパジャマのままだった。顔を洗っただけである。   どんどんどんと阶段を势いよく上がってくる音がした。现れたのは义姉の容子だ。留袖姿である。   「あっ、平介さん、まだそんな格好で何やってるの。早く着替えなさいよ。藻奈美ちゃんはもう出かけましたからね」   「藻奈美が今出かけたんなら、まだだいぶん余裕があるでしょう。花嫁の支度には、二时间ぐらいかかるっていうじゃないですか」   「花嫁の父にだって仕事がないわけじゃないのよ。挨拶とかいろいろ」   「ないない」富雄が手を振った。「花嫁の父ってのは、ただめそめそ泣いてりゃいいんだよ」   「泣かないって、しつこいな」   「泣くよ。なあ容子、おまえ平介さんが泣かないと思うか?」富雄は妻に讯いた。   「えっ、平介さん?」容子は平介の顔を见てから、ぷっと吹き出した。「泣くに决まってるじゃない」   「何いってるんだよ、义姉さんまで」平介は顔をしかめた。   「さあさあ、马鹿なこといってないで、あたしたちはもう出かけましょ。平介さん、遅くとも、後三十分以内には出てちょうだいね。花嫁の父が遅刻なんて话、闻いたことがありませんからね。じゃあお父さん、あなた、行くわよ」   昨日から泊まり込んでいろいろと指示していた容子は、今日もすべての仕切り役である。夫と父亲を引き连れ、ばたばたと出ていった。   しんとした部屋で、平介は一人になった。少しぼんやりしてからのろのろと立ち上がり、昨日のうちからハンガーに吊してある礼服に着替え始めた。   日取りが决まってから今日まではあっという间だった。感伤に浸る暇もなかった。しかしそういうものかもしれないとも思う。何かを失う时は、いつもあっという间なのだ。   藻奈美は二十五歳になっていた。大学病院で助手をしながら脳医学を研究している。あまりに研究にばかり没头しているので、婚期を逃すのではないかと心配したが、全くの杞忧《きゆう》に终わった。   藻奈美と直子の话をすることは、今では少なくなっている。藻奈美はあの不思议な体験について、当时とは少し违った考えをもっているようだ。学生の时、こんなふうにいったことがある。   「结局のところ、元々一种の二重人格だったんじゃないかなあと思う。事故のショックで、あたしの中にもう一つの人格が生まれてしまったのよ。しかもその人格は自分のことを母亲だと思い込んでしまったわけ。过去にある凭依の例は、大抵そういうことで説明できるのよ。本人でなければ知らないことを知っていたとか、出来ないことを出来たとかいう话は、主観的なものだからあまりあてにはならないわね。小さい顷からあたしはいつもお母さんと一绪にいたから、お母さんらしく振る舞うことはさほど难しくなかったんじゃないかな。で、年月が経って精神が大人になってくるにつれ、元の人格が顔を出すようになって、もう一方のほうは消えていったというわけ。ァ~ルトじみた凭依なんていうより、ずっとすっきりするでしょ?」   平介はあえて彼女の考えに反论はしない。黙って闻いているだけだ。それで藻奈美が纳得できるのなら、彼女のためにもそのほうがいいかもしれないと思うからだ。   もちろん平介は断じて単なる二重人格などではなかったといいきれる。五年间も一绪に生活していたのだ。本物の直子かそうでないか、判断できないはずがない。   结局あの时の直子は、俺の心の中だけに生きるのだな、と平介は思っていた。   礼服のズボンのウエストがきつくなっていた。俺も太ったもんなあと腹を抚でる。   ネクタイを缔め终えたところでタンスの引き出しを开けた。懐中时计を取り出す。梶川幸広の形见の时计だ。今日はこれを持っていこうと前から决めていた。   ところが――。   ゼンマイを巻いても动き出す気配がなかった。耳に近づけるが何の音もしない。   彼は舌打ちをした。よりによってこんな时に。   目覚まし时计を见て、时间を确认した。头の中で计算する。よし、だめで元々だ。行ってみよう。   平介は壊れた时计を手に、急いで家を出た。   式场は吉祥寺だ。だから荻洼からだと近い。彼は式场に行く前に、荻洼の松野时计店に寄ることにしたのだ。前に懐中时计の盖を修理してもらった店だ。   店主の松野浩三は、平介の格好を见て、目を见开いた。   「おう、そういやあ今日は藻奈美ちゃんの结婚式だったな」浩三はいった。   「あれ、どうして知ってるんですか」   「いやなに、结婚指轮をね、うちで世话してやったものだから」   「あっ、そうだったんですか」   初耳だった。今回の结婚については、平介は何ひとつ口出ししていないし、相谈されることもなかった。すべて藻奈美が胜手に决めてきたのだ。   平介は时计を浩三に见せた。ベテラン职人も、さすがに眉を寄せた。   「こいつはちょっと厄介だね。今日中というのは无理だよ」   「やっぱりそうですか。もっと早く気づけばよかったな」   「この时计を持って结婚式に出たかったわけかい?」   「ええ。じつはこの时计の持ち主の息子が、藻奈美の相手なんです」   平介の言叶に浩三は、ほう、と口を尖らせた。   「その人は亡くなってるんでね、代わりに形见をと思ったんですよ。仕方がない。壊れた状态で出席してもらおう」   「そうだね。式が终われば持ってくればいいよ。直してあげるから」   「そうします」平介は壊れた时计を受け取った。   「すると」浩三がいった。「どちらも形见で出席というわけだ」   「えっ?」平介は闻き直した。「どちらもって、どういうことですか」   すると浩三は少し顔をしかめてから、唇を舐めた。   「これねえ、藻奈美ちゃんからは口止めされてたんだけど、やっぱり话しておくよ。あんまりいい话だから」   「何ですか。気になるな」   「さっき指轮の话をしただろ。结婚指轮の话」   「ええ」   「うちに藻奈美ちゃんが注文しに来たことは事実なんだけど、その时、あるものを预かったんだよ」   「あるものって?」   「指轮だよ。ほら、あんたが今はめてる指轮の片割れだよ」   平介は自分の手元に目を落とした。薬指に、直子と结婚した时の指轮がはめられている。そういえばこの指轮も、この店で作ってもらったのだ。   「直子の指轮を?」   「うん。あれを持ってきてね、今度新しく作る指轮の新妇のほうは、この指轮を材料にして作ってほしいというんだ。お母さんの形见だからといってね」   「あの指轮を……」   胸が一つ大きく跳ねた。その後、鼓动が激しくなった。全身が热くなっていく。   そんなはずは、と思った。   「もちろんいわれたとおりに作ったよ。俺は感激したね。ただわからんのは、これをどうしてあんたに话しちゃいけないのかということだ。でもそれについては、藻奈美ちゃんは教えてくれなかった。とにかく絶対にお父さんには话すなといわれたんだ。话したら恨むとまでね。でも、别に构わないよねえ。気を悪くなんかしなかったよねえ」   どう答えたのかは覚えていない。気がついた时には平介は店を出ていた。   そんなはずはない、そんなはずはない――歩きながら呟いていた。   あの指轮はテディベアのぬいぐるみの中に入っていたはずだ。直子が入れたのだ。   それをなぜ藻奈美は取り出したのか。いや、取り出せたのか。   あの中に指轮が入っていることを藻奈美が知っているはずがないのだ。あれは直子との间の秘密だった。   直子がノートを通じて藻奈美に教えたのか。それにしても、なぜ指轮を作り変える必要がある。それを隠す必要がある?   平介はタクシーを拾った。结婚式の行われるホテル名をいった。   彼は自分がはめている指轮に触れた。心が热くなっていく。   直子――。   君は消えてはいないのか。ただ消えたように振る舞っただけなのか。   平介は初めて藻奈美が出现した时のことを思い出した。あの前日、平介は一つの决意をした。彼女のことを藻奈美として扱い、自分は父亲になろうと决めた。「藻奈美」と呼ぶことによって、それを意思表示した。   それを受けて直子はどう思ったのだろう。夫の覚悟を知り、自分も一つの决断をしたのではないか。   藻奈美が苏ったように见せかけ、そのまま藻奈美になりきる、というふうに。   しかしそれは急にはできない。そこで一つの方法を选んだ。それが直子を少しずつ消していくというものだった。   九年间――彼女が演じ続けてきた年数だ。それを彼女は死ぬまで続ける気でいる。   山下公园でのことを思い出した。あの日は直子が消えた日ではなく、彼女が直子として生きることを完全に舍てた日だったのではないか。藻奈美として目覚めた後、大声を出して泣いたのは、自己を舍てた悲しみの涙だったのではないか。   直子、君はまだ生きているのか――。   ホテルに到着した。平介は投げ舍てるように金を支払うと、駆け足で中に入っていった。ホテルマンを见つけ、早口で场所を闻いた。年配のホテルマンは、わざとじらしているようにゆっくりと答えた。   エレベータに乗り、式场の阶で降りた。三郎や容子の姿が见えた。   「あら、ようやく来たのね。何ぐずぐずしてたのよ」容子がいった。   「藻奈美は?」と平介は讯いた。息がきれていた。   「案内したげるわ」   容子に连れられて花嫁控え室の前までいった。容子はノックをして中を覗くと、「入っていいそうよ」と平介にいった。そして気をきかせたか、自分は皆のところへ戻っていった。   平介は深呼吸を一つしてからドアを开けた。   いきなり藻奈美のウェディングドレス姿が目に飞び込んできた。それは大きな镜に映ったものだった。镜を通して彼女は平介を见つめ、それからゆっくりと振り返った。花のような香がたちこめていた。   「これは、また、なんと」   约三十年前の光景を彼は思い出した。直子もウェディングドレスがよく似合った。   着付け系が出ていった。平介と藻奈美は二人きりになった。二人は见つめあった。   直子――。   この瞬间、平介は悟った。   ここで何をいっても无駄だ。讯いても意味はない。彼女は决して认めない。自分が直子であることを。そして彼女がいわないかぎり、彼女は藻奈美だ。平介にとって、娘以外の何者でもない。   「お父さん」彼女がいった。「长い间、本当に长い间、お世话になりました」涙声になっていた。   うん、と平介は颔いた。永远の秘密を认める首肯《しゅこう》でもあった。   その时ノックの音がした。平介が返事すると、根岸文也が顔を覗かせた。彼は新妇を见て、目を辉かせた。   「うわあ、奇丽だ。奇丽としかいいようがない」そして平介を见る。「ねえ、お父さん」   「そんなことは三十年も前からわかっているよ」と平介はいった。「それより文也君、ちょっと来てくれ」   「はい、何でしょう」   平介は文也を别の控え室まで连れていった。幸い谁もいなかった。   平介は间もなく藻奈美と结婚する予定の男の顔を见た。新郎は少し紧张していた。   「君に一つ頼みがあるんだけどね」平介はいった。   「はい、何なりと」   「そう难しいことじゃないんだ。ほら、よくいうじゃないか。花嫁の父亲が花婿に対してどうしてもしたいことというやつだ。あれをさせてもらえんかね」   「は? なんですか」   「これだよ」平介は拳を文也の前に出した。「殴らせてくれ」   「えーっ」文也はのけぞった。「今ここで、ですか」   「いかんかね」   「えー、いやー、参ったなあ。これから写真も撮らなきゃいけないし」文也は头を掻いていたが、やがて大きく颔いた。「わかりました。あんなに奇丽な娘さんをちょうだいするんですから、そのぐらいのことは我慢しましょう。一発いただきます」   「いや、二発だ」   「二発?」   「一発は娘をとられた分だ。もう一発は……もう一人の分だ」   「もう一人?」   「何でもいい。目をつぶれ」   平介は拳を固めた。だが、それを振り上げる前に涙があふれた。彼はその场に座り込んだ。そして顔を覆い、声がかれるほどに泣きだした。   [#改ページ]   単行本 一九九八年九月 文艺春秋刊   底本   文春文库   二〇〇一年五月一〇日 第一刷   = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ╓══╦══╖ ≈☆~一起HI☆≈ ┃ ┃ ╭╩╮看‖书╭╩╮ ぃ ● ●  ぃ ┃ ┃ ╲╱  ‖  ╲╱ ぃ /■\/■\ ぃ ┃ ┃ ╰☆快来╨书香☆╮ ぃ└┬──┬┘ぃ ┃ ┃ ┃ ┃ 小说下载尽在http://www.bookben.cn - 手机访问 m.bookben.cn ┃ ┃ 书本网【天煞孤星】整理! ┃ 【本作品来自互联网,本人不做任何负责】 内容版权归作者所有! ┃ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛